第十八話:見えざる刺客、飛鳥封鎖(疫病編・前編)
――西暦六一二年(推古二十年)晩秋。
飛鳥リーグの熱狂が冷めやらぬ都に、その「死」は音もなく忍び寄った。
最初は、難波の港から戻った一人の行商人だった。
激しい高熱と、全身に浮かび上がる不気味な赤い斑点。当時の人々が「赤もがさ」と呼び、神の祟りと恐れた病――**天然痘**である。
「大江、街の様子がおかしい。昨日まで元気に球を蹴っていた若者たちが、次々と倒れているんだ。祈祷師たちは『蘇我が神の領域を侵した報いだ』と触れ回っているぞ!」
入鹿が、顔を青くして私の部屋に飛び込んできた。
私はペンを置き、背筋に冷たいものが走るのを感じた。
(来たか。歴史が私を殺せないと悟り、今度は『病』という全土への無差別攻撃を仕掛けてきたのか……!)
史実において、天然痘は幾度となく日本を襲い、人口の数割を奪い去った。だが、今のこのタイミングでの発生はあまりに不自然だ。
「……入鹿、落ち着け。これは祟りじゃない。目に見えない小さな『毒』が、人の間を渡っているだけだ」
私は即座に立ち上がり、壁に掛けていた飛鳥の地図を広げた。
「すぐに飛鳥学院の全生徒を招集しろ。彼らには私の指示を各村へ伝える伝令になってもらう。それと入鹿、近衛軍を動かせ。都へ通じる主要な道をすべて封鎖するんだ。今すぐ人の流れを止めなければ、この都は巨大な墓場になるぞ!」
私は全権を握るべく厩戸皇子(聖徳太子)のもとへ走り、矢継ぎ早に対策を打ち出していった。反対する豪族たちの怒号を「これは軍事行動である」と一喝し、私は現代の公衆衛生概念を飛鳥の地へ無理やり叩き込んだ。
「いいか、まずは病人を一人にしろ! 家族であっても接触は許さない。寺院や空き家を潰して隔離所を作るんだ!」
私の指示により、泣き叫ぶ家族から病人が強制的に引き離されていく。非情に見えるが、これが感染連鎖を断つ唯一の手段だった。
さらに、私は学院の生徒たちを走らせ、家々の衛生状態を改善させた。
「衣服や食器はすべて熱湯で煮ろ! 窓を開けて風を通せ。家の中に『毒』を溜めるな!」
さらに、大江紙を幾重にも重ねた簡易的な「マスク」を近衛軍に配布し、巡回時の着用を徹底させた。手洗いの励行、煮沸消毒。目に見えぬ敵との戦いに、飛鳥の人々は戸惑いながらも、私の剣幕に押されて動き始めた。
「……何という無慈悲な。病の者を親族から引き離し、街を檻に閉じ込めるとは。大江殿、あなたはやはり人の心を持たぬ鬼か」
封鎖線の境界に、鎌足が姿を現した。
彼の背後には、恐怖に怯え、隔離に反対する民衆が群がっている。
「鎌足殿……。あなたの仕業か? 大陸から病を運んできた者を引き入れたのは」
鎌足は答えず、ただ悲しげに首を振った。
「私はただ、神の御心に従わぬ者がどうなるかを見守っているに過ぎませぬ。……さあ、民の声を聞きなされ。彼らは自由を求めている」
「黙れッ!」
入鹿が剣を抜き、鎌足を睨みつけた。
「お前の言う『自由』は、都を死体で埋め尽くす自由か!? 大江は、一人でも多くの命を救おうとしているんだ!」
戦いは、医学知識と「恐怖心」のせめぎ合いだった。
私は石鹸の代用となる「ムクロジ」の果皮を配り、徹底した洗浄を呼びかけた。だが、それだけでは足りない。私は「未来の切り札」を準備していた。
「……牛痘を探せ」
天然痘の特効薬――ワクチンはまだない。だが、牛にかかる比較的軽い病「牛痘」に感染した者は天然痘にかからないという、エドワード・ジェンナーの発見を私は知っていた。
数日後、入鹿が蘇我の牧場から「乳が爛れた牛」を見つけてきた。
私は自らの腕を切り、その牛の膿を傷口に塗り込んだ。
「大江! 何をしているんだ! 正気か!?」
「……人体実験だよ。私に効果があれば、飛鳥中の若者にこれを施す。……理屈じゃない、結果で見せるしかないんだ」
意識が遠のく中、私は自らの体に刻まれた「毒」が、未来の「盾」になることを確信していた。




