第十七話:飛鳥の咆哮、熱狂の円球
――西暦六一二年(推古二十年)夏。
鎌足が仕掛けた退廃的な博打と風刺劇は、着実に飛鳥の活気を削ぎつつあった。合理的で「正しすぎる」大江の改革に疲れ始めた民衆にとって、その刹那的な快楽は甘い毒のように浸透していた。
「大江、準備は整ったぞ。だが……本当にこんな玉を追いかける遊びで、民の目が戻るのか?」
入鹿が、牛革を縫い合わせ、中に山羊の毛を詰め込んだ「円球」を手に首を傾げる。
背後には、飛鳥近衛軍の中から選抜された、筋骨隆々の若者たちが二組に分かれて整列していた。
「入鹿、人は『正しいこと』より『熱くなれること』に従う。博打は一人の懐を潤すが、勝利の熱狂はコミュニティ全体を一つにするんだ」
私は飛鳥川の河川敷に、巨大な長方形の「競技場」を整備させた。
名目は、近衛軍による「集団行動訓練の公開演習」。だが、その実態は現代のサッカーとラグビーを掛け合わせた、過激で知的なスポーツだった。
演習当日。
鎌足の博打場に流れていた民衆が、物珍しさに河川敷へと集まってきた。
観客席の最前列には、厩戸皇子や蘇我馬子、そして――冷ややかな笑みを浮かべた中臣鎌足の姿もあった。
「……大江殿。軍の訓練を祭りに変えるとは、また奇妙な策を。だが、所詮は玉遊び。我が提供する酒と博打の刺激には勝てませぬぞ」
鎌足の挑発に、私は答えず、ただ入鹿に合図を送った。
――開戦の太鼓が鳴り響く。
次の瞬間、静寂は怒号へと変わった。
十人ずつの兵たちが、一つの玉を巡って激突する。ただ力任せに奪うのではない。私が教え込んだ「パス」と「フォーメーション」により、玉は生き物のように人の間を渡り、敵の陣地を切り裂いていく。
「な、なんだあの動きは!? 示し合わせたように道が開いていくぞ!」
「いけ! 蘇我の組だ! 走れ!」
観客が身を乗り出す。
個人の武勇を競う当時の相撲や狩りと違い、これは「組織の勝利」を可視化したものだった。入鹿が先頭に立ち、見事な脚さばきで玉を運び、丸太で作られたゴールへと叩き込む。
――おおおぉぉぉぉぉ!!
飛鳥の地を揺らすほどの歓声。
博打で金を失う虚しさではない、自らの「推し」の組を応援し、勝利を共有する連帯感。
民衆は、鎌足の用意した陰湿な娯楽を忘れ、目の前の「清々しい熱狂」に己を投影させていた。
試合の合間、私は観客席の隅で呆然と立ち尽くす与志古(車持の娘)に目を向けた。
「与志古殿。これが私の『理』の別の顔です。人は数字だけで動くのではない。勝利の栄光、仲間との絆。それらを正しく導く器さえあれば、博打に頼らずとも心は満たされる」
与志古は、熱狂する民衆と、フィールドで輝く入鹿の姿を見比べ、震える声で呟いた。
「……鎌足様は『蘇我は民を縛る』と仰いました。ですが、ここで笑っている民は……誰よりも自由に見えます」
その言葉は、私の背後に立っていた鎌足にも届いていた。
鎌足の表情から余裕が消え、拳が白くなるほど握りしめられている。
「……大江殿。人心を『熱狂』で支配するか。隋の皇帝が好んだパンとサーカスの手法を、この若さで使いこなすとは」
「支配ではありませんよ、鎌足殿。これは『活力の投資』です。熱狂した民は、明日からまた水車を回し、学院で学び、国を強くする。あなたの博打のように、人を廃人にはしない」
勝負は決した。
その日を境に、飛鳥の街から博打の火は消え、「飛鳥リーグ」の次戦を待ち望む声が国中に溢れた。
夜、祝杯を挙げる入鹿が、汗を拭いながら私に笑いかけた。
「大江、最高だった! 剣で戦うより、あんなに民と一つになれたのは初めてだ。……でも、これで鎌足も黙るかな?」
「……いや。奴は、自分の『娯楽』という策が、私の『教育と団結』に敗北したことを悟ったはずだ」
私は月を見上げた。
鎌足は、もう二度と「遊び」では攻めてこない。
次は、より根源的な、この国の「骨組み」を壊しに来る。
「入鹿、次は『戸籍』だ。……誰がどこに住み、どれだけの力を持っているか。それを完全に把握するシステムを作る。鎌足が内側から氏族を煽る前に、国を一つの大きな『組織』に作り変えるぞ」
西暦六一二年、秋。
飛鳥リーグの熱狂の裏で、大江は現代の「行政管理システム」の導入を決意する。
だがその時、大陸から一人の男が「鎌足の真の刺客」として密かに上陸していた。
それは軍師でも僧でもない。
人の目に見えぬ死を運ぶ、**「疫病」**の知識を持った呪術師だった。




