第十六話:車持の乙女、情報戦の旋律
――西暦六一一年(推古十九年)冬。
飛鳥学院の門を叩いた少女、車持の娘――名は**「与志古」**。
彼女の背後には、中臣鎌足の影が色濃く漂っていた。だが、私はあえて彼女を「特別待遇」せず、他の生徒と同じく泥臭い実務と算術の荒波に放り込んだ。
「大江……。あの女、本当に鎌足の放った間者なんだな? 毎日、学院の書庫で熱心に記録を写しているぞ」
入鹿が、竹藪の陰から学院の様子を伺いながら低く囁く。
十二歳の入鹿は、武人の直感で彼女から放たれる「異質さ」を感じ取っていた。
「ああ、間違いないだろう。だが入鹿、情報を盗まれることを恐れるな。むしろ『盗ませたい情報』を彼女に掴ませるんだ」
「盗ませたい情報……?」
「『蘇我の力は、もはや一族の意志では止められないほど公のものになっている』という現実だよ」
数日後。私は学院の放課後、一人で残って計算板(そろばんの原型)を弾いていた与志古に声をかけた。
「与志古殿。車持の一族といえば、宮廷の装飾や宝物を司る名家。なぜ、このような埃っぽい算術の場に?」
与志古は筆を止め、ゆっくりと私を振り返った。その瞳は、鎌足のような鋭さはなく、むしろ深い霧のように真意を掴ませない。
「……大江様。私は、鎌足様から聞いておりました。『蘇我の神童は、数字で神々の声を消し、文字で人の心を縛る』と。ですが、ここで学んで分かったことがございます」
「ほう、何が分かったのですか?」
「……数字は、公平にございます。どれほど身分の高い者が嘘をつこうとも、一足す一は二にしかならぬ。大江様、あなたは人心を縛りたいのではなく、誰もが嘘をつけぬ『誠の世』を創ろうとなさっているのでは?」
私は、少しだけ虚を突かれた。
鎌足の差し金であるはずの彼女が、私の本質――「システムによる公正」を瞬時に見抜いたからだ。
「……だとしたら、与志古殿。君はその『誠の世』が、中臣の目指す『神事と血筋の世』と共存できると思うかい?」
与志古は答えなかった。ただ、彼女の手元には、私が密かに広めていた「複式簿記」の基礎がびっしりと書き込まれていた。
一方、中臣鎌足は焦っていた。
与志古から届く報告は、蘇我の弱点ではなく、むしろ「蘇我がいかに国に不可欠か」という賞賛に近いものばかりだったからだ。
「……愚かな。与志古まで大江に毒されたか」
鎌足は、隋から持ち帰った禁忌の書――人の心理的盲点を突く『策謀の理』を開いた。
「大江殿。あなたが創る『正しい世』には、一つだけ決定的な欠陥がある。……それは、『正しすぎる者は、民に息苦しさを与える』ということだ」
鎌足は、次の一手を放った。
それは武力でも迷信でもない。**「娯楽と文化」**による人心の剥離だった。
――西暦六一二年、春。
飛鳥の街に、突如として奇妙な「演舞」と「博打」が流行し始めた。
鎌足が大陸の闇市場から仕入れた、射幸心を煽る遊びと、蘇我の「理」を風刺する滑稽な劇。
「大江! 大変だ! 学院の生徒たちが、放課後に鎌足の用意した博打場に通い詰めている。工事の現場でも、職人たちが仕事を放り出してあの芝居に見惚れているぞ!」
入鹿が飛び込んできた。
これこそが鎌足の真骨頂だった。大江が「労働と教育」で民を律しようとするなら、鎌足は「享楽と解放」で民を腐敗させる。
「……論理は欲望に勝てない、か。鎌足、古典的な手法だが効果的だ」
私は、自室の机を叩いた。
民衆は常に、正しいだけの指導者より、自分たちを愉しませてくれる者を好む。これは現代のポピュリズムと同じ構造だ。
「入鹿。博打を禁じるな。そんなことをすれば、蘇我は『自由を奪う暴君』に仕立て上げられる」
「じゃあ、どうするんだ!? このままじゃ、みんな骨抜きにされるぞ!」
「……娯楽には、より高度な娯楽をぶつける。鎌足が『博打』を売るなら、私は『夢』を売る」
私は、まだこの時代の誰も知らない、ある「競技」の構想を書き上げた。
「入鹿。近衛軍の演習を、民に公開する。ただし、ただの訓練じゃない。……チームに分かれ、一つの球を奪い合い、ゴールを目指す。万の民が熱狂する巨大な祭典、**『蹴鞠の原典・飛鳥リーグ』**を開催するぞ」
西暦六一二年。
政治の戦いは、ついに「スタジアム」へと移った。
大江の「スポーツ・マネジメント」が、鎌足の「退廃的誘惑」を上書きできるか。
与志古はその様子を、静かに記録し続けていた。彼女の心がどちらに傾いているのか、それはまだ、誰にも分からなかった。




