第十五話:飛鳥学院の夜明け、人心の計数
――西暦六一一年(推古十九年)。
あの日食の「予言」から一年。飛鳥の光景は、劇的な変貌を遂げていた。
私が創設した『飛鳥学院』は、もはや単なる私塾ではなかった。朝廷の正式な官吏養成機関としての側面を持ち始め、そこでは身分を問わず、地方の豪族の次男坊から、読み書きを覚えた農民の才子までが机を並べていた。
「いいか、計算の基本は『ゼロ』の概念だ。これがあるから、万の位の徴税も一分の狂いなく記録できる」
教壇に立つのは、かつて私が救った百済や隋の渡来人たち、そして私から直接「現代の論理」を叩き込まれた第一期生たちだ。
「大江……学院の外まで、生徒たちの声が響いているぞ。これだけの人間が文字を操り、数字を計算するようになるなんて、一昔前なら夢物語だったな」
入鹿が、私の隣で感慨深げに呟いた。十二歳になった入鹿は、近衛軍の指揮官として多忙な日々を送る傍ら、欠かさず学院の運営にも顔を出していた。
「文字と数字は、権力を民に『開放』する道具だ。誰もが法を読み、収穫を計算できれば、一部の豪族が不正に私腹を肥やすことはできなくなる。……これが、私の考える『公』の完成形だ」
「だがな、大江。……それが面白くない連中も、確実に増えているぞ」
入鹿の言葉通りだった。
民が賢くなれば、これまで「知」を独占してきた古い氏族たちの権威は相対的に低下する。彼らにとって、大江が主導するこの教育革命は、自分たちの存立基盤を根底から揺るがす「静かなるクーデター」に見えていた。
その頃、中臣鎌足の邸宅。
薄暗い部屋の中で、鎌足は数人の豪族と密談を交わしていた。
「……大江殿は恐ろしい男だ。彼は火槍で体を、学院で心を、この国から奪い去ろうとしている」
鎌足の声には、以前のような刺々しさはなかった。むしろ、深く慈悲深い嘆きを演じているようだった。
「阿倍殿。あなたの領地の民が、最近、蘇我の算術を使ってあなたの徴税に異議を唱え始めたと聞きました。……これは、秩序の崩壊です。蘇我は民を甘やかし、神仏さえも理屈で縛ろうとしている」
阿倍内麻呂が、忌々しげに床を叩いた。
「……左様だ。あんな鼻垂れ小僧の言葉を信じて、民が我らを見下すなど、あってはならぬことだ。中臣殿、何か策はあるのか?」
「……『大化』。私は、新しい法、新しい秩序の構想を大陸で得ました」
鎌足は、隋の律令を独自に解釈した一巻の書を広げた。
「大江殿が『技術』で国を動かすなら、我らは『法と血筋』で国を縛り直す。……蘇我氏という巨大な木が、その実の重みで自ら折れる時を待つのです」
鎌足の狙いは、蘇我氏を「独裁者」という枠組みに押し込めることだった。
大江がどんなに正しいことをしても、それが「蘇我の功績」であればあるほど、周囲に「蘇我が全てを支配している」という恐怖を植え付け、孤立させる。
私は、その不穏な動きを敏感に察知していた。
コンサルタントとして培った「リスクマネジメント」の直感だ。
「入鹿。次の段階に入る。……学院のトップ層を、蘇我の人間ではなく、あえて反発している阿倍氏や大伴氏の若者たちで固めるんだ」
「えっ!? なんでだよ、せっかく育てた優秀な連中を……」
「権力は独占すればするほど、脆くなる。……彼らに『恩』を売り、自分たちがこの新しい仕組みの『主役』だと思わせるんだ。蘇我は、その後ろに隠れていればいい」
私は、現代の「黒衣のマネジメント」を実行に移した。
表舞台の栄光は他者に譲り、そのシステムの実権だけを蘇我が握る。これが「乙巳の変」という破滅を回避するための、私の究極の防御策だった。
だが、事態は私の予測を超えた方向から動き出す。
――西暦六一一年、秋。
皇極天皇(のちの天皇だが、この時点ではまだ高官の一人)の縁者である一人の少女が、学院の門を叩いた。
彼女の名は、車持の娘。のちに藤原不比等の母、あるいは鎌足の妻の一人とされる女性に繋がる血筋だ。
「大江様。私は、あなたの創る『未来』というものが、どれほど冷たく、どれほど温かいものかを知りに参りました」
彼女の瞳には、鎌足と同じ「覚悟」が宿っていた。
鎌足は、自身の「間者」として、あるいは「新たな一手」として、女性の知性すらも盤上に乗せてきたのだ。
「……面白い。教育に性別は関係ない。歓迎しよう」
私は微笑んで答えたが、内心では冷や汗をかいていた。
歴史の強制力は、私が「システム」を変えようとすればするほど、それを破壊するための「人間関係」を複雑に編み直してくる。
知略の大江、武勇の入鹿、策略の鎌足。
そして、その狭間に現れた未知の変数。
西暦六一一年。
飛鳥の学院は、学問の場から、音なき「人心の戦場」へと変貌を遂げようとしていた。




