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第十四話:天を喰らう影、神童の数理

――西暦六一〇年(推古十八年)三月。

 飛鳥の空は抜けるように青かった。だが、都を包む空気は、これまでにないほど重く、澱んでいた。

「大江様が神々を怒らせた」

「水車は龍神の鱗を削り、火槍の音は天神の耳を塞ぐ。その報いが、ついに太陽を奪うのだ」

 鎌足が流した不吉な噂は、飛鳥の隅々まで浸透していた。人々は家の中に閉じこもり、豪族たちは蘇我との距離を置き始めていた。

 そんな中、私は飛鳥の丘の上に、巨大な「観測台」を設置させた。

「大江、本当に大丈夫なのか? 豪族たちも皇子様も、みんな不安そうな顔をして集まっているぞ」

 入鹿が心配そうに私を見る。彼の背後には、動揺する「飛鳥近衛軍」の兵たちが控えていた。彼らにとって、これから起きることは未知の恐怖そのものなのだ。

「大丈夫だ、入鹿。……数式は嘘をつかない」

 私は手元の大江紙に記された計算式を確認した。

 現代の天文学における日食計算。地球の自転速度や月の公転周期――。七世紀のこの地で、観測データが不足している分は、これまでの三年間、学院の生徒たちと共に行ってきた地道な星の位置観測で補った。

 やがて、丘の上に厩戸皇子を筆頭とした朝廷の重臣たちが到着した。その中には、勝ち誇ったような冷笑を浮かべる中臣鎌足の姿もあった。

「……蘇我大江殿。これほどの人々を集めて、一体何を見せようというのか。天が太陽を隠すのは、人心の乱れゆえ。知恵でどうにかできるものではない」

 鎌足の言葉に、豪族たちがざわめく。

「鎌足殿、言葉は不要です。……まもなく、ひつじの刻(午後二時頃)、天の太陽は喰らわれます。ですが、それは神の怒りではない。……天を巡る『玉』が、重なるだけに過ぎません」

 私は、自作の「日食観測用遮光板(煤を塗った板)」を皇子に差し出した。

「そして――。太陽が完全に消えるのは百二十秒。その後、光は必ず戻ります。私の計算が正しければ、その瞬間、飛鳥の地は蘇我の『理』を認めることになるでしょう」

 そして、その時は来た。

 明るかった飛鳥の野山が、急激に薄暗くなる。鳥たちは騒ぎ、犬は吠え、人々は悲鳴を上げて地に平伏した。

 太陽が、目に見える速さで欠けていく。

「お、おお……本当に太陽が消えていく……!」

「やはり神の怒りだ! 大江、今すぐ術を止めろ!」

 豪族たちが混乱し、叫び声を上げる。

 だが、私は静かに水時計を見つめ、秒を刻み続けた。

「……五、四、三、二、一。……皆既かいき

 飛鳥は完全な闇に包まれた。真昼に星が輝き、周囲は不気味なほどの静寂に包まれる。

 鎌足の顔から、余裕が消えた。彼は、日食が起きること自体は予測していたのかもしれない。だが、私が「秒単位」でその瞬間を言い当てたことに、言葉を失っていた。

「……百一、百二。……今です。光よ、戻れ」

 私が指を鳴らした瞬間、漆黒の円の端から、ダイヤモンドのような鋭い光が溢れ出した。

 

 ――おおおぉぉぉ……!!

 丘の下から、何千、何万という民の地鳴りのような歓声が上がった。

 太陽は、私の宣言通りに戻ってきたのだ。

「皇子。これが『理』にございます。天の巡りは数によって示され、予測できるもの。……恐怖に怯える必要はありません。我らは、この秩序ある理の上で、新しい国を築くのです」

 皇子は、溢れ出す光の中で私を見つめ、力強く頷いた。

「……見事だ、大江。お前は今日、飛鳥の民を『恐怖』から救い、代わりに従うべき『真理』を示した」

 民衆の間では、もはや大江に対する疑念は消え、代わりに「天をも操る知の神」としての熱狂が生まれていた。

 鎌足が仕掛けた「迷信による攻撃」は、私の圧倒的な科学的実証の前に、無残に砕け散ったのである。

 人波が去った後、丘の上に鎌足と私だけが残った。

「……完敗ですな、大江殿。太陽の運行さえ計算の内に収めているとは。隋の学士ですら、ここまでの正確さは持っていなかった」

 鎌足は悔しさを隠そうともせず、だがその瞳には、さらに深い闇が宿っていた。

「ですが、覚えておきなされ。天は計算できても、人の心は計算できぬ。……あなたが民を賢くすればするほど、彼らはいつか、強すぎる蘇我を『畏れ』から『疎ましさ』へと変えるでしょう」

「……その時は、また別の理を用意するだけですよ」

 鎌足は何も言わず、闇が戻った山道を下っていった。

 入鹿が駆け寄ってきて、私の肩を叩く。

「大江! 凄かったぞ! あの鎌足の顔、見たか? まるで幽霊でも見たような顔をしていた!」

「……ああ。でも、これで終わりじゃない、入鹿。鎌足は次、もっと内側から攻めてくる」

 西暦六一〇年、春。

 日食という最大の危機を乗り越えた蘇我氏。

 だが、私の脳裏には、鎌足が去り際に残した言葉が、呪いのように響き続けていた。

「人心の計算か……」

 私は、現代の「社会心理学」や「情報統制」の知識を、次の戦いのために呼び起こし始めた。

 歴史の強制力は、ついに「物理的な争い」から、より高度な「イデオロギーの争い」へと変貌しようとしていた。

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