第十三話:宿敵の帰還、静かなる宣戦布告
――西暦六一〇年(推古十八年)初春。
難波の港は、まだ凍てつくような潮風に晒されていた。
大陸から戻った一艘の商船から、一人の少年が降り立つ。質素な衣を纏い、背負い袋一つという旅人の姿。だが、その瞳に宿る光は、かつての幼い「鎌子」のそれとは根底から異なっていた。
「……変わらんな。いや、変わりすぎたか」
少年――中臣鎌足は、港のいたるところに設置された、荷揚げ用の「蘇我式滑車」や、夜道を照らす「石炭油の街灯」を冷ややかに眺めた。
彼が隋の大興城(長安)で見てきたのは、帝国の栄華と、その裏側にある凄惨な瓦解だ。そして今、目の前にある飛鳥の「歪な進化」に、彼は明確な危うさを感じ取っていた。
数日後。飛鳥・豊浦の邸。
私と入鹿、そして厩戸皇子の三人が集う場に、その報せは届いた。
「皇子、中臣鎌足が拝謁を願っております。……父・御食子の死を報告し、隋での学びを国に捧げたいと」
入鹿が不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「大江、やっぱり来たぞ。あいつ、帰ってきて早々、皇子に取り入ろうって魂胆だ」
「……いや、これは挨拶だよ。彼なりの『宣戦布告』だ」
私は静かに答えた。
広間に通された鎌足は、以前のような激しさを完全に消し去っていた。深々と頭を下げるその所作は完璧で、まるで穏やかな聖者のようにも見える。
「中臣鎌足にございます。……大江殿。筑紫でのご活躍、そしてこの飛鳥の繁栄。大陸の果てまで届いておりましたぞ」
「……お久しぶりです、鎌足殿。大陸での日々、さぞ険しい学びであったこととお察しします」
視線が交差する。
火花が散るような熱さはない。ただ、底知れぬ深淵を覗き込むような、静かな圧迫感。
私は鎌足の背負い袋の中に、一巻の古びた竹簡が見えるのに気づいた。
「大江殿。あなたの創った『火槍』という武器、見事なものですな。だが、あれは『外敵』を討つには良くとも、『人心』を繋ぎ止めることはできぬ」
鎌足が、ふっと薄く笑った。
「隋の煬帝は、力で全てを支配しようとし、民の心から見放されて滅びようとしています。……大江殿。あなたが創り出している富と武力。それは、民に『蘇我さえいれば良い』と思わせる毒ではないのですか?」
「毒、ですか。……飢えを凌ぎ、外敵から身を守ることが毒だと言うなら、私は喜んでその毒を撒きましょう。心の安寧は、腹が満たされた後に来るものですから」
私が即座に言い返すと、鎌足は目を細めた。
「……なるほど。ならば、お見せしましょう。知恵ではなく、武力でもなく、『信仰と家柄』という名の目に見えぬ鎖が、どれほど強くこの国を縛り上げているかを」
鎌足はそう言い残すと、皇子に「隋の最新の律令」を献上し、風のように去っていった。
彼が去った後、入鹿が拳をテーブルに叩きつけた。
「何だ、あの言い草は! 結局、何も具体的なことは言わずに逃げおって!」
「……いや、入鹿。奴はもう動いている」
私は、鎌足が去った廊下の足跡を見つめた。
数日後、その懸念は現実のものとなった。
飛鳥の有力豪族、阿倍氏や大伴氏といった旧勢力の間で、ある噂が広まったのだ。
『蘇我の神童は、仏の力を借りて雷を操っているが、それは古き日本の神々を怒らせる行為だ。水車が回るたびに地の霊が枯れ、火槍が放たれるたびに天の神が泣いている』
現代人からすれば笑い話のような迷信だ。だが、この七世紀において、その「呪術的な不安」は、どんな新兵器よりも深く、人々の心に楔を打ち込む。
「大江、不味いぞ! 学院の生徒の一部が、『親に止められた』と言って辞めていき始めた。水車の設置を拒む村も出てきている!」
入鹿が焦った顔で駆け込んできた。
鎌足の狙いはこれだったのだ。
私の「科学」は、合理的であればあるほど、説明のつかない「恐怖」に弱い。鎌足は大陸で、最新の法律だけでなく、人心を操るための「宗教政治学」を学んできたのだ。
「……物理的な壁は火薬で壊せるが、心の中に築かれた壁は火槍では撃ち抜けないか」
私は、デスクの上にある大江紙に筆を走らせた。
鎌足が迷信で攻めてくるなら、私はさらなる「現実」を見せつけるしかない。
「入鹿。明日、飛鳥中の豪族と村長を集めろ。……『皆既日食』を見せる」
「……日食? あれか、太陽が隠れる不吉な……そんなのを見せたら、余計にパニックになるだろ!」
「逆だよ、入鹿。……『いつ太陽が隠れ、いつ戻るか』を、私が一分一秒の狂いもなく予言してみせる。……神の怒りではなく、それは宇宙の法則(理)であることを証明するんだ」
西暦六一〇年。
歴史の勝負所は、戦場ではなく「空」へと移った。
現代の天文学知識を総動員した、大江の「神格化解除作戦」が始まろうとしていた。
鎌足。お前の『影』が太陽を隠そうとするなら、私はその影の正体を暴いてみせる。




