第十一話:飛鳥産業革命、富国強兵の真実
――西暦六〇八年(推古十六年)。
裴世清が率いる隋の使節団が帰路につき、倭国(日本)はかつてない静かなる激動の中にあった。
隋との対等外交を成功させた事実は、国内の豪族たちに凄まじい衝撃を与えた。そして、その外交を裏で支えたのが「蘇我の若き神童」であるという噂は、もはや伝説の域に達していた。
だが、私は勝利の余韻に浸る暇などなかった。
歴史という名の怪物は、常に裏側から牙を剥く。
「大江、また新しいものを作っているのか? 今度は……なんだ、この巨大な車輪は」
入鹿が、飛鳥川のほとりに新設された巨大な木造建築を指差して尋ねる。
そこにあるのは、直径五メートルを超える巨大な**「揚水型水車」**だ。
「これまでの水車は、ただ穀物を搗くだけだった。だがこれは違う。川の力を利用して、高い場所にある乾いた田畑へ、絶え間なく水を送り込む『心臓』だ」
「心臓……。これがあれば、雨が降らなくても米が作れるのか?」
「それだけじゃない。この動力をベルトで繋げば、複数の機織り機を一斉に動かせる。女たちが手作業でひと月かける絹を、わずか数日で織り上げる『飛鳥紡績所』の完成だ」
入鹿は絶句した。
私がやろうとしているのは、この時代における「動力の革命」だ。
蘇我氏の私領地から始まったこの試みは、瞬く間に膨大な富を生み出し始めた。余剰となった米は「蘇我銀行(備蓄倉庫)」に預けられ、それを元手に新たな技術開発へ投資する――。現代の資本主義の原型を、私はこの七世紀の日本に強引に移植していた。
その日の夕暮れ、斑鳩宮にて。
厩戸皇子は、私が見せた収支報告の大江紙をじっと見つめていた。
「……大江よ。お前がもたらす富は、もはや一つの氏族が持って良い規模を超えている。国中の豪族たちが、蘇我の豊かさを羨み、同時に恐れ始めているぞ」
皇子の言葉には、明確な危惧が混じっていた。
突出した力は、必ず反発を呼ぶ。それが「乙巳の変」へと繋がる歴史の引力だ。
「わかっております、皇子。だからこそ、私はこの技術を蘇我だけで独占するつもりはありません。……『冠位十二階』に準じ、功績のあった他氏族の領地にも、この水車と製鉄の技術を無償で提供します」
「……無償でだと? 馬子が許すまい」
「いえ、祖父は承知しました。『恩を売ることは、領土を奪うより確実に相手を縛れる』と説得しましたから」
私は冷徹に微笑んだ。
技術を与え、メンテナンスや部品供給を蘇我が握る。それは現代で言う「プラットフォーム戦略」だ。他氏族は蘇我の技術なしでは立ち行かなくなり、結果として「反乱」という選択肢を失う。
「お前は……本当に六歳の童なのか? 時折、千年生きた老狐が中に入っているのではないかと疑いたくなる」
皇子は苦笑しながら、一通の密書を差し出した。
「だが、お前の『光』が強まるほど、大陸に渡った『影』もまた色濃くなっているぞ」
密書は、隋に潜入している蘇我の隠密(亡命者のネットワーク)からのものだった。
『中臣御食子、および鎌子。隋の都・大興城(長安)にて、兵法家・李靖の門を叩く。彼らは大江様の戦術――火薬と投石機を破るための「対抗策」を、血を吐くような修練で模索中なり』
心臓がドクンと跳ねた。
李靖。のちに唐の建国を支え、「衛公兵法」を著す不世出の軍略家だ。
鎌足は、私が持ち込んだ「科学」に対抗するために、大陸最高峰の「戦略」を学び取ろうとしている。
「……李靖に弟子入りしたか。流石は鎌足、狙いどころが正確だ」
「大江、何を感心しているんだ! 奴らが戻ってきたら、俺たちの命を狙いに来るんだぞ!」
入鹿が苛立たしげに剣の柄を叩く。
「わかっているよ、入鹿。だからこそ、私たちはさらに先へ行かなければならない。……入鹿、お前に頼みがある。来月から、学院の卒業生たちから志願者を募り、新しい部隊を作ってくれ」
「部隊? 私兵か?」
「いや。……『常備軍』だ。農繁期に解散する一時的な兵ではない。一年中訓練を積み、私の作る『新型兵器』を自在に操る、プロの軍隊だ」
私は、まだこの時代の誰も見たことがない武器の図面を広げた。
それは、火薬の爆発力を利用した、原始的ながらも強力な**「火槍」**――銃の原型だった。
「鎌足が大陸の『知』を連れてくるなら、私たちはこの国の『力』を極限まで磨き上げる。……歴史の結末(六四五年)を書き換えるために、私たちはもっと強くならなきゃいけないんだ」
西暦六〇八年。
飛鳥の地は、もはや歴史のレールを外れ、誰も見たことがない速度で加速を始めた。
水車の回る音が、まるで巨大な時計の秒針のように響く。
破滅の足音か、それとも新時代の幕開けか。
蘇我の双星は、暗雲立ち込める空を、いっそう強く照らし出していた。




