第十話:日出づる処の天子、不敵なる国書
――西暦六〇七年(推古十五年)。
大江紙の普及から二年。飛鳥の都は、歴史の教科書が記す「黄金の転換点」を迎えていた。
学院で育った若者たちが役所に入り、大江紙に記された正確な徴税記録が国庫を潤す。蘇我の財力はもはや一族の私財ではなく、国家の「インフラ」として機能し始めていた。
だが、その繁栄を揺るがす巨大な影が、難波の海に現れた。
「隋の使節団、到着いたしました。正使の名は裴世清。……かつてない規模の船団にございます」
伝書鳩の報告を受け、私は入鹿と共に難波へと向かった。
港に停泊する隋の巨大な軍船は、飛鳥の民が見れば神の乗り物かと思うほどの威圧感を放っている。だが、私はその船の喫水線を見て、冷ややかに笑った。
「入鹿、見てみろ。あの船、兵糧を積みすぎて重そうだ。脅しに来たつもりだろうが、補給の概念が甘いな」
「へへっ、大江にはお見通しか。だが、あの裴世清という男、かなりの切れ者だと聞くぞ」
入鹿は十一歳になり、その体躯は並の大人を凌駕し始めていた。私の知る「歴史」よりもずっと早く、彼は蘇我の軍事司令官としての風格を身につけつつあった。
数日後。小野妹子を筆頭とした倭国の使節団が、裴世清と対面した。
場所は蘇我氏が提供した、最新の建築技術で建てられた迎賓館だ。
「……これが、倭国の王からの書状か」
裴世清が、私が用意した最高級の大江紙に記された国書を開く。
そこには、私が皇子に進言した「あの言葉」が、力強い筆致で記されていた。
『日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや。』
裴世清の顔が、一瞬で朱に染まった。
「……無礼千万! 辺境の小国の長が、天朝の皇帝陛下と対等な『天子』を名乗るとは! 楊広陛下がこれを見れば、直ちに百万の軍を差し向け、この島を灰にされるぞ!」
凄まじい怒号。周囲の倭国の役人たちが震え上がる中、私は一歩前に出た。
「裴世清殿。お言葉ですが、その『百万の軍』、今の隋に動かす余裕がおありかな?」
私の静かな問いに、裴世清の目が鋭く私を射抜いた。
「……何だと? 貴様、何者だ」
「蘇我大江。ただの書生にございます。ですが、我らの耳には届いておりますよ。北の高句麗遠征が三度も失敗し、国内では農民たちが反乱の火の手を上げ始めている。……今の隋に必要なのは、新たな戦ではなく、東方の安定と、確かな『交易相手』ではないのですか?」
裴世清が絶句した。
七世紀の日本に、大陸の内部情勢をこれほど正確に把握している者がいるはずがない。だが、私は「未来の知識」と、この数年で構築した「亡命者ネットワーク」によって、隋の末期症状をすべて把握していた。
「……さらに、裴世清殿。外をご覧なさい」
私は窓を指差した。
そこには、入鹿が率いる蘇我の精鋭軍が、整然と隊列を組んでいた。
彼らが構えるのは、筑紫で威力を発揮した新型の長槍と、そして――。
「あれは……」
裴世清が目を見開く。
丘の上に並べられたのは、筑紫の防衛戦で使用したものよりも小型化・改良された、連射式の投石機だ。
「我らが『天子』と名乗るのは、傲慢からではありません。自国の民を、自らの知恵と力で守り抜く覚悟があるからです。裴世清殿、この国書を陛下へ。……倭国は隋の臣下にはなりませぬ。ですが、対等な『友』として、大陸の混乱を鎮めるための富と物資を供給する準備はございます」
裴世清は、しばらくの間、私と入鹿、そして整然たる軍勢を見つめていた。
やがて、彼は深いため息をつき、国書を丁寧に畳んだ。
「……日出づる処の天子、か。陛下にお伝えしよう。この島国には、天を衝く知恵と、地を這う剛勇を持つ『双星』がいるとな」
外交戦の、完全なる勝利だった。
史実では激怒したとされる煬帝(楊広)だが、この世界では「実利」と「武力」の裏付けを見せつけることで、対等な外交関係を認めざるを得ない状況を作り出したのだ。
裴世清が去った後、入鹿が私に駆け寄ってきた。
「やったな、大江! あの裴世清が、最後は敬意を払って頭を下げていたぞ!」
「ああ……。これでしばらくは、外からの脅威は収まるはずだ」
だが、私の心には、まだ晴れない霧があった。
大陸へ密航した中臣御食子と鎌子の父子。彼らは、崩壊しつつある隋の泥沼の中で、何を学び、何を掴もうとしているのか。
「……入鹿。国を創るのは楽しいが、守り抜くのはその何倍も難しい。これから、もっと大きな嵐が来る」
「ああ、分かってる。でも、お前がその頭で嵐を読み、私がこの腕で嵐を斬る。……だろ?」
入鹿の屈託のない笑顔に、私は救われる。
西暦六〇七年。
蘇我氏の黄金時代は、今、頂点へと差し掛かろうとしていた。
歴史の強制力という名の「破滅」まで、あと三十八年。
私はそのカウントダウンを止めるために、さらなる内政の加速を決意した。




