悪役令嬢ですが、ゲーム開始前に「あなたでは不釣り合いですわ」と逆に婚約破棄したら、私に執着するようになりました
グラスの中で揺れる黄金色の液体が、シャンデリアの光を乱反射させてきらきらと輝いている。人々は華やかな衣装に身を包み、優雅な音楽に合わせて談笑に興じている。
ここはベルンハルト王国王宮、国王陛下の生誕を祝う夜会。その一角で、わたくし、ヒルデガルト・フォン・メーレンベルクは、完璧な淑女の笑みを顔に貼り付けながら、内心で深いため息をついていた。
(……ああ、なんて退屈なのかしら)
目の前で繰り広げられる光景は、どこまでも予定調和に満ちている。
お世辞にも中身があるとは言えない会話、権力者に媚びへつらう者たちの卑屈な笑顔、そして、その中心で傲然と構える我が婚約者、マティアス・フォン・ベルンハルト第一王子。絵画から抜け出てきたかのような美貌は、確かに多くの令嬢のため息を誘っている。けれど、その碧眼に知性の輝きが宿ることはなく、ただ己の血筋と容姿への絶対的な自信だけが傲慢に輝いている。
「見たまえ、ヒルデガルト。我が国がいかに豊かであるか、この夜会が証明しているだろう。これもすべて、王家の、そしていずれは私の統治の賜物だ」
得意げに胸を張るマティアスに、わたくしは扇で口元を隠しながら微笑む。
「ええ、殿下。まことに素晴らしい夜会ですわ」
心にもない言葉を紡いだ瞬間、ずきり、と鋭い痛みがこめかみを貫いた。視界がぐにゃりと歪み、耳の奥で甲高いノイズが鳴り響く。楽しげな喧騒が急速に遠のいていく。
――違う。
脳裏に、奔流のように映像が流れ込んできた。
知らないはずの記憶。見たこともないはずの光景。それはわたくしではない誰かの人生。
日本の、どこにでもあるアパートの一室で、スマートフォンを片手に通称『レボラヴァ』という乙女ゲームに夢中になっていた、平凡な会社員の記憶だった。
レボラヴァ。それは、平民でありながら強大な聖なる力に目覚めたヒロインが、王立魔術学園を舞台に、攻略対象である王子や騎士団長たちと恋に落ち、共に国の陰謀に立ち向かう物語。そして、わたくし、ヒルデガルト・フォン・メーレンベルクは、その物語に登場する悪役令嬢。
プライドが高く、ヒロインを執拗にいじめ抜いた結果、卒業記念パーティーの場で、婚約者であるマティアス王子からその罪を断罪される。そして、満座の中で高らかに婚約破棄を突きつけられ、メーレンベルク公爵家は爵位を剥奪。わたくし自身は修道院へと幽閉されるという、惨めな末路を辿るキャラクター。
「……っ!」
溢れ出す記憶の濁流に、思わずよろめく。倒れそうになったわたくしの腕を、マティアスが乱暴に掴んだ。
「どうした、ヒルデガルト。気分でも悪いのか? 私の隣に立つ者が、そのような無様な姿を晒すことは許さんぞ」
その声には、心配の色など微塵も含まれていなかった。あるのは、己の体面が傷つけられることへの不快感だけ。そうだ、彼はこういう男だった。いつだって自分がいかに完璧であるかしか考えていない。
婚約者であるわたくしのことすら、自らを飾るためのアクセサリーの一つとしか見ていないのだ。
前世の記憶が蘇る前は、そんな彼の傲慢さも王族としての気高さなのだと自分に言い聞かせ、完璧な王太子妃となるべく、血の滲むような努力を続けてきた。けれど、すべてを思い出した今となっては、彼の言葉の一つ一つが、滑稽で、そして腹立たしいほどに空虚に響く。
(冗談じゃない……)
脳裏に焼き付いて離れない、ゲームの断罪シーン。
冷たい石畳の上に打ちのめされ、嘲笑と侮蔑の視線を一身に浴びる、未来の自分の姿。
(あんな凡庸で傲慢な男のために、わたくしが、そして我がメーレンベルク家が築き上げてきたすべてが、踏みにじられてたまるものですか)
メーレンベルク公爵家は、代々王国の宰相を輩出してきた名門中の名門。その血と誇りを受け継ぐわたくしが、ゲームのシナリオごときに、人生を決められてなるものか。怒りが、冷たい炎となって腹の底から湧き上がってくる。
恐怖や絶望ではない。この理不尽な運命に対する、燃えるような反骨心だった。
「申し訳ありません、殿下。少し目眩がしただけですわ。もう大丈夫でございます」
掴まれた腕をそっと振り解き、完璧なカーテシーと共に、再び淑女の仮面を被る。しかし、その瞳の奥に宿した光は、先ほどまでとはまるで違っていた。それは、獲物を前にした捕食者の、鋭く、そしてどこまでも冷静な光。
(このまま座して死を待つつもりはない)
断罪イベントは、学園の卒業パーティー。
つまり、あと二年ほどの猶予がある。だが、ヒロイン、ユリア・ハウスラーが学園に入学してしまえば、物語の歯車は否応なく回り始めるだろう。
そうなれば、マティアスはゲームの筋書き通り、何の疑いもなくあの平民の娘に惹かれていくに違いない。
ならば、やるべきことは一つ。
歯車が回り出す前に、その大元を叩き壊してしまえばいい。
「マティアス殿下」
「なんだ」
「少し、夜風にあたりませんこと? お二人きりで、お話したいことがございますの」
わたくしは、今考えうる限り最も甘美な笑みを浮かべて、彼の腕にそっと手を添えた。
マティアスは、わたくしの従順な態度に気を良くしたのか、満足げに頷く。
「ふむ。よかろう。テラスへ行こうか」
彼の後を追って、バルコニーへと続くガラス扉へと向かう。
道中、何人もの貴族たちがわたくしたちに道を譲り、深々と頭を下げた。誰もが、わたくしたちを未来の国王と王妃だと信じて疑っていない。
その羨望の眼差しを浴びながら、わたくしは心の中で嗤った。
(見ていなさい。あなたたちが信じる完璧な物語は、今宵、わたくしの手で根底から覆されるのだから)
ひやりとした夜気が肌を撫でる。大理石でできたテラスに出ると、庭園に咲き誇る月下美人の甘い香りが風に乗って運ばれてきた。
眼下には、王都のきらびやかな夜景が広がっている。まるで、宝石箱をひっくり返したかのようだ。
「で、話とはなんだ?」
マティアスは手すりに寄りかからず、仁王立ちでわたくしを見下ろした。
その態度が、無性に神経を逆撫でする。
わたくしは、ゆっくりと彼に向き直ると、深々と、そして優雅にカーテシーを捧げた。
「まずはこれまで、殿下の婚約者という大役を仰せつかりましたこと、心より御礼申し上げます」
「……何を今更」
いぶかしむ彼を無視して、言葉を続ける。
ここからは、わたくしが主演の舞台。最高の演出で、彼に一生忘れられない衝撃を与えて差し上げましょう。
「殿下は、ご自身のことを完璧な人間だと思ってらっしゃいますわね?」
「当然だ。私は次期国王。この国で最も優れた血統と才能を持って生まれてきたのだからな」
即答だった。何のてらいもない、純度百パーセントの自信。哀れなほどに。
「では、そんな完璧な殿下に、わたくしのような不出来な女は相応しくない。そうは思いませんこと?」
「何を言っている。お前はメーレンベルク公爵家の令嬢だ。私に釣り合う女は、この国でお前しかいない」
それは、家柄の話だ。わたくし個人を見ているわけではない。その証拠に、彼の瞳はわたくしを映しているようで、その実、何も見てはいなかった。
だから、わたくしは最後の仕上げにかかることにした。扇を広げて口元を隠し、くすくすと、鈴を転がすような笑い声を立てる。
「まあ、嬉しい。ですが、残念ですわ。わたくしは、そうは思いませんの」
そして、扇を閉じ、満面の笑みを浮かべて、彼の人生を根底から揺るがす言葉を、はっきりと、一音一音区切るように、言い放った。
「マティアス殿下、あなたと私の婚約を、これにて破棄させていただきますわ」
時が、止まったかのように感じられた。
マティアスの碧眼が、信じられないものを見るように大きく見開かれる。彼の顔から、あの傲慢なまでの自信が抜け落ち、純粋な驚愕と混乱が浮かび上がっていた。
「……は? いま、なんと言った?」
「ですから、婚約は破棄させていただくと申し上げたのです。ああ、ご心配なく。円満な解消とするため、原因はすべてわたくしにある、ということにして差し上げますわ。ヒルデガルト・フォン・メーレンベルクが、王太子妃という重圧に耐えかね、自ら身を引いた、とでも発表すれば、殿下のお立場に傷がつくこともございませんでしょう」
完璧な筋書き。完璧な配慮。これで、彼が断る理由は何もないはず。ゲームのように、わたくしが一方的に断罪される未来さえ回避できれば、それでよかった。
しかし、彼の反応は、わたくしの予想を大きく裏切るものだった。彼はわなわなと唇を震わせ、顔を朱に染めて叫んだ。
「ふ、ふざけるな! この私を、お前から振るだと!? ありえん! 許さんぞ!」
「あら、なぜですの? わたくしのような女、殿下には不要でございましょう?」
「当たり前だ! 私に釣り合うのはお前だけだと、さっき言ったばかりだろうが!」
「ええ、聞きましたわ。ですが、それはあくまで殿下がそう思っているだけ……」
そこで、わたくしは一歩彼に近づき、彼の碧眼をまっすぐに見つめながら、とどめの一撃を放った。
「――申し訳ありませんが、殿下では私に不釣り合いですわ。ご自身の価値を、もう少し客観視なさってはいかが?」
その瞬間、マティアスの足元で、ガラガラと何かが音を立てて崩れ落ちるのが、わたくしには見えた気がした。
彼が生まれてからずっと、揺らぐことなく積み上げてきた完璧な自分という名のプライドの塔が、木っ端微塵に砕け散ったのだ。
彼は、衝撃で言葉を失い、ただわたくしのことを見つめている。その瞳には、怒りよりも、もっと深い、底なしの混乱と屈辱が渦巻いていた。
わたくしは、そんな彼に最後のカーテシーを捧げると、静かに背を向けた。
「それでは、ごきげんよう、マティアス殿下」
テラスを後にし、夜会の喧騒の中へと戻っていく。何も知らない貴族たちが、相も変わらず優雅な笑みを浮かべている。その光景が、ひどく滑稽に見えた。
~~~
夜会からの帰り道、公爵家の馬車の中は重苦しい沈黙に包まれていた。
御者台の向こう、夜の闇を駆ける馬の蹄の音だけが、やけに大きく響いている。
わたくしの向かいに座る父、ニコラス・フォン・メーレンベルク公爵は、組んだ腕と固く結んだ口元が、その内心の不快感を雄弁に物語っていた。
「……ヒルデガルト」
静寂を破ったのは、父の低く、重い声だった。
「はい、お父様」
「一体、どういうことか、説明してもらおうか。夜会の後、陛下と殿下が直々に私の執務室へお越しになった。そして、お前から婚約破棄を申し出たと、そう告げられた」
父の灰色の瞳が、わたくしを射抜く。それは、メーレンベルク家の当主として、そして王国の宰相としての厳しさに満ちた眼差しだった。
並の令嬢であれば、それだけで竦み上がってしまうだろう。けれど、わたくしの中には、悪役令嬢としての矜持と、すべてを知る転生者としての覚悟があった。
「説明、と申されましても、事実そのものでございます。わたくしが、マティアス殿下との婚約を、破棄させていただきたいと申し上げました」
「理由を聞いている」
「理由は、先ほど殿下にもお伝えした通りですわ。殿下では、わたくしに不釣り合い。それ以上でも、それ以下でもございません」
わたくしが澱みなくそう答えると、父は眉間の皺をさらに深くした。
馬車のランプの光が、その厳格な横顔に深い陰影を落とす。
「不釣り合い、だと? お前は、自分が何を言っているのかわかっているのか。相手は、この国の王太子だぞ。そして我らメーレンベルク家は、代々王家を支えてきた筆頭公爵家だ。この婚約が、どれほど重要で、盤石なものであったか、お前にわからないはずがない」
「ええ、重々承知しております。だからこそ、破棄するのです」
わたくしは背筋を伸ばし、真っ直ぐに父を見つめ返した。
ここで怯んではいけない。父を、この国で最も理知的で、最も娘を愛してくれているこの人を、説得できなければ未来はない。
「お父様、率直に申し上げます。マティアス殿下は、次期国王の器ではございません。あの方にあるのは、血筋という根拠のない自信と、中身の伴わないプライドだけ。人の意見に耳を傾ける謙虚さも、国政を学ぶ勤勉さも、民を慈しむ心も、何もかもが欠けております。あのような方が王となれば、この国は遠からず傾きましょう」
これは、ゲームの知識……、この先の未来を知るからこその確信だった。
「そして、そのような方の隣で、わたくしは完璧な王妃を演じ続けることになります。殿下の失態を裏で繕い、愚かな判断を諫め、時にはそのプライドを傷つけないようにおだてながら、一生を過ごすのです。それは、耐え難い屈辱ですわ」
父は何も言わずに、ただ静かにわたくしの言葉を聞いていた。
その沈黙が、肯定なのか否定なのか、まだ判断はつかない。
「メーレンベルク家の務めは、王家を支え、この国を豊かにすること。決して、無能な王に付き従って、共に沈むことではございません。ならば、わたくしは王妃の座を降り、メーレンベルク家の人間として、別の形でこの国に貢献する道を選びます。それが、わたくしの出した結論ですわ」
すべてを言い切ると、ふう、と長い息が漏れた。
これだけ言っても、伝統と家名を重んじる父が納得してくれる保証はない。最悪の場合、このまま勘当され、どこかの修道院に送られる可能性すら覚悟していた。
やがて、父は重々しく口を開いた。
「……お前の言うことは、わかっていた」
「えっ……」
予想外の言葉に、思わず声が漏れる。父は組んでいた腕を解き、疲れたように深くため息をついた。
「殿下のご資質については、私も、そして陛下も、とうの昔から憂慮していたことだ。だが、他に王位を継げるご子息もいらっしゃらない。だからこそ、聡明なお前を妃として娶らせることで、その欠点を補おうとお考えだったのだ。お前に、あまりにも大きな重荷を背負わせようとしていたことは、この父も認めなければなるまい」
父の瞳から、宰相の厳しさが消え、ただ一人の娘を想う父親の優しさが滲んでいた。
「だが、まさか、お前の方から、あのプライドの塊である殿下に、不釣り合いだ、と叩きつけてくるとはな……」
そう言うと、父は初めて、その口元に微かな笑みを浮かべた。
「陛下はカンカンだったが、内心では少しばかり溜飲が下がった思いもあられたようだぞ。少しは自分の至らなさを思い知る良い薬になったやもしれん、とそう仰っていた」
「まあ……」
「ヒルデガルトよ。お前は、この父が思う以上に、メーレンベルクの血を色濃く受け継いでいるらしい。良いだろう。お前の決断だ。父として、そしてメーレンベルク家当主として、全面的に支持しよう。王家には、私から上手く取り計らう。お前は、これからは自分のやりたいように生きなさい」
その言葉は、まるで頑丈な檻の錠が外されたかのような、圧倒的な解放感をわたくしにもたらした。込み上げてくる熱いものを、ぐっと堪える。ここで泣いては、悪役令嬢の名が廃る。
「……ありがとうございます、お父様」
心の底からの感謝を告げると、父は短く頷き、再び窓の外の闇に視線を向けた。その横顔は、どこか誇らしげに見えた。
翌日、王宮から正式に、マティアス・ベルンハルト第一王子と、ヒルデガルト・フォン・メーレンベルク公爵令嬢の婚約解消が発表された。
表向きの理由は、わたくしが王太子妃という立場に相応しい器ではないと自ら判断し、殿下の未来を慮って身を引いたという、実に殊勝なものになっていた。
社交界は、この突然のニュースに蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。
多くの貴族たちは、わたくしが何か不始末をしでかして、王子から一方的に捨てられたのだと噂した。
憐れむ者、嘲笑う者、そしてここぞとばかりに次期王太子妃の座を狙い、娘たちをマティアス殿下に近づけようと画策する者。
けれど、そんな雑音は、もはやわたくしの耳には届かなかった。
婚約者という重い軛から解き放たれたわたくしは、これまで王太子妃教育に費やしてきた膨大な時間を、すべて自分のために使い始めた。
まず着手したのは、メーレンベルク公爵領の経営改革だ。
書斎に籠もり、領地から取り寄せた過去十年分の収支報告書や農作物の作況データ、商業組合の取引記録などを徹底的に洗い出す。
前世の会社員としての知識、――需要と供給のバランス、物流の最適化、マーケティング戦略といった概念は、この中世ヨーロッパ風の世界においては、まさに革命的な視点だった。
「お父様、このままで満足なさっていては駄目ですわ。我が領地の特産品であるワインですが、現在は王都の特定の商会にのみ卸しています。これでは価格競争が起きず、買い叩かれる一方です。販路を複数確保し、さらにメーレンベルク公爵家御用達というブランド価値を前面に押し出した高級路線と、一般家庭向けの普及品とでラインナップを分けるべきです――」
「北部の農地では、毎年冷害に悩まされていますが、これは品種改良で解決できますわ。寒さに強い小麦の種を隣国から取り寄せ、実験的に栽培してみましょう。成功すれば、領全体の食糧自給率は飛躍的に向上します――」
「それから、女性向けの新しい事業を立ち上げたいのです。流行のドレスや宝飾品も結構ですが、女性が本当に求めているのは、日々の生活を豊かにするものですわ。例えば、保湿効果の高い植物オイルを配合した石鹸や、花の香りを閉じ込めた化粧水など――」
わたくしの次から次へと飛び出す具体的かつ革新的な提案に、父や領地の代官たちは当初こそ半信半疑だったが、その緻密なデータ分析と揺るぎない自信を前に、次第にその言葉に耳を傾けるようになっていった。
人生が、楽しい。
誰かの付属品としてではなく、自分の頭で考え、自分の足で立ち、未来を切り拓いていく。その手応えが、わたくしの心を、かつてないほどの充実感で満たしていく。
社交界に出れば、これまではマティアス殿下の婚約者という色眼鏡で見られていたのが、今ではメーレンベルク公爵領の改革を進める才媛として、一目置かれるようになっていた。
若い貴公子たちからのダンスの申し込みも後を絶たない。もちろん、そのすべてを丁重にお断りしているが。
すべてが、順調だった。
そう、あの男の、粘着質な影が忍び寄ってくるまでは。
その日、わたくしが立ち上げた化粧品ブランドの第一号店が、王都の目抜き通りにオープンした。
開店と同時に多くの貴婦人たちが詰めかけ、店は大変な賑わいを見せていた。
わたくしが店の奥で従業員に指示を出していると、入り口がにわかに騒がしくなった。
「どなたか、お客様かしら?」
そう思って店の表に顔を出すと、そこに立っていたのは、見間違えようもない、マティアスその人だった。
お忍びのつもりなのか、簡素な服装をしているが、その全身から溢れ出る王族のオーラは隠しようもない。そして何より、その瞳。かつての傲慢な光は消え、代わりに、獲物を見つけた獣のような、暗く、ねっとりとした光が宿っていた。
「……何の御用でしょうか、殿下」
わたくしは、内心の不快感を押し殺し、努めて平静に尋ねた。店の客も従業員も、突然の王子の登場に凍り付いている。
「ヒルデガルト……。こんなことをしていたのか」
マティアスは、店の華やかな内装と、商品棚に並べられた美しい小瓶の数々を忌々しげに見回した。
「見ての通りですわ。わたくしは今、商会の主人として、忙しくしておりますので」
「商売など、お前がすることではないだろう! お前は、私の隣にいるべき人間だ!」
彼の声が、店内に響き渡る。
周囲の客たちが、ひそひそと囁き始めるのが聞こえる。
「ヒルデガルト、考え直してくれ。私が悪かった。あの夜のことは水に流そう。だから、もう一度……」
「お断りいたします」
わたくしは、彼の言葉を冷たく遮った。
「殿下、ここはわたくしの店です。他のお客様のご迷惑になりますので、お引き取りくださいませ」
「迷惑だと? この私が、お前のためにわざわざ足を運んでやったというのに!」
彼の表情が、屈辱に歪む。その姿は、まるで欲しい玩具を駄々をこねてねだる子供のようだった。哀れで、滑稽で、そして何よりも……、鬱陶しい。
「警備の方、このお客様を、店の外へ」
わたくしが冷徹に命じると、控えていた屈強な護衛たちがマティアスの両脇を固めた。
彼は信じられないという顔でわたくしを見たが、王族といえども、私有地で騒ぎを起こせば問題になることは理解しているのだろう。
忌々しげに舌打ちをすると、彼は護衛たちを振り払い、去り際にこう言い放った。
「覚えていろ、ヒルデガルト。お前は、私のものだ。絶対に、逃がしはしない」
嵐のように彼が去った後、店内の空気はしばらく凍り付いていたが、わたくしが何事もなかったかのように微笑んで接客を再開すると、徐々に元の賑わいを取り戻していった。
けれど、わたくしの心は晴れなかった。
(私のもの……、ですって?)
ゲームのマティアスは、ヒルデガルトのことなど、すぐに忘れてヒロインに夢中になったはず。なのに、この世界の彼は、どういうわけかわたくしに異常なまでに固執し始めている。
プライドを傷つけられたことへの、意趣返しか。それとも、初めて手に入らないものを目にした子供の、独占欲か。
どちらにせよ、厄介なことに変わりはない。
この日から、マティアスのストーカーまがいの日々が始まった。
わたくしが視察に訪れる領地の麦畑に、なぜか彼が乗馬姿で現れたり。懇意にしている商会の代表との会食の席に、偶然を装って同席しようとしたり。そして、毎日のように、メーレンベルク公爵邸には、彼の名で高価なドレスや宝石が山のように届けられるようになった。もちろん、そのすべてを丁重に送り返しているが。
(まるで、ゲームのバグだわ)
シナリオから外れた行動を取ったせいで、物語に歪みが生じているのかもしれない。
わたくしは、自由な人生を謳歌したいだけなのに。彼の執着は、まるで足に絡みつく粘着質な鎖のようだった。
~~~
マティアス殿下からの執拗な追跡を振り払う日々は、想像以上に神経をすり減らすものだった。
まるで背後に常に湿った影が付きまとっているかのような不快感。けれど、わたくしはそんなことに心を乱されている暇はなかった。
メーレンベルク公爵領の改革は軌道に乗り始め、わたくしが立ち上げた化粧品ブランドが、王都の女性たちの間で瞬く間に評判となったからだ。
「ヒルデガルト様、今月の売り上げです。先月の記録を、さらに三十パーセントも上回りました!」
店の支配人が、興奮した面持ちで帳簿を差し出す。その数字の伸びは、わたくしの予測をすら上回るものだった。
「素晴らしいわ。けれど、油断は禁物よ。類似品を出してくる商会も現れるでしょう。私たちは、常に一歩先を行かなければ。次の新商品として考えている、香水の開発は進んでいるかしら?」
「はい! 領地のハーブ園と協力し、新しい香りの抽出に成功しております。試作品が、まもなく――」
仕事に没頭している時間だけが、あの王子の存在を忘れさせてくれた。
自らの手で事業を育て、それが目に見える形で成果となって返ってくる。その喜びは、何物にも代えがたいものだった。
領地の民は、増えた収穫に笑い、わたくしの店の従業員は、誇らしげに胸を張って働いている。
王太子妃として、ただ城の中で飾られているだけの人生では、決して得ることのできなかったであろう、確かな手応えがそこにはあった。
社交界でのわたくしの評価も、婚約破棄直後とは様変わりしていた。
当初は王子に捨てられた可哀想な令嬢と囁いていた者たちも、今ではメーレンベルク家を、いや、この国を背負って立つ稀代の才女と称賛の声を送ってくる。
手のひらを返したようなその態度には辟易するが、彼らの評価が、事業を進める上で追い風になることもまた事実だった。
「ヒルデガルト嬢、ぜひ我が商会とも取引を願えないだろうか」
「ご令嬢の発想は、まさに革命的だ。今度、ぜひ我が領地の問題についてもご意見を……」
舞踏会に出席すれば、もはや若い貴公子たちだけでなく、父親世代の有力貴族たちからも、ビジネスの話を持ち掛けられるようになっていた。それは、わたくしがヒルデガルト・フォン・メーレンベルクという一個の人間として、認められた証でもあった。
しかし、光が強くなれば、影もまた濃くなる。
わたくしの活躍が華々しいほどに、マティアス殿下の執着は、その粘度と異常性を増していった。
ある夜、侯爵家主催の夜会でのこと。
わたくしが数人の貴族と、新たな物流網の構築について意見を交わしていると、ぬっ、と背後に人の気配がした。振り向くまでもない。この息が詰まるような圧迫感は、彼しかいない。
「楽しそうだな、ヒルデガルト」
地を這うような低い声。周囲の貴族たちが、蜘蛛の子を散らすようにサッと離れていく。音楽も人々の談笑も、まるで分厚い壁の向こうのように遠ざかる。二人だけの、歪んだ空間。
「ええ、とても。皆様と、この国の未来について語らっておりましたの。殿下も、いかがです? 最近、北方の関税について、何かお考えはございますか?」
あえて、政治の話題を振ってみる。
本来であれば、王太子として最も精通していなければならない分野のはずだ。しかし、マティアスは不機嫌そうに眉を寄せただけだった。
「そんなことより、なぜ私の贈り物をすべて送り返す」
「必要ないからですわ」
「私が、お前を想って選んだものだぞ!」
「でしたら、なおさらです。わたくしは、殿下のお気持ちを受け取るつもりは、毛頭ございませんから」
きっぱりと突き放すと、彼の顔が悔しさに歪んだ。その表情に、ほんのわずかな嗜虐心が満たされるのを感じてしまう自分は、やはり悪役令嬢なのだろうか。
「……お前は、変わったな」
不意に、彼が呟いた。
「以前のお前は、もっと……、そう、従順だった。私の言うことには、何一つ逆らわなかった。私の隣で、ただ美しく微笑んでいるだけの、完璧な人形だった」
「その人形が、自分の意志で動き始めたことが、そんなにお気に召しませんこと?」
「ああ、気に入らん。まったく気に入らん!」
彼は、激情のままにわたくしの腕を掴もうとした。わたくしは、その手が触れる寸前に、ひらりと身をかわす。彼の指先が、虚しく宙を切った。
「おやめくださいませ、殿下。ここは、公の場でございますわ」
「ならば、二人きりになれる場所へ行こう。話がある」
「お断りします。わたくしは、殿下とお話しすることなど、何もございません」
冷たく言い放ち、その場を去ろうとするわたくしの背中に、彼の呪詛のような声が突き刺さる。
「……いつか、後悔させてやる。私から離れたことを、心の底から悔やむことになるぞ、ヒルデガルト」
その言葉は、もはや脅しというよりも、悲痛な叫びのように聞こえた。
彼の視点に立ってみれば、事態は理解不能に違いなかった。
今まで自分の意のままになると思っていた婚約者が、ある日突然、自分を不釣り合いだと切り捨てた。そして、自分から離れた彼女は、あろうことか、以前よりもずっと輝きを増し、周囲からの称賛を一身に浴びている。
自分が手放したものが、実はとてつもない価値を持つ宝物だったと、後から気づかされたのだ。その喪失感と屈辱が、彼を歪んだ執着へと駆り立てているのだろう。
(哀れな方……。けれど、同情の余地はないわ)
自業自得、という言葉が、これほど似合う男もいない。
そんな歪な追いかけっこが続く中、ついに、物語の歯車が大きく動き出す出来事が起こる。
「号外だ! 号外! 王都郊外の村で、奇跡の少女が現れた!」
街角で、新聞売りの少年が声を張り上げている。人々が、その新聞に次々と群がっていく。わたくしも、侍女に一部買ってこさせた。
紙面には、大きな見出しが躍っていた。
『聖女、降臨! 枯れた大地を癒し、病を治す奇跡の力!』
記事によれば、王都から少し離れた貧しい村に住む、ユリア・ハウスラーという名の平民の少女が、ある日突然、強大な聖なる力に目覚めたのだという。
彼女が祈りを捧げると、日照りでひび割れていた畑が潤いを取り戻し、流行り病に苦しんでいた村人たちが、たちまち快癒したのだとか。
(ユリア・ハウスラー……!)
なぜ、今……? ゲームのシナリオより、ずっと早い!
わたくしの胸が、とくん、と小さく跳ねる。それは、恐怖ではない。どちらかといえば、安堵に近い感情だった。
(でも、これで、ようやく……)
本来のシナリオ通りであれば、マティアスは聖女であるユリアに強い興味を抱き、彼女を守るべき存在として認識するはずだ。そうなれば、わたくしへの理不尽な執着も、自然と彼女の方へと向かうだろう。ようやく、あの鬱陶しい鎖から解放されるのだ。
意外にも、王宮の動きは早かった。ユリアはすぐに王都に召し出され、その力が本物であると認定されると、神殿に丁重に保護されることとなった。
社交界も、聖女の話題で持ちきりになった。誰もが、その奇跡の力を一目見ようと、神殿への寄付を申し出たり、謁見の機会を窺ったりしている。
そして、マティアス殿下も、例外ではなかった。彼は王太子として、聖女の公式な庇護者となったのだ。
(良かった。これで、すべてが本来あるべき形に戻る)
わたくしは、心から安堵していた。これでようやく、自分の事業に集中できる。もう、彼の影に怯える必要もなくなるのだ。
しかし、その期待は、数日もしないうちに、木っ端微塵に打ち砕かれることになる。
その日、わたくしは取引先の商会との会談を終え、夕暮れの道を馬車で公爵邸へと戻る途中だった。
ふと、窓の外に、見慣れた人だかりができているのに気がついた。神殿の前の広場だ。
「まあ、すごい人だかりですわね」
侍女が感心したように呟く。人々は、神殿のバルコニーの一点を見つめ、熱狂したようにその名を呼んでいる。
「聖女様だ!」
「ユリア様!」
バルコニーには、簡素な白いドレスを身に纏った、一人の少女が立っていた。
亜麻色の髪に、少し怯えたような栗色の瞳。華奢で、守ってあげたくなるような、典型的なヒロインタイプの少女。あれが、ユリア・ハウスラー。
そして、その隣には、彼女を守るようにして、マティアス殿下が立っていた。
彼は、集まった民衆に向かって、威厳に満ちた態度で手を振っている。絵に描いたような、王子と聖女の姿だった。
(……これでいいのよ)
わたくしは、自分に言い聞かせるように、そう心の中で呟いた。そして、御者に馬車を出すよう命じようとした、その時だった。
バルコニーに立つマティアスの視線が、ふと、こちらを向いた。いや、違う。大勢の群衆の中に、点のように存在するわたくしの馬車を、正確に、射抜いたのだ。
ぞくり、と背筋に悪寒が走る。
民衆に向けられていた彼の表情から、すっと王子の仮面が剥がれ落ちる。そして、その碧眼に宿ったのは、聖女を慈しむ光ではなかった。
それは、わたくしだけに向けられた、暗く、燃え盛るような執着の光。
彼は、聖女の隣に立ちながら、その意識のすべてを、わたくしに向けていたのだ。
馬車が走り出し、神殿が遠ざかっていく。けれど、あの瞳の光だけは、脳裏に焼き付いて離れなかった。
~~~
聖女ユリア・ハウスラーの登場は、当初、王国に明るい光をもたらしたかのように見えた。
彼女の奇跡の力は本物であり、神殿に運び込まれる難病の患者を次々と癒し、その評判は日に日に高まっていった。民衆は彼女を熱狂的に崇拝し、マティアス殿下は聖女の庇護者として、その権威をさらに高めた。
すべては、順風満帆に進んでいるように思えた。
わたくし以外の、誰の目にも。
「……おかしいですわ」
メーレンベルク公爵領の執務室。わたくしは、領内各地から集められた報告書を前に、眉をひそめていた。
「何がおかしいのですか、お嬢様?」
傍らに控える老執事のセバスチャンが、不思議そうに問いかける。彼は、わたくしが物心つく前から、メーレンベルク家に仕えてくれている、忠実な家臣だ。
「見て、セバスチャン。この魔力濃度の観測記録を。特に、王都に近い東部の森林地帯。ここ一ヶ月で、魔力の流れが明らかに乱れてきている。まるで、淀んでいるような……」
わたくしが指し示したグラフは、安定していた数値が、聖女が王都に来た時期を境に、不規則に揺れ動いていることを示していた。
「それに、これ。凶暴化した魔物の目撃情報。これまでは森の奥深くにしか生息していなかったはずのオークやゴブリンが、人里近くにまで出没するようになっている。些細な変化だけれど、数が徐々に増えているのが、気にかかるわ」
前世の記憶では、レボラヴァの物語の中に、このような異変は存在しなかった。ゲームのシナリオは、あくまでヒロインと攻略対象たちの恋愛模様と、王国の覇権を狙う宰相の陰謀がメインだったはず。
(まさか、これも、わたくしが婚約破棄をした影響……?)
歴史の大きな流れを変えてしまったことで、未知の副作用が発生しているのかもしれない。だとしたら、あまりにも厄介すぎる。
「お嬢様は、考えすぎではございませんか? 聖女様が王都においでになってから、良い報せばかりが聞こえてまいります。これもきっと、一時的な異常気象のようなものでしょう」
セバスチャンの楽観的な言葉に、わたくしは首を横に振った。
「だといいのだけれど……。念のため、領内の警備を強化してちょうだい。それから、魔力の流れが特に乱れている地域には、調査隊を派遣して。何が起きているのか、正確に把握する必要があるわ」
「かしこまりました」
一抹の不安を抱えながらも、わたくしは日々の業務に戻った。
化粧品事業は相変わらず好調で、今では隣国からも商人が買い付けに来るほどになっていた。
事業が拡大するにつれ、やらなければならないことも山積みだ。不安に駆られている暇などない。
そんなある日、わたくしは王都の貴族街にある織物商を訪れていた。
新商品の香水瓶を入れる、美しい化粧箱に使うための布地を選ぶためだ。
店主と打ち合わせを終え、店を出たところで、思いがけない人物と鉢合わせした。
「……ユリア様」
そこに立っていたのは、数人の神官に付き添われた、聖女ユリア・ハウスラーその人だった。
彼女は、質素だが清らかな白いローブを身にまとい、少し戸惑ったような表情で、こちらを見つめていた。ゲームの立ち絵そのままの、儚げで庇護欲をそそる少女。
「あ……、あなたが、ヒルデガルト様……」
彼女の唇から、か細い声でわたくしの名前が紡がれる。
彼女がわたくしのことを知っているのは、おそらくマティアス殿下から聞かされたのだろう。一体、どんな風に説明されているのやら。
周囲の神官たちが、明らかに警戒した目でわたくしを見ている。
彼らにとって、わたくしは王子が執着している謎の女であり、聖女様の恋路を阻むかもしれない悪役令嬢なのだろう。実にわかりやすい。
「ごきげんよう、聖女様。このような場所でお目にかかれるとは光栄ですわ」
わたくしは、完璧な淑女のカーテシーを捧げた。ここで波風を立てるつもりは毛頭ない。彼女は、わたくしをあの鬱陶しい王子から解放してくれる、希望の光なのだから。
「あ、あの! いつも、マティアス様がお世話になっております……!」
ユリアは、慌てたようにぺこりと頭を下げた。その健気な姿に、周囲の通行人たちが「なんと奥ゆかしい聖女様なのだ」と感嘆の声を漏らしている。
(お世話? どちらかと言えば、一方的に迷惑をかけられているのだけれど)
そんな本音を喉の奥に押し込み、わたくしは優雅に微笑んだ。
「まあ、滅相もございません。わたくしの方こそ、殿下には公私にわたって良くしていただいておりますわ。聖女様こそ、慣れない王宮での生活でお疲れではございませんか? 何かお困りのことがあれば、わたくしでよければ、いつでも力になりますわよ」
社交辞令として、そう申し出る。
早くこの場を立ち去りたかった。けれど、ユリアは、わたくしの言葉に、何かを期待するように、その栗色の瞳を潤ませた。
「ほ、本当ですか……? あの、わたくし、ヒルデガルト様とお話してみたかったんです!」
「……わたくしと、ですって?」
予想外の言葉に、思わず聞き返す。神官たちが「ユリア様、なりません!」と慌てて制止するのを、彼女は小さな手で押しとどめた。
「少しだけでいいんです! ……マティアス様のこと、教えてほしくて」
その瞳は、真剣だった。恋する乙女の、切実な光が宿っていた。どうやら彼女は、ゲームのシナリオ通り、マティアス殿下に惹かれ始めているらしい。
(なるほど。恋の相談、というわけね)
面白くなってきた。彼の情報を少し渡すことで、二人の仲が進展し、わたくしへの執着が薄まるのであれば、安いものだ。
「いいですわ。近くに、わたくしの経営するお茶会サロンがございます。そちらで、ゆっくりお話ししましょう」
神官たちの反対を押し切り、わたくしはユリアを自分の店へと案内した。個室に通し、店の看板メニューであるハーブティーと焼き菓子を振る舞う。
「美味しい……! こんなに良い香りのするお茶、初めてです……!」
ユリアは、目を輝かせてお茶を飲んでいる。その無邪気な姿は、確かに可愛らしい。男たちが庇護欲を掻き立てられるのも、理解できなくはない。
「それで、殿下のことで、何をお知りになりたいのかしら?」
本題を切り出すと、彼女はカップを置き、少し恥ずかしそうに俯いた。
「マティアス様、時々、すごく遠くを見ているような、悲しい目をなさるんです。わたくしが隣にいても、心はここにあらず、というか……。きっと、ヒルデガルト様との婚約を解消されたことを、まだ引きずっていらっしゃるのではないかと思って……」
(引きずっている、というよりは、一方的に粘着しているだけなのだけれど)
「それで、わたくしに何かできることはないかなって。マティアス様の好きなものとか、喜ぶこととか、もしご存知でしたら……」
健気だ。実に健気だ。自分の恋敵になるかもしれない相手に、真正面から教えを乞うなんて。ゲームのヒロインらしい、純粋さと人の良さだ。
わたくしは、少しだけ意地悪な気持ちになって、尋ねてみた。
「聖女様は、殿下のこと、お好きなのですね?」
「えっ!? い、いえ、そんな、おこがましい……! でも、あの方は、とても立派な方で、優しくて……」
顔を真っ赤にして、しどろもどろになるユリア。その反応は、もはや答えそのものだった。
まあ、いいでしょう。ここは、ゲームのシナリオらしく、ヒロインの恋路を応援して差し上げることにするわ。それが、回り回って、わたくし自身の平穏に繋がるのだから。
「殿下は、甘いものには目がありませんわ。特に、ラズベリーをふんだんに使ったタルトがお好きよ。それから、ご自分が褒められることも、同じくらいお好きかしら。何かを成し遂げた時には、さすがです、殿下、と少し大げさなくらいに称賛して差し上げると、きっとご機嫌になるでしょう」
「ラズベリーのタルト……。褒めて差し上げる……」
ユリアは、わたくしのアドバイスを、真剣な顔で心に刻み付けているようだった。
その時だった。
バンッ!
と、けたたましい音と共に、部屋の扉が乱暴に開け放たれた。そこに立っていたのは、案の定、鬼の形相をしたマティアス殿下だった。神官からの知らせで、飛んできたのだろう。
「ヒルデガルト! ユリアに何を吹き込んだ!」
彼は、わたくしとユリアを交互に見ると、血走った目でわたくしを睨みつけた。
「まあ、殿下。ノックもお出来にならないなんて、感心いたしませんわ。ご覧の通り、聖女様と、楽しいお茶会をしていただけですわよ」
「お茶会だと? 貴様が、何の企みもなしに、ユリアと二人きりになるはずがない!」
まるで、わたくしが純真無垢なヒロインを騙そうとしている、悪の権化であるかのような言い草だ。
「ひどいですわ、殿下。わたくしを、何だと思っていらっしゃるの?」
「マティアス様、違うんです! 私が、ヒルデガルト様にお願いして、お話を聞いていただいていたんです!」
ユリアが、慌てて二人の間に割って入る。しかし、マティアスの耳には、彼女の声など届いていないようだった。彼の瞳は、ただ、わたくしだけを捉えていた。
「ヒルデガルト、もういい加減にしろ。お前が何をしようと無駄だ。お前は私のものだと言ったはずだ」
「殿下、わたくしはものではございませんわ。そして、しつこい殿方は、嫌われますわよ?」
わたくしが冷たく言い放った、その瞬間だった。
部屋の空気が、急に重くなった。まるで、水の中にいるかのように、呼吸がしづらくなる。そして、どこからともなく、不快な、腐臭にも似た気配が立ち上り始めた。
「……っ!?」
ユリアが、苦しそうに胸を押さえて、その場にうずくまった。彼女の顔は青ざめ、額には脂汗が滲んでいる。
「ユリア!? どうしたんだ!」
マティアスが慌てて彼女に駆け寄る。
「わからない……。急に、胸が苦しくて……。それに、この嫌な感じ……」
この気配、この空気の淀み。わたくしは、知っていた。領地の報告書にあった、魔力の乱れ。その中心にいるかのような、濃密な瘴気。
(まさか……! この瘴気は、ユリアから……!?)
彼女の強大すぎる聖なる力。それが、何らかの理由で不安定になり、周囲の魔力バランスを崩しているのだとしたら?
聖なる力も、魔力の一種。バランスを失えば、それは浄化ではなく、汚染の源にすらなり得るのではないか。
ユリアの苦悶は、数分で収まった。しかし、部屋に残った不快な気配は、すぐには消えなかった。
そして、この日を境に、王国を覆う災いの兆しは、誰の目にも明らかな形で、その牙を剥き始めることになる。
王都の井戸水が濁り、原因不明の病が流行り始めた。夜になると、街のあちこちで、魔物が人を襲う事件が頻発する。そして、王都を囲む森は、日に日にその色を失い、まるで死んだかのように枯れ始めていった。
~~~
王国を蝕む原因不明の瘴気は、もはや看過できないレベルにまで達していた。
王都の機能は麻痺し始め、地方との物流は滞り、民の不安は日増しに募っていく。
王宮は、この未曾有の国難に対し、完全に後手に回っていた。大臣たちは、来る日も来る日も会議室に集まっては、責任のなすりつけ合いと、効果のない対策案を議論するばかり。その光景は、前世で見た、業績不振の会社そのものだった。
そして、その無力な会議の中心で、最も歯がゆい思いをしていたのが、マティアス殿下だった。
王太子という立場にありながら、彼には、この国難を解決するための具体的な知識も、臣下をまとめ上げるリーダーシップも、何もなかった。
彼ができることといえば、瘴気に苦しむ民を見舞い、安心しろ、王家が必ず何とかする、と根拠のない言葉を繰り返すことだけだった。
「聖女様の力で、この瘴気を浄化することはできんのか!」
会議の席で、ある大臣がそう叫んだ。その言葉に、誰もが藁にもすがる思いで神殿に望みを託す。しかし、ユリアがいくら祈りを捧げても、瘴気は薄まるどころか、ますます色濃くなっていく一方だった。それどころか、彼女が力を解放しようとすればするほど、彼女自身の消耗も激しくなり、時には吐血して倒れることすらあった。
ユリア自身も、気づいていたのだろう。この厄災が、自分自身の存在と深く関わっていることに。自分が王都に来てから、すべてがおかしくなってしまったのだと。
彼女は日に日に塞ぎ込むようになり、その瞳からは、かつての純真な輝きが失われていった。
マティアスは、聖女の庇護者として彼女の側に付き添い、励ましの言葉をかけ続けていたが、その心は常にここにあらず。焦燥と無力感に苛まれながらも、彼の意識は、今この瞬間も、自分の事業と領地の守りを固めているであろう、一人の女性へと向けられていた。
一方、わたくしは、メーレンベルク公爵領内で独自の対策を進めていた。
「瘴気の発生源は、ほぼ間違いなく、聖女ユリア・ハウスラーの、不安定で強大すぎる聖力。彼女の力が、意図せずして周囲の魔力マナを汚染し、瘴気を生み出している」
領地の研究室で、わたくしは集めたデータと、前世の科学の知識を元に、そう結論付けていた。
この世界で聖力や魔力と呼ばれているものは、おそらく、未知のエネルギー粒子のようなものだろう。そして、ユリアはその粒子を、異常な密度で体内に保有し、放出している。
彼女自身が、歩く原子炉のような状態なのだ。原子炉が制御不能になれば、どうなるか。答えは明らかだ。
「問題は、どうやってそのエネルギーを安定させるか、だわ。力を封じ込めるだけでは、いずれ内部から崩壊する。放出されるエネルギーを、無害なものに変換する……、そんな装置が必要よ」
わたくしは、領地に古くから伝わる魔術の文献を片っ端から読み漁った。
古代の魔術には、現代では失われた、マナの性質を変化させる技術についての記述が残されているかもしれない。しかし、文献はどれも抽象的な記述ばかりで、具体的な解決策を見出すには至らなかった。
そんな中、事態を重く見た王宮は、ついに、一つの決断を下す。古くから魔力研究が進んでいる隣国、ブラウン王国へ、正式に協力を要請したのだ。瘴気の原因調査と、その対策について、専門家の派遣を依頼したのである。
正直、マティアス殿下や国王が、他国に頭を下げるという決断をしたことには、少し驚いた。それだけ、事態が切迫しているということなのだろう。
そして、数週間後。
隣国ブラウン王国からの使節団が、王都に到着した。その代表として派遣されてきた人物の名を聞いて、わたくしは二度驚くことになった。
「フィル・エスターライヒ……、隣国の、騎士団長ですって?」
セバスチャンからの報告に、わたくしは思わず眉を寄せた。
「はい。それだけでなく、王立アカデミーで古代魔術を研究する、碩学でもあるとのこと。文武両道の、絵に描いたような才人だそうでございます」
騎士団長であり、学者でもある。そして、フィルという名前。その響きに、わたくしは、前世の記憶の片隅に引っかかっていた、ある情報を思い出した。
レボラヴァには、DLC、あるいは続編で登場する予定だったのではないかと噂されていた、隠し攻略対象が存在した。それが、隣国の騎士団長、フィル・エスターライヒ。本編では名前しか登場しないが、冷静沈着で知的な、大人びた魅力を持つキャラクターとして語られていたはずだ。
(彼まで、この物語に登場してくるというの……?)
もはや、何が起きても驚かない。わたくしは、そう覚悟を決めた。
フィル・エスターライヒは、王宮での謁見を済ませると、すぐさま精力的に調査を開始した。
彼は、王宮の魔術師たちが提出した、役に立たない報告書の山には目もくれず、自らの足で瘴気の発生源を回り、土壌や空気を採取し、独自の分析を進めていった。
その無駄のない、合理的な仕事ぶりに、王宮の役人たちはただただ圧倒されるばかりだった。
そして、彼が王都に到着して三日目のこと。わたくしのもとに、王宮からの使者が訪れた。
「メーレンベルク公爵令嬢、ヒルデガルト様に、ブラウン王国のフィル・エスターライヒ様より、面会の申し入れがございました」
「……わたくしに?」
予想外の申し出だった。彼がわたくしに、何の用があるというのだろう。断る理由もなかったので、わたくしはその申し出を受け、翌日、メーレンベルク公爵邸の応接室で、彼と会うことになった。
約束の時間きっかりに現れたフィル・エスターライヒは、噂通りの男だった。
漆黒の騎士服に身を包み、腰には長剣を差している。けれど、その佇まいは、武人というよりも、学者のそれに近い。銀縁の眼鏡の奥で、理知的な紫色の瞳が、冷静にこちらを観察している。色素の薄い、さらりとした白銀の髪が、彼の非人間的なまでの美しさを際立たせていた。
「はじめまして、ヒルデガルト嬢。突然の申し出をお受けいただき、感謝する。私が、フィル・エスターライヒだ」
彼の声は、低く、落ち着いていて、聞く者に不思議な安心感を与えた。
「ご丁寧にどうも。ヒルデガルト・フォン・メーレンベルクですわ。それで、エスターライヒ様。わたくしに、何かご用でしょうかしら?」
単刀直入に尋ねると、彼は少し意外そうな顔をした。
「……噂には聞いていたが、率直な方だ。では、こちらも単刀直入に言おう。あなたの知識と見識を、お借りしたい」
「わたくしの、知識……?」
「私は、この三日間で、瘴気の発生源と、その性質について、おおよその見当をつけた。原因は、神殿にいる聖女、ユリア・ハウスラー。彼女の体内で生成される、異常なまでの高純度の聖力が、制御不能な状態で周囲のマナに影響を与え、一種の汚染、つまり瘴気を発生させている。これは、我が国に古くから伝わる聖女による厄災の記録と、完全に一致する」
彼の口から語られた言葉は、わたくしが独自にたどり着いた結論と、まったく同じだった。わたくしは、驚きを隠せなかった。この国の誰一人として気づかなかった真実を、彼は、わずか三日で看破してみせたのだ。
「その上で、だ――」
彼は続けた。
「――私は、あなたが、この事実におそらく気づいているであろう、この国で唯一の人間だと踏んでいる。違うかな?」
彼の紫色の瞳が、真っ直ぐにわたくしを射抜く。まるで、心の奥底まで見透かされているかのようだ。
「……なぜ、そのように思われるのですか?」
「メーレンベルク公爵領だけが、瘴気の被害を最小限に食い止めている。領境には、瘴気の侵入を阻害する、古代魔術式の結界が、ごく最近になって張り直された形跡があった。あれは、瘴気の正体を理解していなければ、施しようのない術式だ。そして、それを指示できるのは、この領地で実権を握っていると噂の、あなたしかいない」
すべて、お見通しだった。わたくしは、観念して、小さく息を吐いた。
「……ええ、その通りですわ。わたくしも、あなたと、同じ結論に至っております」
その答えを聞くと、フィルは初めて、その表情をわずかに緩めた。それは、笑みと呼ぶにはあまりにも微かだったが、確かに、安堵の色が浮かんでいた。
「やはりか。ならば、話は早い。ヒルデガルト嬢、この国を救うため、私に協力してはもらえないだろうか。あなたの、その規格外の知識は、必ずや、この国難を乗り越えるための鍵となるはずだ」
彼は、わたくしのことを規格外と評した。
頭脳と知識そのものを、彼は正当に評価してくれている。それは、わたくしにとって、初めての経験だった。
そして、何よりも。
「国を救う」という、その言葉。
わたくしは、断罪を回避し、自分の自由な人生を手に入れるために行動してきた。けれど、この国で生まれ育った人間として、民が苦しむ姿を見て、心が痛まないわけではない。もし、わたくしの知識が、この国を救う一助となるのならば。
「……いいでしょう。協力いたしますわ、フィル様」
わたくしがそう答えると、彼は満足げに頷いた。
「感謝する。では、早速だが、私の仮説を聞いてもらいたい。聖女の力を安定させるための、魔力安定装置についての、構想なのだが……」
彼は、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。そこには、複雑な魔法陣と、見たこともないような幾何学的な図形が、びっしりと描き込まれていた。
その瞬間から、私とフィルの、二人の知性を総動員した、壮大なプロジェクトが幕を開けた。
~~~
メーレンベルク公爵邸の一室を改造した即席の研究室は、それからというもの、夜を徹して明かりが灯り続けることになった。
膨大な量の古文書、魔術理論に関する専門書、そしてわたくしが書き溜めた前世の物理学や化学の知識に関するメモが、巨大なテーブルの上に無秩序に広げられている。その中心で、わたくしとフィル様は、来る日も来る日も議論を重ねていた。
「この古代ルーンは、マナの指向性を制御する効果がある。これを魔法陣の中心に配置することで、聖女から放出されるエネルギーを、一定の方向へ誘導できるはずだ」
フィル様が、羊皮紙の上を滑るように羽根ペンを走らせながら言う。
彼の頭脳は、まさにコンピュータのようだった。古代魔術に関する知識量は底が知れず、その応用力もまた、天才的としか言いようがない。
「ええ、指向性の制御は重要ですわね。ですが、問題はエネルギーの質そのものをどう変換するか、です。高エネルギーのガンマ線を、無害な可視光線に変換するような、そんなプロセスが必要よ。そうだわ、触媒を使いましょう。特定の鉱石を魔力で遷移させることで、高次のマナ粒子を、安定した低次の粒子へと分解できるかもしれない」
わたくしは、前世の知識を、この世界の法則に当てはめながら、次々とアイデアを出していく。
科学と魔術。本来であれば、決して交わることのない二つの知識体系が、わたくしたちの間で、驚くべき化学反応を起こしていた。
「触媒、か。面白い発想だ。それならば、魔光石はどうだろう。あれは、魔力を吸収し、浄化された光として放出する特性を持つ。これを装置のコアに……」
「待って。魔光石だけでは、エネルギー量に耐えきれず、飽和してしまう可能性があるわ。フィルターとして、複数の属性を持つ魔石を、層状に配置するのはどうかしら? プリズムが光を分けるように、マナの属性を一度分解し、段階的にエネルギー準位を下げていくの」
「なるほど! それは、思いつかなかった……!」
議論が白熱すると、時間も、互いの身分も忘れて、ただ一人の研究者として、純粋な知的好奇心の海に溺れていく。
時には、意見がぶつかり、激しく口論することもあった。けれど、それは決して感情的なものではなく、より良い答えを導き出すための、建設的な意見の交換だった。
そして、議論に行き詰まると、セバスチャンが淹れてくれた熱い紅茶を飲みながら、他愛もない話をした。
「それにしても、驚きましたわ。フィル様ほどの騎士団長が、これほど魔術に精通しているなんて」
「騎士は、ただ剣を振るうだけが仕事ではないのでな。国を守るためには、力だけでなく、知恵も必要だ。それに……、まあ、個人的な興味でもある。失われた古代の知識を探求するのは、純粋に楽しい」
そう言って、眼鏡の奥で少しだけ悪戯っぽく笑う彼の顔は、普段の冷静沈着な姿とはまた違う、年相応の青年の表情をしていた。
「あなたは、どうなんだ? 公爵令嬢が、なぜこれほどの知識を? あなたのそれは、もはやただの聡明という言葉では説明がつかない」
彼の紫色の瞳が、探るようにわたくしを見る。核心に迫る質問に、一瞬、心臓が跳ねた。
「……企業秘密、ですわ」
わたくしは、そう言って微笑んでみせる。彼は、それ以上は追及せず、そうか、とだけ言って、静かにお茶を啜った。
彼は、人の心に土足で踏み込んでくるような、無粋な男ではなかった。その心地よい距離感が、わたくしには、とてもありがたかった。
わたくしたちが研究に没頭している間にも、外の世界の状況は、刻一刻と悪化していた。そして、その状況を、最も間近で、最も無力感に苛まれながら見つめている男がいた。マティアス殿下だ。
彼は、日に日に衰弱していくユリアに付き添い、瘴気に覆われていく王都を視察し、機能不全に陥った王宮で臣下たちを叱咤するが、何一つ、事態は好転しない。
そんな彼の耳に、当然のように、わたくしとフィル様の噂が届いていた。
「メーレンベルク家のヒルデガルト嬢が、隣国のエスターライヒ様と、夜を徹して瘴気の研究に当たっておられるらしい」
「お二人は、まるで長年の同志のようだ。その知性の輝きは、傍で見ていても眩しいほどだと」
「なんでも、解決の糸口を掴みつつあるとか……」
その噂は、彼の心を、じりじりと嫉妬の炎で焼き尽くしていった。
ある晩のこと。
いつものように研究室でフィル様と議論を終え、わたくしが溜息をついた時だった。
「だめね……。装置の理論はほぼ完成したけれど、これを実際に稼働させるには、莫大な魔力が必要になる。それも、安定して供給し続けなければならない。そんな動力源、どこにも……」
「いや、一つだけある」
フィル様が、静かに言った。
「聖女自身の聖力だ。彼女から放出されるエネルギーそのものを、この装置の動力源として利用する。いわば、永久機関のようなものだ。暴走する力を、その力を制御するための力に変える」
その発想は、まさにコロンブスの卵だった。けれど、同時に、あまりにも危険な賭けでもある。一歩間違えれば、彼女の力をさらに暴走させ、大惨事を引き起こしかねない。
「……できるかしら」
「君と私なら、できる」
彼は、何のてらいもなくそう言った。その紫色の瞳には、わたくしに対する、絶対的な信頼が宿っていた。その信頼がくすぐったくて、そして、とても嬉しかった。
わたくしが、思わず、彼の言葉に微笑みを返した、その瞬間だった。
バァン! と、研究室の扉が、蹴破らんばかりの勢いで開かれた。
そこに立っていたのは、肩で息をしながら、わたくしたちを睨みつける、マティアス殿下だった。
その顔は、憔悴しきってはいたが、瞳だけは、異常なまでの熱を帯びて燃え上がっていた。嫉妬と、焦燥と、そして深い絶望の色。
「……楽しそうだな、二人とも」
彼は、テーブルの上に広げられた難解な数式や魔法陣を忌々しげに見ると、絞り出すような声で言った。
「国が、民が、これほど苦しんでいるというのに。君たちは、こんなところに閉じこもって、二人だけの世界に浸っているのか」
その言葉は、あまりにも理不尽で、子供じみた八つ当たりだった。フィル様が冷静に、しかし、鋭く言い返す。
「これは、遊びではない、マティアス殿下。我々は、この国を救うための、唯一の方法を探っている。あなたのように、ただ無力に手をこまねいているわけではない」
「何だと……!」
フィル様の言葉は、的確にマティアスの痛いところを抉った。彼は、ぐっと言葉に詰まり、その怒りの矛先を、すべてわたくしへと向けた。
「ヒルデガルト! お前は、それでいいのか! 私の元を去り、こんな他国の男と……! お前にとって、この国はどうでもいいというのか!」
その言葉を聞いた瞬間、わたくしの中で、何かが、ぷつりと切れた。
「……いい加減になさいませ、殿下」
自分でも驚くほど、冷たい声が出た。わたくしは、ゆっくりと立ち上がると、彼の前に進み出た。
「わたくしたちが、二人だけの世界に浸っている? この国のことを、どうでもいいと思っている? 冗談も、大概になさってくださいな」
わたくしは、テーブルの上の羊皮紙の一枚を、彼の胸に叩きつけた。
「わたくしたちは、この数週間、寝る間も惜しんで、この国を救う方法を考えてきたのです! あなたが、聖女様の隣で、ただオロオロとなさっている間に! 民の前で、空虚な慰めの言葉をかけている間に! わたくしたちは、たった二人で、この絶望的な状況に立ち向かっていたのですよ!」
感情が、昂ぶる。けれど、止められなかった。
「あなたに、わたくしたちを非難する資格など、あるのですか!? 国難という非常事態において、王太子でありながら、何の役にも立てず、ただ他人の功績に嫉妬しているだけの、あなたに!」
「……っ!」
マティアスは、言葉を失い、わなわなと唇を震わせた。彼の瞳から、嫉妬の炎が消え、代わりに、深い、深い絶望と、己の無力さに対する、痛切なまでの自己嫌悪が浮かび上がっていた。
彼は、初めて、現実を突きつけられたのだ。
ヒルデガルトの隣に立つのが自分ではない、という事実。
国を救う知恵も力も、自分にはない、という事実。
そして、自分が愛した女が、自分ではない男を、信頼に満ちた瞳で見つめている、という現実。
このままでは、彼女にふさわしくないどころか、彼女の隣に立つことすら、未来永劫許されない。
彼の足元で、最後まで残っていた、ちっぽけなプライドの残骸が、今度こそ、完全に崩れ去った。
研究室に、重い沈黙が落ちる。
やがて、彼は何かを振り払うかのように顔を上げた。しかし、その口は何も語らず、ただ静かに踵を返し、ふらつく足取りで研究室から出て行った。
残された者たちの間に戸惑いの空気が流れる中、扉が閉まる乾いた音が、やけに大きく響いた。
~~~
どれほどの時間が経っただろうか。不意に、再び扉が開き、マティアスが戻ってきた。
彼の瞳には、もはや嫉妬や焦燥の色はなく、ただ、ひたすらに真摯な、そして覚悟を決めた者の強い光が宿っていた。
彼は、わたくしとフィル様の前に、ゆっくりと進み出ると、何の躊躇もなく、その場に深く、深く頭を下げた。
王太子が、臣下と他国の使者に、ひざまずかんばかりの勢いで。その場にいた誰もが、息をのんだ。
「……頼む」
床に染みができそうなほど、低く、絞り出すような声だった。
「私に、できることはないか。君たちの、指示に従う。この国を、民を、そして……、ユリアを救うためならば、私は、どんなことでもする。だから、私を、君たちの仲間に入れてくれ」
それは、マティアス・フォン・ベルンハルトが、生まれて初めて、王子という分厚い仮面を脱ぎ捨て、ただ一人の無力な男として、助けを求めた瞬間だった。
彼のこの行動が、どれほどの覚悟を必要としたか。どれほどの葛藤の末に、彼をここまで至らせたのか。わたくしには、痛いほどにわかった。
目の前にいるのは、もはや、わたくしが婚約破棄を叩きつけた、あの傲慢で中身のない王子ではない。
己の弱さと向き合い、それを乗り越えようともがく、一人の人間だった。
わたくしは、フィル様と、無言で視線を交わした。彼の紫色の瞳にも、驚きと、そして、かすかな称賛の色が浮かんでいた。
「……顔を上げてください、殿下」
わたくしは、静かに言った。
「あなたのその覚悟、確かに受け取りました。ようこそ、我々のチームへ。あなたのお力は、必ずや必要になりますわ」
わたくしがそう言って手を差し出すと、彼は、信じられないという顔で、ゆっくりと顔を上げた。その碧眼が、わずかに潤んでいるように見えたのは、気のせいではなかっただろう。
こうして、わたくしの科学的知識、フィル様の古代魔術、そして、マティアス殿下の王太子としての権力、三つの異なる力が、初めて一つになった。
「装置の設計は、ほぼ完成している。問題は、これをどうやって、寸分の狂いもなく建造するかだ」
と、フィル様が設計図を広げる。
「資材と人員の手配は、私に任せろ。王家の名において、この国で最高の魔術師、建築技師、そして騎士団を、今すぐこの場に招集する。必要なものは、何でも言え。国庫の金も、すべて自由に使っていい」
マティアス殿下が、かつてないほどの覇気を持って宣言した。
「お待ちになって。ただ人手を集めるだけでは、烏合の衆ですわ。これは、精密機械を組み立てるのと同じ。一人一人の役割を明確にし、指揮系統を確立しなければなりません。全体の指揮は、王太子である殿下が。現場での技術的な監督は、フィル様が。そして、わたくしは、全体の工程管理と、ユリア様のケアを担当します」
わたくしがそう提案すると、二人とも、力強く頷いた。
作戦は、かつてないスピードで進展し始めた。
マティアス殿下の号令の下、王宮はまるで一つの生命体のように動き出した。
これまで責任のなすりつけ合いに終始していた大臣たちも、王子の鬼気迫るような気迫の前に、文句一つ言えず、その指示に従った。
国中から、最高の資材と人材が、王都の中央広場へと集められていく。
フィル様は、集められた魔術師や技師たちを前に、装置の理論と構造を、完璧に説明した。
彼の知性は、並の魔術師たちの理解を遥かに超えていたが、その言葉には、不思議な説得力があった。
誰もが、彼の指示に、疑いなく従った。
そして、わたくしは、神殿へと向かった。作戦の成功の鍵を握る、最も重要で、最も繊細な部分を担う、聖女ユリア・ハウスラーに会うために。
神殿の一室で、ユリアは、ベッドの上でか細い息をしていた。その顔は青白く、彼女の周囲には、よどんだ瘴気が渦巻いている。
「……ヒルデガルト、様……」
わたくしの姿を認めると、彼女は、力なく微笑んだ。
「ごめんなさい……。わたくしが、わたくしなんかが、聖女になったばかりに……。みんなに、迷惑を……」
その瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。彼女は、自分を責め続けていたのだ。誰よりも、この状況に心を痛めていたのは、彼女自身だった。
わたくしは、彼女のベッドの傍らに腰を下ろし、その冷たい手を、優しく握った。
「あなたは、何も悪くないわ、ユリア。あなたの力は、呪いなんかじゃない。それは、天から与えられた、尊い贈り物よ。ただ、その力が、あまりにも強大すぎて、あなた自身にも、この世界にも、まだ受け止める準備ができていなかった。それだけのこと」
「でも……!」
「だから、わたくしたちが、その力を正しく導くための、手助けをするのです。あなた一人で、すべてを背負う必要はないのよ」
わたくしは、これから行おうとしている作戦のすべてを、彼女に、丁寧に、優しく説明した。
自分の力が、装置の動力源になること。それは、大きな危険を伴うけれど、成功すれば、国を救うことができるということ。
すべてを聞き終えた彼女は、しばらくの間、静かに天井を見つめていたが、やがて、涙で濡れた瞳で、わたくしを真っ直ぐに見つめ返した。
「……やります。わたくし、怖くないです。もし、この力で、誰かを救えるのなら……。わたくし、頑張ります」
その小さな体に宿った、鋼のように強い意志。彼女は、決して、か弱いだけの少女ではなかった。
作戦決行は、三日後と決まった。
王都の中央広場には、民衆の不安と期待が渦巻く中、巨大で、そしてどこか神々しい魔力安定装置の建造が、急ピッチで進められていった。
そして、マティアス殿下は、民衆の前に立った。かつてのように、ただ虚しい言葉を繰り返すためではない。
「王都の民よ! 聞いてほしい!」
彼の声は、魔術によって増幅され、広場の隅々にまで響き渡った。
「我々は、この三日間、不安と恐怖の中で過ごしてきた。未来が見えず、互いを疑い、希望を失いかけていた。私自身も、そうだ。王太子でありながら、無力な自分を呪い、ただ怯えることしかできなかった」
民衆が、ざわめく。王太子が、自らの非を認めたのだ。
「だが、もう、下を向くのは終わりだ! 我々には、まだ希望が残されている! メーレンベルク公爵令嬢の叡智、エスターライヒ騎士団長の魔術、そして、聖女ユリア様の勇気! それらが、今、一つの光となろうとしている! だから、頼む! 我々に、力を貸してくれ! 不安を煽るのではなく、隣人と手を取り合い、希望を語ってくれ! 我々がこの国難を乗り越えるまで、心を一つにして、戦ってほしい!」
その演説は、決して流麗なものではなかった。けれど、そこには、彼の魂からの叫びが込められていた。民衆は、静まり返っていた。
やがて、どこからか、ぽつり、ぽつりと拍手が起こり、それは、あっという間に、広場全体を揺るがすほどの、大きなうねりとなっていった。
その姿は、もはや、かつての傲慢な王子の面影もない、民の心を掴み、国を導く、真の指導者のものだった。
わたくしは、その光景を、少し離れた場所から、フィル様と共に見つめていた。
「……見違えたな」
フィル様が、ぽつりと呟いた。
「ええ。人は、変われるものですわね」
わたくしの胸にも、温かい何かが、込み上げてくるのを感じていた。
~~~
作戦決行の日。空は、鉛色の瘴気に覆われ、真昼だというのに、まるで夕暮れ時のような薄暗さだった。
王都中央広場には、緊張した面持ちの騎士や魔術師たちが、最終準備を進めている。そして、その中心には、銀色の魔力安定装置がそびえ立っていた。それは、古代魔術の様式美と、どこか未来的な機能美が融合した、異様な、しかし、神々しいまでの存在感を放っていた。
装置の基部にある祭壇に、ユリアが、純白の儀式服をまとって静かに横たわる。彼女の顔は青ざめていたが、その瞳には、恐怖を乗り越えた、強い決意の光が宿っていた。
「ユリア、準備はいいか」
マティアス殿下が、優しく、しかし、力強い声で問いかける。
「はい、マティアス様。わたくし、いつでも……」
ユリアは、こくりと頷いた。彼女の手は、小刻みに震えていたが、それでも、彼女は逃げようとはしなかった。
わたくしは、装置の制御盤の前に立ち、フィル様は、魔法陣の要となる位置で、詠唱の準備を整えている。マティアス殿下は、全体の指揮官として、我々の中心に立っていた。
「作戦を開始する!」
マティアス殿下の号令が、広場に響き渡る。
「フィル殿!」
「心得た!」
フィル様が、低く、厳かな声で、古代語の詠唱を開始する。彼の全身から、蒼い魔力の光が立ち上り、広場に描かれた巨大な魔法陣が、一つ、また一つと輝き始めた。地面が、びりびりと振動する。
「ヒルデガルト嬢!」
「いつでも!」
わたくしは、制御盤の水晶に手をかざし、装置の起動シーケンスを開始する。設計図通りに、エネルギーが循環していくのを、神経を集中させてモニターする。
そして、すべての準備が整った。
「ユリア! 君の力を、解放するんだ!」
マティアス殿下の叫びに応えるように、ユリアが、ぎゅっと目を閉じた。次の瞬間、彼女の体から、これまでとは比較にならないほどの、凄まじい黄金の光――、聖力が、奔流となって溢れ出した!
ゴオオオオオッ!
暴風が、広場を吹き荒れる。あまりのエネルギー量に、騎士たちが盾を構えて、必死に耐えている。
「くっ……! 装置へ、エネルギーを誘導しろ!」
フィル様の詠唱が、さらに熱を帯びる。魔法陣が、溢れ出す聖力を、無理やりねじ伏せるようにして、装置のコアへと導いていく。銀色の塔が、内側から発光し、激しく振動を始めた。
「ヒルデガルト嬢! 制御盤の出力を最大に!」
「わかってるわ!」
わたくしも、必死に制御盤を操作する。
暴走するエネルギーが、装置の許容量をギリギリのところでせめぎ合っていた。少しでもバランスを崩せば、この装置は、王都ごと吹き飛ばす、巨大な爆弾と化すだろう。
その時だった。
「ぐぅ、……っ! あ……!」
ユリアが、苦悶の声を上げた。彼女の体から溢れ出す聖力が、黄金色から、次第に、禍々しい紫黒の色へと変わり始めたのだ。聖力が、瘴気へと反転しようとしている!
「まずい! このままでは、彼女自身が瘴気の発生源になってしまう!」
フィル様の顔に、初めて焦りの色が浮かぶ。
「ユリア! 意識を保て! 負けるな!」
マティアス殿下が、必死に叫ぶ。だが、ユリアの意識は、遠のきかけていた。
(どうすれば……! 何か、何か方法はないの……!?)
わたくしの頭脳が、高速で回転する。そうだ、装置の目的は、エネルギーの安定化。ならば、外部から、安定した波長の魔力をぶつけて、共鳴させれば……!
「マティアス殿下!」
わたくしは、叫んだ。
「あなたの魔力を、ユリアに! 王家の血に流れる、最も安定した、秩序の魔力を、彼女に注ぎ込むのです! 彼女の力の、錨となるのですわ!」
「……! わかった!」
マティアス殿下は、一瞬の躊躇もなく、祭壇へと駆け寄った。そして、震えるユリアの手を、両手で、力強く握りしめた。
「ユリア、聞こえるか! 私だ! 一人にはしない! 私が、共にいる!」
彼の体から、王家の象徴である、清らかな白銀の魔力が立ち上り、ユリアの体へと流れ込んでいく。それは、荒れ狂う嵐の海に、一本の光の柱を打ち立てるかのようだった。
「あ……、マティアス、さま……」
ユリアの意識が、かろうじて繋ぎ止められる。彼女の体から発せられる瘴気の色が、わずかに、黄金色へと戻り始めた。
「今よ! フィル様!」
「あぁ!」
フィル様が、最後の詠唱を完了させる。
銀色の塔が、天を衝くほどの、まばゆい光の柱を、瘴気に覆われた空へと放った!
光は、空を覆う分厚い瘴気の雲を、まるで紙を破るように貫き、その向こうにある、本来の青空を、一瞬だけ、覗かせた。
そして、次の瞬間。
光の柱は、周囲に広がり、王都全体を、優しく、そして、力強く包み込んだ。
瘴気が、光に触れたそばから、霧散していく。腐臭は消え、代わりに、雨上がりのような、清浄な空気が満ちていく。枯れていた街路樹の枝から、小さな緑の芽が、みるみると芽吹いていくのが見えた。
王都を覆っていた闇は、完全に払拭された。
人々が、呆然と、その光景を見上げている。やがて、誰からともなく、歓声が上がった。それは、あっという間に、王都全体を揺るがすほどの、大歓声へと変わっていった。
「やった……。やったんだ……!」
マティアス殿下が、へなへなと、その場に座り込む。彼の顔は、疲労と、そして、安堵に満ちていた。
祭壇の上で、ユリアは、すやすやと、穏やかな寝息を立てていた。彼女の体から発せられる聖力は、もはや暴走することなく、暖かな陽だまりのように、安定している。
作戦は、成功したのだ。
わたくしも、フィル様も、緊張の糸が切れたように、その場に座り込んだ。互いに顔を見合わせ、そして、どちらからともなく、笑い出した。
お世辞にも優雅とは言えない姿だったが、それは、わたくしの人生で、最も晴れやかな笑顔だったに違いない。
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国難が去った後の王都は、まるで長い冬から目覚めたかのように、活気に満ち溢れていた。
瘴気に蝕まれていた街並みは急速に元の彩りを取り戻し、人々の顔には明るい笑顔が戻っていた。
聖女ユリアは、力を完全に制御できるようになり、今度は自らの意志で、その治癒の力を人々のために使っていた。
フィル様は、隣国への報告と、今後の技術協力についての協議のため、しばらく王都に滞在することになった。
そして、マティアス殿下は、国難を乗り越えた真の指導者として、民衆から絶大な支持を集めるようになっていた。
すべてが、あるべき場所へと収まっていく。
わたくしも、ようやく日常を取り戻し、中断していた事業の立て直しに奔走していた。
もう、あの鬱陶しい王子の執着に悩まされることもない。そう思うと、心は晴れやかだった。
そんなある日の夜。
公爵邸の自室で、帳簿の計算をしていたわたくしのもとに、一人の使者が訪れた。
「マティアス殿下より、ヒルデガルト様へ。今宵、月の美しい庭園にて、お待ちしております、と」
その伝言を聞いて、わたくしは、思わずため息をついた。
(まだ、何か用があるというのかしら……)
正直、少し面倒だった。けれど、断るわけにもいかない。
わたくしは、簡素なドレスに着替えると、約束の場所である、王宮の庭園へと向かった。
すぐ上には、かつて、わたくしが彼に婚約破棄を叩きつけた、因縁の場所である王宮のバルコニーが見えた。
月明かりに照らされた庭園には、数多くの花々が、甘い香りを漂わせて咲き誇っている。
その中心に、彼は、一人で立っていた。
夜会で着るような華美な服装ではなく、シンプルなシャツとスラックスという、ラフな姿だった。
「……来たか」
わたくしの足音に気づくと、彼は、ゆっくりと振り返った。
その顔には、かつての傲慢さも、国難の最中に見せた悲壮感もない。ただ、穏やかで、少しだけ、緊張したような表情が浮かんでいた。
「お呼び立てして、すまない」
「いいえ。それで、ご用件は、なんですの?」
わたくしは、少しだけ、事務的な口調で尋ねた。これ以上、彼に振り回されるのは、ごめんだったから。
すると、彼は、ふっと、自嘲するような笑みを浮かべた。
「そう、急ぐな。……まず、礼を言わせてくれ。ヒルデガルト。君がいなければ、この国は、間違いなく終わっていた。本当に、感謝している」
彼は、深々と、頭を下げた。その姿は、あの研究室での光景を思い出させた。
「わたくし一人の力ではございませんわ。フィル様の知識と、ユリア様の勇気、そして、殿下の決断。そのすべてがあったから、成し遂げられたことです」
「ああ、そうだな。だが、きっかけは、君だった。君が、私に、現実を叩きつけてくれたからだ」
彼は、顔を上げると、真っ直ぐにわたくしの目を見た。その碧眼は、夜の闇の中でも、澄み切って見えた。
「君に婚約破棄をされた時、私は、世界を失った気でいた。自分のすべてを、否定されたと思った。だから、必死だったんだ。君を取り戻すことで、自分の価値を、もう一度、証明しようと。……実に、浅はかで、身勝手な執着だったと、今ならわかる」
彼の、静かな告白だった。
「だが、今ならわかる。私は、あの時、初めて世界と向き合う機会を与えられたのだ。君が、そして、フィル殿が教えてくれた。地位や、プライドだけでは、何一つ、誰も救うことなどできないのだと」
彼は、一歩、わたくしに近づいた。そして、あの夜、わたくしが彼を断罪した、まさにその場所で、今度は彼が、静かに、ひざまずいた。
「……殿下?」
「君の隣に立つために、私は、変わりたいと願った。そして、変わろうと、必死で努力してきた。この想いは、もはや、かつての浅はかな執着などではない」
彼は、ひざまずいたまま、わたくしを、見上げた。
その瞳には、一点の曇りもない、誠実な光が宿っていた。
「ヒルデガルト、心から、君を愛している。どうか、もう一度、私を見てはくれないだろうか。私の、パートナーとして、これから先、共に、この国を支えてはくれないだろうか」
それは、二度目の、プロポーズだった。
一度目は、家と家の都合で決められた、形式だけのもの。
そして、今度は、一人の男が、愛する女性に捧げる、魂からの、言葉。
ひざまずく彼を見つめるわたくしの脳裏に、この数ヶ月の出来事が蘇っていた。
泥にまみれながら、民を励ます彼の姿。臣下の意見に、真摯に耳を傾ける彼の横顔。そして、ユリアの手を握りしめ、自らの魔力を注ぎ込んだ、あの時の、力強い背中。
目の前にいるのは、かつて、わたくしが軽蔑しきっていた、傲慢な王子ではない。
自分の意志で、弱さを乗り越え、国を背負う覚悟を決めた、一人の、愛すべき男性だった。
ゲームのシナリオは、とっくに崩壊している。悪役令嬢は、断罪されるどころか、国を救う英雄の一人となった。
ならば、わたくしが、自分の心に素直になって、新しい物語を始めても、バチは当たらないのではないだろうか。
わたくしは、小さく、息を吸い込んだ。そして、少しだけ、意地悪く、微笑んでみせた。
「……その誓いを、もし、お忘れになったら」
「ああ」
「今度こそ、本当に、未来永劫さよなら、ですわよ?」
その言葉を聞いた瞬間、彼の顔が、安堵と、そして、子供のような喜びに、ぱあっと輝いた。
「……! ああ、約束する! 生涯、君だけを、愛し続けると!」
彼は、立ち上がると、わたくしの手を、そっと、しかし、力強く、握りしめた。その手の温かさが、心地よかった。
月明かりの下、二つの影が、静かに寄り添う。
~~~
数日後、王宮の門前で、ささやかな送別の会が開かれていた。隣国へと帰っていく、フィル・エスターライヒ様を見送るためだ。
「世話になったな、マティアス殿下。いや、次期国王陛下、と呼ぶべきか」
フィル様は、馬上から、晴れやかな笑顔でマティアス殿下に語りかけた。
「フィル殿こそ、この国の、終生の友だ。いつでも、歓迎する」
マティアス殿下も、力強い笑みを返す。国難を共に乗り越えた二人の間には、もはやライバルというよりも、固い友情と信頼が芽生えていた。
フィル様は、次に、わたくしの方へと視線を向けた。
「ヒルデガルト嬢。君との研究の日々は、私の人生で、最も刺激的で、楽しい時間だった。いずれ、学会で、我々の共同研究の成果を、発表させてもらうとしよう」
「ええ、ぜひ。その時は、わたくしも、論文の共同執筆者として、名前を連ねさせてくださいましね」
わたくしたちも、軽口を叩き合って、笑い合う。
彼は、わたくしの選択を、友人として、心から祝福してくれている。それが、彼の紫色の瞳を見れば、よくわかった。
「では、また会おう」
彼は、そう言うと、颯爽と馬を駆り、母国への帰路についた。その背中は、最後まで、涼やかで、格好良かった。
一方、聖女ユリアは、神殿に残ることを選んだ。彼女の力は、もはや人々を癒すための、希望の光そのものだった。
彼女は、王宮からの手厚い庇護の申し出を断り、一人の聖職者として、民の傍らで生きる道を選んだのだ。
時折、彼女は公爵邸に、お茶を飲みにやってくる。
マティアス殿下のことを、少しだけ気にしながらも、自分の選んだ道を、誇らしげに歩んでいる彼女は、とても輝いて見えた。
そして、わたくしと、マティアス殿下は。
「おい、ヒルデガルト。その書類、まだ終わらないのか? 今日は、城下町の新しい孤児院の視察に行くと、約束しただろう」
「お待ちになってくださいまし、マティアス。あなた様が、昨日、承認印を押し忘れたせいで、こちらの仕事が増えたのですわよ?」
王宮の執務室で、わたくしたちは、相変わらず、そんなやり取りを繰り広げている。
わたくしは、王太子妃の座に返り咲いた。けれど、以前のように、ただ飾られているだけの妃ではない。
メーレンベルク公爵家の人間として、そして、一人の事業家としての立場も維持したまま、彼の公務の、そして、プライベートの、最高のパートナーとして国政の一翼を担っている。
彼は、まだ、時々子供っぽいところを見せるけれど、それでも、彼の決断の一つ一つには、国を、民を想う、王としての覚悟が、確かに宿っていた。
ゲームのシナリオは、根底から覆された。
悪役令嬢は、断罪を回避しただけでなく、自らの手で、国の危機を救い、一人の未熟な王子を、真の王へと成長させた。
そして、手に入れたのは、断罪されない未来、というだけではない。
互いを高め合い、共に未来を創造していく、最高のパートナーシップという、何物にも代えがたい幸せだった。
執務室の窓から、活気に満ちた王都の街並みが見える。
「さあ、行きましょうか、マティアス」
「ああ。行こう、ヒルデガルト」
手を取り合って、扉を開ける。
この先に、どんな物語が待っているのか、それは、まだ誰にもわからない。
けれど、二人でなら、きっと、どんな困難も乗り越えていけるだろう。
そう、確信しながら。
読んでくれた皆様、本当にありがとうございます!
他にもいくつか短編を掲載しています。私のユーザページから見れるので、読んでもらえればとても嬉しいです! リアクションもお待ちしています。よろしくお願いします!




