1:高菜木健とその後
午後3時 。品川区の建設現場。
匿坂冬十郎は小さな紙袋を手に、建設現場の入り口に立っていた。中には子ども用の花の髪飾りが入っている。さくらが監禁されていた倉庫に落ちてたらしく、綿花が拾っていたのだ。しかし今日までそれを忘れていたらしく、急遽匿坂が届けることになった。
「すみません、高菜木健さんはいらっしゃいますか?」
現場監督らしき男性に声をかけた。
「高菜木?ああ、あいつなら今日はジムの日だよ」
「ジム?」
「格闘技やってんだ、あいつ。副業でな。今頃スパーリングでもしてるんじゃないかな」
現場監督が作業着の埃を払いながら答える。
「どちらのジムでしょうか?」
「駅前の『ファイトクラブMINAGOROSHI』ってとこだ。娘さんもよく見に来てるよ」
匿坂は礼を言って現場を後にした。
ーーー午後4時 。ファイトクラブMINAGOROSHI前。
ジムの扉を開けると、サンドバッグを叩く音と掛け声が響いていた。汗の匂いと革の匂いが混じった、格闘技ジム特有の空気だった。
「いらっしゃい。見学ですか?」
受付の男性が声をかけてきた。
「高菜木健さんを探しています」
「ああ、彼なら今リングで練習中ですよ」
匿坂がリングの方を見ると、確かに高菜木がグローブをつけて練習している。そしてリングサイドには…
「あ!探偵のお兄さんだ!」
さくらが手を振って駆け寄ってきた。8歳とは思えない元気な声だった。
「さくらちゃん、こんにちは」
「お父さん、探偵さんが来たよ!」
リングの中の高菜木が振り返った。汗だくで、普段の物静かな印象とは全く違って見える。
「匿坂さん?どうしてここに?」
グローブを外しながら高菜木がリングから降りてきた。
「これを届けに来ました」
匿坂が紙袋から髪飾りを差し出すと、さくらの目が輝いた。
「私の可愛いお花さん!」
「倉庫に落ちていたそうです。色々あって、届けるのが遅くなってしまいました」
「ああ、なくしたと思って落ち込んでました…。亡くなった妻からの大切なものなんです。ありがとうございます」
高菜木が深く頭を下げた。
「わざわざすみません。仕事場にも行かれたんですか?」
「ええ、そこで格闘技をされていると聞いて」
「恥ずかしいです。副業でやってるだけで、たいしたことないんですが」
高菜木が苦笑いする。
「お父さん、強いんです」
さくらが誇らしげに言った。
「この前の試合でも勝ったんです」
「さくら、あれはアマチュアの大会だから」
「でもすごいもん!」
父娘のやり取りを見ていると、微笑ましくなる。
「匿坂さん、格闘技には興味ありませんか?」
高菜木が突然尋ねた。
「いえ、特には…」
「せっかくいらしたのだから、少し体験してみませんか?危険なことはしません」
匿坂は少し考えた。以前の事件で高菜木と戦った時、接近戦も慣れてる感じがしたことを思い出す。格闘技をやっているなら納得だ。
「やったね!お父さんと練習できるよ」
さくらが期待の眼差しを向ける。
「じゃあ、お手柔らかにお願いします」
匿坂は了承した。高菜木の実力を間近で見る良い機会でもある。
「グローブは軽めのものを」
高菜木がヘッドギアと一緒に16オンスのグローブを差し出した。
「基本的な構えから教えます。足は肩幅に…そうです」
匿坂は言われた通りに構えた。運動神経は悪くない方だが、格闘技は全くの未経験だった。警察時代に制圧術を学んだが、ほぼ独学でやったのでこういう場所での格闘技体験は、非常に新鮮なものだった。
「では、軽くジャブを出してみてください」
「こうですか?」
匿坂が左拳を前に出す。フォームは素人そのものだった。
「いいですね。では私がミットを持ちますので、叩いてみてください」
高菜木がフォーカスミットを構える。
匿坂がジャブを放つ。当たりはするが、うまく力が伝わらない。
「もう少し腰を回して…そうです」
高菜木が丁寧に指導する。しかし匿坂は技術ではなく、別のことに集中していた。
(高菜木さんの動き…無駄がない)
匿坂は高菜木の足さばき、体重移動、視線の動きを観察していた。探偵として培った観察力が、格闘技の動作を分析している。
「今度はこちらから軽く攻撃しますので、避けてください」
高菜木が軽いジャブを放つ。匿坂は上体を逸らして避けた。
「お、いい反射神経ですね」
今度は少し速いジャブ。匿坂はステップで避ける。
「いい動きです。…手加減いらなさそうですね」
高菜木が本格的に動き始めた。左右のコンビネーション、フットワークを交えた攻撃。
しかし匿坂は全て見切っていた。
(右ジャブの前に必ず左足に体重を乗せる。フックを打つ時は必ず肩が下がる)
匿坂の回避が的確すぎて、高菜木が困惑し始めた。
「匿坂さん、本当に初心者ですか?」
「ええ、格闘技は初めてです」
匿坂が避けながら答える。
「ただ、高菜木さんの攻撃パターンが読めるんです」
「パターン?」
「右ストレートの前に、必ず左足の膝が少し曲がります。フックの時は肩が2センチ下がる。左ジャブは拳を握る瞬間に手首が僅かに内側に向く」
高菜木が動きを止めた。
「そんな細かいことまで…」
「職業柄、人の動作を観察する癖があるんです」
リングサイドで見ていたジムの他のメンバーたちがざわめいた。
「すげえ、あの素人、高菜木の攻撃を全部避けてる」
「高菜木って市の大会で優勝したことあるんだぜ」
さくらが目を輝かせて手を叩いている。
「お兄ちゃん、すごい!」
高菜木は汗を拭きながら苦笑いした。
「参りました。これが探偵の観察力ですか」
「格闘技の技術とは全く別の話です。高菜木さんの動きは素晴らしいです」
二人がグローブを外すと、周りから拍手が起こった。
「お疲れ様でした」
高菜木がタオルで汗を拭きながら言った。
「いえ、貴重な体験をさせていただきました」
さくらがスポーツドリンクを二人に渡してくれる。
「お兄ちゃん、お父さんより強いの!?」
「まさか…。本気でこられたら手も足もでないよ」
匿坂が慌てて否定する。
「でも避けるの早かったよね!」
「探偵さんは観察のプロですから」
「ははは…」
高菜木は興奮するさくらを見て微笑んでいた。
「実は、本格的に格闘技を始めたのは最近なんです」
「なにか理由でも?」
「はい。さくらを守れる強さが欲しくて」
高菜木の表情が少し曇った。
「それに…償いの意味もあります」
「償い?」
「通り魔事件で迷惑をかけた被害者の方々には、全員に謝罪に伺いました。慰謝料もお支払いして」
匿坂は黙って聞いていた。
「格闘技で稼いだお金も、その一部に充てています。完全に償えるわけではありませんが…」
「お父さんは頑張ってるもん」
さくらが高菜木の手を握った。
「毎日お仕事して、ジムに来て、私のご飯も作ってくれて」
高菜木がさくらの頭を撫でる。
「この子のためです。強い父親でいたいんです」
「もう十分強い父親だと思います」
匿坂が言った。
「肉体的な強さだけじゃなく、精神的にも。俺は高菜木さんを尊敬してますよ」
「ありがとうございます」
高菜木の目に涙が浮かんだ。
「匿坂さん、本当にありがとうございました。あの時助けてくださらなかったら…」
「過去のことはもういいんです。これからのことを考えましょう」
「うんしょ、うんしょ」
さくらが髪飾りを頭につけた。
「お母さんの髪飾り可愛い?また一緒だね」
「ああ…きっとお母さんも喜んでる」
高菜木が優しく微笑んだ。
夕日がジムの窓から差し込んで、三人を温かく照らしていた。償いと成長。そして何より、父と娘の絆。
匿坂は温かい気持ちでその光景を見つめていた。