第八章(全十二章)
全ては既に書かれている。だが、書かれたものを再び生きるのが我々の運命だ。
:ガブリエル・ガルシア・マルケス『百年の孤独』
《ツァール・カトリエーヤ暦 一二一〇年》
「親愛なる友 ユーノへ
この同じ空の下に君がいることを嬉しく思います。あの海の獄に追いやられた時には、もう二度と生きて大空を見上げることはないかと思いました。日が沈む前の空にほんのひと時浮かぶ、息を呑むほど美しい薄紫の色彩も。
この手紙も検閲される可能性が高いので、平和だった時分のように、身の周りのことや読んだ本のことなど、長々とは書けません。私は今、『さくらんぼ』と一緒に暮らしているので、心配しないでほしい。
友情を込めて
シャルギエル」
《二〇一七年 東京》
白い緩やかな衣装を着た女は目を閉じ、恍惚の微笑みを浮かべながら語る。さながら天使のようだ。
「ヨーロッパ、ドイツね。二十世紀前半だと思います」
或いは、「レーテ川の水を飲むダンテ」の絵画に描かれたベアトリーチェか。
「男性ね。黒髪だけど目は青いわ。背が高くて、体が大きい」
香を焚きしめた小さな部屋の中に、彼女の声が清らかに響く。
「黒髪だけど目は青い」という所で、わたしははっとした。少女の頃から、わけもなく惹かれる要素だった。
「第二次世界大戦の頃のドイツ軍の、灰色に近い緑色の制服を着ています。ということは、ナチスドイツかしらね?家柄のいい、身分の高い将校さんね」
「ナチス・・・・」
とわたしは呟いた。そういえば十代の頃、なぜか興味を持ってあの時代のことを調べたことがあったが、自分が世界史上稀に見る悪の国家体制の手先だったなんて、少しショックだった。
「でもね、その方はずっと、その体制に対して疑問と反発を抱き続けていたみたいよ」
堂本あやかの話は続く。ソファにかけたわたしの横に座り、目を閉じて肩に片手を置いているので、わたしの表情は見えないはずである。
「戦争やホロコーストには関わっていないわ。都市の警備や軍の情報に関する仕事をしていたみたいです。友だちによく、長い手紙を書いていて・・・・本当は軍人なんて好きじゃなくて、詩人や小説家になりたかったんじゃないかしら。普段は謹厳実直なんだけど、笑うと少年のような顔になります」
遠い空色の目が、心の奥で瞬く。見知らぬ、懐かしいその眼差し。
記憶と忘却の闇を光が照らす。
わたしはその人を知っている。
「石造りの昔からの大きな家に住んでて、奥さんと子供が二人いる。女の子と男の子。家族をとても愛していたみたい」
「シャルギエル・・・・!」
わたしは女に向かって叫ぶ。その名前を発音するのは実に二十年ぶりだった。
「それはシャルギエルです。わたしが高校の時に書いた小説の主人公です。あなたのことは・・・・よく知っています」
あやかが見ている「その人」に向かって、わたしは言った。
あやかは忘我の境地から覚醒し、驚いてわたしを見つめた。
「あっ、ごめんなさい」
「いいえ、大丈夫ですよ。今言ったこと、本当?わたしもびっくりだわ」
「ええ、その・・・・中学高校の時に、無性にヒトラーやナチスドイツのことが気になって、調べたことがあったんです。それを基に、ナチスドイツをモデルにした架空の国家を舞台にした小説を書いたんですが、その主人公がその人です。今まで忘れていたけど、わたしが小説に書いたことが全部、今あやかさんの口から出てきました」
妻子がいるということ以外は。だが、実は最初、シャルギエルには妻がいたが、お産で死んだ、または燐火党に謀殺されたということにして、シャルギエルは生き別れた子供、男女の双子を捜す、という話にしようかと思っていた。愛香の猛反対に遭ったので断念した。そこには強い拘りはなかったので、愛香の希望を容れて、燐火党に殺された同志夫婦の子供の面倒を見ているということにした。男女の双子の設定は残した。シャルギエルが同志への手紙に「さくらんぼ」と暗号でしたためているのはその姉弟のことだ。
スピリチュアルリーダー(霊媒)の感動と興奮はわたしに劣らなかった。
「わたしも長年、沢山のセッションを経験してきて、中にはご自分で過去生を思い出される方もいらっしゃるんですが、こんなケースは初めてです」
わたしと同年代の女性は喜ばしそうに語った。
「では、もう一回、よく見せて下さいね。ゆっくり息をして下さい」
そう言って彼女は再び、わたしの肩に手を置き、深いトランス状態に入った。
「今見せてもらってるのは、馬に乗って郊外の森の中に散策に行っているところです。お休みの日なんかはそうやって、一人で詩集や小説を読んで過ごすことがあったみたい」
馬・・・・?は書いてなかったと思うけど、そうなんだ。趣味がいいし貴族みたいだし、シャルギエルならそうしたかもなあ。
それが、わたしなんだ。シャルギエルはわたしで、シャルギエルは二十世紀前半のドイツに本当にいた人で、その人がわたし、わたしがその人なんだ。
わたしは忘れていなかった。ドイツの将校として生きていたことを、まだ幼かったわたしは覚えていたんだ。だから、チリチリ焼けつくような、「郷愁」のような衝動で、あの時代のことを調べたいと思った。曾て別の誰かとして生きた生のことを、小説に著したいと思ったんだ。
その感覚、その確信を得られたことは悪くなかった。というよりも、わたしだけの特別感のある、大きな喜びだった。
インターネットでたまたま過去生や前世に関する記事を見て、全くの興味本位で受けたセッションだけれど、本当に来てよかったと思った。
「その方の魂は、地上を離れてからも、あなたの中に生きている。あなたとして生きていますよ」
堂本あやかは微笑んでセッションを締め括った。
いつ、どのようにして地上を離れたのかは訊かなかった。「静寂の海」の作者であるわたしには何となくわかるような気がしたからだ。
「今日のことは一生忘れません」
そう言って、彼女の柔らかな手を握った。
《二〇一八年 東京》
「しかしね、十朱さんが間違いなくその方の生まれ変わりだっていうのはどう証明するんです?」
「恐山の論僧」と恐れられ、著書も多数ある曹洞宗の超有名な僧侶・壇九浄は言う。
「作中人物のシャルギエルと区別するために、シャルギエル´(ダッシュ)と呼びましょうか。そもそもシャルギエル´は実在したのか。実在したと仮定して、その仮定の上に更に、堂本某というイタコさんは事実、過去の世界や人の心の中を見る能力を持っているという仮定を積み重ねます。ナチス時代のドイツに生きていたある将校の容貌や生活、思考や心情を読み取ることができたとして、その将校の魂が今、ぼくと話している十朱ミクさんと同一であるという論理を担保するものは何でしょうか」
わたしが圧倒されて黙っていると、
「ぼくはべつにあなたを否定しているわけでも、やりこめたいわけでもないですよ。でも、青い目に黒い髪、大柄な体くらいなら偶然でも充分あり得るとぼくは思ったし、こう言うと誤解を招くかもしれないが、ナチス時代の話は人を惹きつけるものがありますよ。闇の魅力といいますかね。特に思春期くらいのオタクっぽい感性の子なら、女の子でもよくある話だと思います。ヒトラーが元々絵描きっていうのもなんか謎めいてるし、親衛隊は本当に長身で金髪の美形しか入れませんでしたから」
わたしは苦笑いした。壇はこういう人だとわかっているので、不快だとも腹立たしいとも悲しいとも思わなかった。そもそも壇の本を何冊か読んで感銘を受けて、面会を申しこんだのはわたしだ。
壇は手続きを踏んで依頼すれば無料で面会してくれる人で、今日、新宿の高層階にある喫茶店で一時間ばかり話せることになった。黒い袈裟を着た長身痩躯の僧侶と「不屈」と書いてある労働組合のTシャツにジーンズ姿の女性のペアは、片割れだけでもその店ではものすごく異質だっただろう。
「そうですね、証拠はないと思います。でも、わたしは、シャルギエル´のことを考えると何だか嬉しいんです。温かい気持ちになる。自分で『なんかそんな気がする』『わたしっぽい』って思うんです。今のわたしはこの通り、こんな小柄な女性やけど、前世はガタイのいい軍人やったって言われたら違和感持ちそうなもんやのに、そういう色気ない話の方がどういうわけかわたしにはしっくりくるんです」
「奥さんと子供がいたんでしょ?イケメンだったみたいだから女性を泣かせていたかもしれません」
壇は鋭い目をキラッと光らせて笑う。TVに出て話しているのも見たことがあるけど、会ってみるともっと砕けた話し方をする人だ。
「してませんよそんなことは」
とわたしは、本当にシャルギエル´になったような気持ちで言う。「Nein,nein」とか言うのかしら。
「イタコさんがその小説を読んでいた可能性はない?」
「あれは友だち一人に見せただけのもので、原稿は実家のベッドの抽斗にしまいこんだままです。ネットにもupしてません。九浄さんの本と違って、大勢の人に読まれるようなものではないですから、その可能性はありません」
「ふむ」
壇は顎に手を当てて考えこむ。
「シャルギエル´が実在するにしてもしないにしても、イタコさんが人知を超えた能力で読み取ったのはあなたのその小説のストーリーの方かもしれませんね。私はそういう能力の存在自体は否定していません」
「それは九浄さんの本を読んでいるからわかります」
「あそっか、全部読まれちゃってるのか」
壇は額をコツンと叩く。
「イタコさんがその小説のストーリーや自分が以前に観た映画か何かをごっちゃにして、即興でその将校のイメージを作り上げてあなたに話して聞かせた、とも考えられます。あなたを騙そうという意図はなく、彼女は自分の空想の産物を目の前の人の前世を見ていると錯覚しているのかもしれません。確認しようがないことですからね」
「でも、それにしてはかなり、当時のドイツ軍の情勢を言い当てていたように思えます。彼女にそこまでの予備知識があったとも思えないけど」
ドイツ軍の「灰色に近い緑色の制服」が見えるというのは奇妙な話である。堂本あやかの口ぶりだと、シャルギエル´は国防軍の将官のように思えるが、国防軍も親衛隊も「ナチスドイツの軍隊」で区別がつかない人も多いだろう。親衛隊であれば黒か、もう少しビビッドな緑である可能性が高い。または、ヒトラーやゲッベルスがよく着用しているイメージのある、茶色の「ナチ党の」制服か。もし全てが霊媒の想像であれば、その辺りを混同したまま話してもよさそうな気もする。
「だからそれはあなたが小説に書いたんでしょ」
「あれ?わからんようになってしもた。シャルギエルの服の色なんて書いたかな・・・・」
わたしは目を白黒させた。
「反体制の将校ってのは話ができすぎてる気がするな。誰だってそんな風に言われたいものですからね。そのイタコさん、誰にでもそんな話をしてるんじゃないですか。前世は王様だったとか、お姫様だったとか」
「政治的判断ですか。いえ、普通に親衛隊員としてユダヤ人を撃ちまくる前世が出てくる人もいるし、そういう時はありのままにお伝えすると言ってました」
「そうなのか~」
壇は目を剥いてぐるっと首を巡らした。
「まあ、ぼくは何とも言えない、生まれ変わりを否定もしないし肯定もしない立場ですけど、その話が何か、生きる上でのあなたの励みになってるんだったらいいんじゃないかな。あなたはその話が、その将校さんが好きなんでしょ?自分の前世がその人だと嬉しいんでしょ?」
壇はにっと微笑む。
「はい。それに、嬉しいじゃないですか。生まれ変わりが本当にあるとしたら」
わたしは左手の甲で鼻を擦り上げて微笑み返す。
「でも、あなたは輪廻転生を信じているんだから、キリスト教を信じているんじゃないね」
壇にズバリ言われて、一言も言い返せず、笑ってお茶を濁したことを印象深く覚えている。キリスト教の教義では、死んだ者は一様に眠りに就き、この世の終わりが来る時に初めて目覚め、神によって裁かれ、永遠の御国に生きる者と地獄に堕ちる者とに分けられるということになっているからだ。「最後の審判」である。
「実際、どう整合性つけてるんですか?」
と、壇は禅僧らしく(?)、鋭く切りこむ。
「『魂の不滅』を信じる、ってことで」
とわたしは真面目くさって答え、「あの、ご本にサインを」と、持ってきていた壇の著書を差し出した。
壇はさらさらと本にペンを走らせ、わたしに差し出しながら、笑顔で言った。
「まあいいでしょう。禅でも直観は大切だよ」