夜のピアノ
その日、大樹は、廃校に向かったんだ。
ほら、ああいうところって、人がいなくなると、急に“ナニカ”が住み着くからね。
誰もいないはずなのに、誰かがいるような気配。
聞こえないはずの声が、耳元でささやく。
……あんまりいいものじゃないよ。
でも、大樹はそういう場所に、あえて足を踏み入れる子なんだ。
「怖くないの?」って誰かが訊いたら、きっとあの子はこう言うよ。
「怖いけど、放っておけない」って。
廃校の中は、ひんやりとしていて、空気がよどんでいた。
ガラスの割れた窓、黒板に残る落書き、誰もいない教室。
だけどね、そこには“残ってる”んだ。
まだ、声にならない声が、いくつも。
大樹が立ち止まったのは、旧音楽室。
ピアノがぽつんとひとつ。埃をかぶって、沈黙していた。
でも、彼には聞こえたんだろうね。
――ポロン……
誰もいないはずの部屋で、鍵盤が鳴る音。
そこにいたのは、“幽霊”と呼ばれるものだったよ。
生きていたころ、きっと音楽が好きだったんだろうな。
でも、なにか思いを残したまま、この場所に縛られていた。
大樹は、ゆっくりピアノに近づいて、話しかける。
「聞こえたよ」
声は届かないかと思ったけど、鍵盤が一音、返事するみたいに鳴った。
それから、大樹はしばらく、黙ってそこにいた。
まるで、何かを待つように。
やがて、掌に炎が灯る。
でも、すぐにはそれを使わなかった。
彼は、まずその子の思いを感じ取ろうとしたんだ。
未練も、悲しみも、怒りも、すべてひっくるめて受け止めようとした。
それから、そっと呟いた。
「ありがとう。もう、ここにいなくていいよ」
その瞬間、炎が静かに舞い上がって――
部屋の空気が、少しだけやわらいだ。
それが、浄化ってやつだよ。
力でねじ伏せるんじゃない。
寄り添って、受け止めて、そして手放させる。
……ね、大樹って、やっぱりすごいと思わない?
廃校を出るとき、大樹はふと振り返った。
旧音楽室の窓。
そこには、もう何もいなかった。
でもね――私は見たよ。
薄く、やさしい光が、最後にひとつ、鍵盤の上に舞っていくのを。
【つづく】