やさしい炎
その家は、妙に静かだったんだよね。
人の気配はあるのに、声がしない。足音もしない。
それなのに、空気だけが、ぬるぬると肌にまとわりつくみたいで。
ふたり、家族がいたんだ。
母親と、息子。……まだ幼い子だったよ。
でもね、なんというか――ふたりとも、壊れそうなほどに張りつめていた。
日常が、ひとつの綱渡りになってしまってる。そんな感じ。
「お届け物です」
彼のその声を聞いてね、息子は立ち上がったよ。玄関のドアを開ける。そこには、背が高くて、精悍そうな宅配業者のお兄さん。胸のネームプレートには、「真城大樹」。
赤い目で、じっと息子を見下ろす。
「…………」
息子は震える声で言ったんだ。
「たすけて」
「おじゃまします」って言いながら、大樹はちゃんと玄関の神棚にも手を合わせた。
……気づいてるんだよ。空気に巣くってる“なにか”に。
息子くんの姿を見たとき、大樹はきっと思ったんじゃないかな。
「これは普通じゃない」って。
小さな背中。青ざめた顔。
何かに脅えてるようで、それでいて無表情。
……ああいう子を見ると、私も胸が痛くなるんだよね。
「何をしてるの」
母親の鋭い声が飛んできた。
「私の子をどうするつもり」
母親は大樹の腕を掴んで、息子から引き離そうとした。でもね、大樹は静かに笑ったんだよ。
「……なんか、色々あったんですね。知らないけど。大丈夫ですよ。なんとかなります」
その言葉に、母親は動けなかった。
……もしかすると、気づいていたのかもしれないね、自分の中に“何か”が棲んでいることを。
大樹は息子と二人、庭に出た。
陽の光の下。
大樹は、静かに手をかざす。
掌の先、ぼうっと灯る炎。
あれが私の神通力。
人の形をしているけれど、人じゃないもの――
苦しみや憎しみに形を与えて、誰かを呑み込もうとするもの。
それを浄化する、清らかな火だよ。
「大丈夫」
大樹の声は、静かだけど強かった。
「生きてりゃ色々あるんだよな」
そう。
人の心は、時に自分をも呑み込んでしまう。
でも、それを誰かのせいにするんじゃなくて、ただ手を差し伸べる――
あの子は、そういう子なんだ。
浄化が終わったあと、息子はぽろぽろ泣いた。
声もなく、涙だけがこぼれていく。
でもそれは、悲しみじゃない涙だった。
やっと、泣けたんだ。怖がらずに。
家に戻ると、母親も変わっていた。
彼女の中にあった重い影が、すこしずつ剥がれていくのがわかった。
大樹は何も言わず、ただ「じゃあ、また来ますね」とだけ残して帰っていった。
……ふふ、ほんとにあの子は、神様みたいだよね。
ま、私が言うのも変だけどさ。
【つづく】