操られたわたし
……油断してたんだね。
あの子、寝起きのうすぼんやりした意識の中で、背中に冷たいものを感じた。
ぞわぞわと這い上がってくる何か――
それが、口から“すぽん”と入り込んで。
あの子の身体を、まるごと乗っ取ってしまった。
……でもね、心は残っていたんだ。
意識ははっきりしてて、自分の身体が何をしてるか、ちゃんと見えてた。
けれど、動かせない。声も出せない。
……それは、悔しかったろうな。
乗っ取った何かは、くだらない悪事を繰り返した。
万引き、悪戯、すれ違いざまのちょっかい。
……だけど、そのひとつひとつが、あの子には耐えがたかった。
そして、極めつけ。
ゆっくり歩くお婆さんのハンドバッグを、あろうことか、ひったくったんだ。
「返して」って叫ぶ声が、あの子の心をずたずたに引き裂いた。
公園の土管の中で、バッグを開けて、中身をばらまく。
通帳、ハンコ、財布。全部、大事なものばかり。
あの子は、心の中で何度も叫んでた。
“返したい”“止めたい”“どうしたらいいの”
――そんなあの子の心に、誰かの声が届いた。
「ちょっとひどいな」
土管の入口。
そこから、背の高い男が覗いてた。
赤い目をして、気だるげな声で、でも……静かに怒っていた。
「にんげん、きたな」
あの子の口から、低く濁った声が漏れる。
それは、あの子の声じゃなかった。
――乗っ取っていた“それ”の声だ。
「俺を知ってるのか?」
「おまえは、さいきんここいらで、ゆうめいだ」
「へえ。そいつあ光栄だね」
男の目が、少しだけ笑った。
だけど、笑ってないんだよ。あれは。
「これは、おまえをおびきだすためにやったことだ。おまえをまってた」
「……ほう?」
「その人から離れな。素直に離れれば、乱暴なことはしない」
「いいよ。ただし――じょうけんがある」
「……ふうん?」
「おれのくちを、すいな。そしたら、はなれてやる」
――……はあ?
あの子は、心の中で絶叫してた。
“ちょっと待って! それ私の身体! 勝手にそんなことを――!”
でも、男は静かに手を伸ばして、あの子の手首を掴んだ。
引きずり出される。
唇が重なる。
……不思議だね。
そのキスは、ひどく静かで、ひどく優しかったんだ。
何も奪おうとしない。
ただ、そこに“還れ”と願うような――そんな祈りのような熱だった。
そいつが、動いた。
あの子の中で、ざわりと。
向かい合った男の方へ、吸い寄せられるように。
「ぎゃあああぁ!!」
叫びが土管に響いた。
男の口元には、黒い塊――拳ほどの“それ”が見えた。
にやりと笑ったその顔は、どこか獣めいて、それでもなお静かで。
男は、黒い塊を手のひらに乗せた。
そして、それが燃えた。
「ぎゃあああ、ぐぎゃあああああ――……」
黒い塊はのたうち、燃え、消えた。
あの子は、その場にへたり込んでた。
肩が、小刻みに震えていた。
「大丈夫?」
男は両手を、ぱん、ぱんと払った。
まるで、少し埃がついたくらいの感覚で。
「あ…あー……大丈夫、みたいです。えと……助けてくれたんですよね、ありがとう……」
「気にしないで。さっきのお婆さんに、カバン返しに行こう」
あの子は、ゆっくりと立ち上がって、ばら撒かれた中身を拾った。
通帳も、財布も、全部、ちゃんと。
「お兄さんは何者? さっきのやつは……何なんですか?」
そう尋ねたあの子に、男はちょっとだけ首をかしげて、笑った。
「何なんだろうね? 俺も実は、よくわからないんだ」
――そう。
彼はまだ、自分のすべてを知らない。
でも、それでもいい。
誰かを助けるその手がある限り、彼は“ここ”にいてくれる。
そういうふうに、私は見ているんだよ。
【つづく】