ラブロマンスなんてもう読まない!
「ねえ、どうしたの?」
公園のベンチに座っていると、話しかけられた。
品の良い貴族風の男が傍に立って、私を見下ろしている。小柄な彼の、地味な目鼻立ちを私は涙目で見返す。
その日私は、容姿端麗な爽やか系伯爵家三男と、破談になったばかりだった。
彼は私ではなく、私の二つ年下の妹に心奪われ、半年ほど二股をかけていたという。
容姿の美醜と心の美醜には、どうやら相関関係はないらしいという現実に打ちひしがれて、私は今ここに居る。婚約が決まってから昨日までの、美しい三男様好き好き将来の私の旦那様と浮かれていた自分を省みて、ばっかじゃないのと心の中で罵倒し続けること一時間。
私の人生が物語なら、ここで彫刻のように美しい男が登場するはずだが、現実はそううまくはいかない。
「なんでもないんです」
と私は返す。
この『なんでもない』は、自分にとってはなんでもなくはないが、通りすがりの誰かに話すほどのことではない、という『なんでもない』である。
普通の人ならここで納得して通り過ぎてくれるけれど、話しかけてきた地味顔の男は、通り過ぎずに、同じベンチに座った。
「荷物を抱えて、一時間もベンチでうなだれていてる状態なのに、『なんでもない』とは思えないなぁ。助けが必要なら、相談に乗るよ?」
綺麗に撫で付けた茶色の髪に、グレーの瞳のその男は、優しく微笑んだ。
こんな気持ちの時にそんな優しい言葉をかけてくるなんて、ずるい、と思う。
「本当になんでもないんですぅ」
語尾で泣き声になって、私は顔を伏せた。湿気たハンカチをしばらく顔に押し当てて、早く去ってくれ、と思う。
わっと泣き出したい気持ちをなんとか静めて顔を上げたら、その男はまだいた。
「一時間も人が泣いているところを見ているなんて、暇なんですの?」
辛辣な言葉をかける。
気が強いところも気に食わない、と伯爵家三男は言った。君の妹なら天使のように微笑んで、僕の至らないところも許してくれるのに、と。両親も、お前のその態度が悪い、謝りなさいと言うばかりだ。
この男も呆れて、どこかへ行ってくれるだろう。
「そうなんだよね。私は今、とても暇なんだ。無職だからさ」
と、男は力なく首を振る。少し演技くさい。着ている服は華美ではないが生地が上等だし、ふとした拍子にかすかに香る香水は高級品だ。おそらく無職でも全く困らない階級の人なのだろう。
「三年ほど前に政変に巻き込まれて、父が失脚すると同時に、私も辞職せざるを得なくなってねぇ」
「それはお気の毒ですわね」
私は、今この国が王位継承権で揺れていることを多少は知っていた。三年前に第一王子が失踪し、この春第二王子が廃嫡され、先日第三王子が立太子して、貴族はどの派閥につくかで戦々恐々としている。
子爵である私の父も、今まで中立派で上手くやり過ごしていたのに急に派閥に入る流れになって、王都郊外にある邸宅に起居し、領地へ帰れない日々が続いていた。
「それなら今は、こんなところで暇を潰している余裕なんてないのでは、と思うのですが」
「それがね、父と妹達が頑張っているので、私の出番が全く無い状態なんだ。せいぜい連絡係ぐらいかな? だから、公園のベンチでぼーっとしていたんだけれど」
と、彼は私から少し離れた場所にある別のベンチを指差した。
「大きな荷物を抱えて座り込んだ君が、長時間移動する様子がないので気になってね」
「どうか、お気になさらず」
私は、微笑もうとしたができなかった。
伯爵家三男は今日、お前よりも妹がいいと言って婚約破棄を申し出てきた。
妹は確かに、私よりも美人で、末っ子で、甘え上手だ。お義兄様、お義兄様と可愛く伯爵家三男に取り入っていたことも知っている。私は馬鹿みたいに、将来の夫と本当の兄妹のようになってくれれば幸せだわなんて思ってた。
両親は私をかばうどころか、伯爵家三男を妹に快く譲れと言って、私の婚約破棄と妹の婚約を同時に進めている。伯爵家三男が婿に来てくれるのなら、私でも妹でも、どっちでもいいということだ。婚約してから約一年。貴族学園を卒業し、結婚を間近に控えてのこの裏切りである。
こんな家に居られないと、思わず荷造りして衝動的に家出をしてしまった。
なんだこのテンプレ。
ラブロマンス小説大好きな私が、よく読んでいるストーリーそのままじゃない。
読むのは好きだけれど、自分がこんな目に遭うなんてつらすぎる。
もうラブロマンスなんて読むもんか、と私は思う。
ここで彫刻のように美しい男が『君の事は以前から好きだった、婚約破棄したのなら私の求婚を受け入れろ』みたいなことを言い出しても、拒絶してやる。
(見てくれの良い男は、裏で何をしているかなんてわからないわ! きっといろんなところで女の子や、婚約者の妹や、義妹に手を出して、表面上はあの伯爵家三男のように、清廉潔白で爽やかなふりをしているんだわ)
怒りと悲しみが、私の中でぐちゃぐちゃになっていて、昨日までどうやって笑っていたのかも思い出せない。
笑おうとすれば、泣きそうになる。
私は再び、湿気たハンカチを顔に押し当てる。
無職の男は、私の隣から動こうとしない。
「気にしないでと言われても、君のことが気になって仕方がないんだよね。私は一度気になると、どうしても行動しなくては気が済まない質で。学生の頃は、爆竹をどう使うのか、どんな音がするのかと気になって、家で試したらものすごく怒られてしまった。あれはねぇ……みんなのびっくりした顔がね……面白過ぎて」
めそめそしている私の隣で、くすくす笑う無職の男。
「それは、……怒られて当然ですわ」
どんな神経をしているのかしらと、グレーの瞳を見返せば、とても優しい色がそこにある。おそらく彼は、私を慰めるために、こんな馬鹿みたいな話をしているのだろう。
「でも、面白そうですね」
うっかりそう言ってしまったのは、他人事と去ってしまわず、傷ついた私に寄り添ってくれている彼に気を許し始めたせいかも知れない。
「でしょう?」
勝ち誇ったような顔をして、無職の男がポケットから取り出したのは、爆竹だった。
「これをね、君を泣かせた人の家に放り込むという考えについては、どう思う?」
「まああ……」
私は言葉を失った。
彼の悪戯っぽい表情から、冗談ではなく本当に敢行しようとしていることがうかがえた。
それは貴族の行動としてありなのかと、逡巡する。だが、父と母が狼狽え、怒り、妹が泣き叫ぶ様を思うと、私の口が勝手に台詞を吐いていた。
「なんて面白そうなことを仰るの……」
その後、公爵家の紋章入り馬車が無職の男を迎えに来て、なぜか私もその馬車に乗せられた。無職男の後ろに控えていた護衛役の騎士が、私の荷物をさっさと馬車に乗せてしまったので、逃げられなかったのだ。
馬車の中で、私は今日、コルディモン子爵家で何があったのかを無職男に話す。馬車は、王都郊外にある子爵家に向かい始めた。
子爵家の玄関ポーチで爆竹が破裂した直後の状況を、私は後に何度も思い出すことになる。
いつも偉そうにふんぞり返っている父と、小言と他人の悪口ばかり言う母が、外面を全てそぎ落とした顔に驚愕の表情を浮かべて、玄関から出てきた。数人の使用人も、その後ろにいる。
下履き姿の妹と、裸体にシーツを巻き付けただけの伯爵家三男が、激しい爆発音の連続に驚いて飛び出してきたのもほぼ同時だった。
「すみません、ノッカーの場所がわからなくて、つい大きな音を立ててしましました。コルディモン子爵? あ、こんなところにノッカーがあった! 小さすぎて気づきませんでした。大変失礼いたしました」
と、うそぶく無職の男。
「私、カラドカス公爵家嫡男、ドミリオ・カラドカスと言います、突然の来訪、大変失礼します」
「カラドカス公爵家の方……?」
そう言って、妹は気恥ずかしそうに身体をすくめる。
妹と私は、容姿が似ていて髪の色と瞳の色も同じだが、可愛さが段違いだ。
妹の金髪は、編み込んだ私の髪とは対照的に、タンポポの綿毛のようにふわふわと広がり、彼女の薄着の身体を隠していた。弱い感情を見せまいとする私と違って、妹の青い目はいつも子どものように見開かれており、男性の庇護欲をかき立てる。らしい。
普通の男ならそこで、上着を脱いで彼女に着せただろうが、伯爵家三男はシーツしか纏っていなかったし、無職男は妹を無視した。
「ご息女、デイジー嬢がこのたび婚約破棄をされたとお聞きしましたので、よろしければ次の婚約者に立候補したいと思い、ご訪問させていただきました。が、若い二人はなにやらお取り込み中のようですね」
私の知らない婚約話が、進められようとしている。
聞いてない知らないと異議申し立てをしなくてはならないのに、私は、シーツを巻き付けた伯爵家三男の格好に爆笑しそうになっていて、必死に平常心を取り戻そうと努力している最中だった。
(変だわ! さっきまで全く笑えなかったのに!)
私は子どもの頃よく、女神様の格好~とか言って、シーツを身体に纏った。
伯爵家三男は体毛が黒っぽく結構毛深いから、その格好が全然似合ってない。
ぼーっと無職男を見てないで、パンツぐらいはいてきて欲しい……ションボリ下を向いているものが、透けて見えてるから!
「まだ日も沈んでいないうちに、未婚の男女で破廉恥な行為に及ぶのが子爵家の因習のようだ。このような淫猥な家に、私の可愛いデイジーを置いておく気にはなれませんね。本日より我がカラドカス公爵家に、婚約者として招きたいと思いますが、ご許可いただけますか?」
無職男にまくし立てられて、私の父母は呆然とした様子で、私と、後ろにある公爵家の紋章を掲げた馬車を見た。
カラドカス公爵は、第三王子立太子の立て役者として今話題の、貴族会議の中心人物だ。
半信半疑のまま、父は無職男の周囲にいる厳つい護衛騎士達を眺める。
そして、ようやく本物だと認めたのか、頷いて見せたのだった。
「本当に、面白いものを見せていただきました。ありがとうございます」
再び乗り込んだ馬車の中で、私はドミリオ・カラドカスに礼を言った。
また笑い出しそうになったので、シーツを纏った伯爵家三男のことを頭から追い出す。
「君が笑顔になってくれて良かった」
ドミリオはニコニコしながら言った。
「誤解のないように言っておくけれど、さっきの婚約話は、マジだからね」
「……婚約話と言いますと?」
私もニコニコしながら、尋ねる。
「素知らぬふりはできないよ? さっきお父上に婚約者として招き入れたいとはっきり言って、許可をいただいたからね?」
「あれは、フェイクでは……?」
「私は冗談が好きだけれど、人の心を弄ぶような冗談は決してすまいと心に決めている」
「それはご立派な心がけです」
「そうだろう?」
私達はニコニコしながら、互いを見つめ合った。
「私とは今日が初対面ですよね?」
「君は妹と貴族学園の同級生で、在学中は優秀な成績を収めていた事を私は知っている」
「まあ。光栄ですわ」
「妹が、婚約者の有無はともかく、君が面食いでなければお兄様とお見合いさせるのに、とよく言っていた」
私は悲しい気持ちで、ゆるゆると頭を振った。
カラドカス公爵家の令嬢とは面識が無かったはずなのに、面食いである事が知られていたのは、伯爵家三男との婚約が原因だろう。とても顔のいい人と婚約したの、と有頂天になって友人知人に垂れ流した過去の自分を、穴掘って埋めたい。
「大事なのは顔ではなくて、人間性というか、誠実さですわね。そんな基本的な事を、私、理解していなかったんです」
「私は誠実さの塊だ。……多分」
「あら。自信がありませんの?」
「自信はある。私は決して、浮気はしない」
ドミリオ・カラドカスは、キリリと顔を引き締める。
「まあ、浮気しようにも女性にもてないんだけれどね」
私達は真剣な顔で、互いを見つめ合った。
「そんな事はないと思いますわ」
優しいグレーの瞳に向かって、私は微笑んだ。
「とっても素敵ですもの」
ドミリオがいなければ、私はまだあの公園にいて、涙にくれていただろう。今こんな風に笑えるのは、彼のおかげだ。
見るとドミリオは、顔を赤らめたまま黙っている。
(私は今、何を言ってしまったのだろう?)
急に、猛烈に恥ずかしくなって、私も顔を熱くした。
一緒に乗っている二人の護衛も、何故か赤くなっている。
顔を赤らめた四人を乗せて、馬車は公爵邸の敷地に入り、玄関ポーチ前の馬車止めを目指す。
窓の向こうを、花の盛りを過ぎたバラ園の、夕暮れの景色が通り過ぎていった。
⋈ ・・・・・・ ⋈ ・・・・・・ ⋈