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終 何者にもなれない

 高校に入ると、いじめはなくなったらしく、日記の内容が変わってくる。学校で苦手な教師に怒られているときに、海斗に人格が変わってしまったということや、大事な友達に紅玉が暴言を吐いて疎遠になってしまったことが書かれている。紅玉が書く頻度も減っていたが、比例して冴の出ている時間も減ってきていた。ユキナが交代して学校に出て、後で冴が困らないように、一日の報告を事細かにノートに書いているページが多くなった。冴はたまにノートにポエムらしきことを書いては、私消えちゃうのかな、このまま消えちゃいたいな、と綴っている。それをユキナは励ましているが、高校二年生の冬、もう生きているのがつらい、つらい記憶に苛まれたくない、ユキナが私になれば完璧じゃないか、と書いて、それをおしまいに、ノートから完全に冴が消えた。


 お母さんになってあげられなくて、ごめんなさい。


 ユキナはそのページにそうコメントしていた。以来、ユキナは冴が戻ってきたときに振り返れるように、事細かに日記を書いているようだった。冴は告白されたら好きでなくても交際し、関係を持っていたようだが、ユキナはその関係を持っていた彼氏全員に別れを告げて、真面目に受験勉強に取り組み、当時両親の代わりにお世話になっていた叔父から大学進学の許可をとった。見知らぬ土地で一人暮らしさせるのは非常に不安なので、地元の学校に進学しなさいと厳命されたとある。ユキナはそれを守り、地元にひとつだけある私立の大学に入学した。

 冴からしたら窮屈な暮らしだろう。日記の記述でいじめっこと顔をあわせない都会に出たいと書いてあったので、きっと、大学進学するにしても、都会の大学へ行きたかったはずだ。

 ユキナはそれも察していて、しきりに、冴さんには謝るしかないのだけど、とクッション言葉を挟んでいる。ユキナの記述には愚痴や不満は、おそろしいほど書いていないが、寂しいという感情の吐露が増えていた。紅玉の字で、死にたい、死なせて、おまえは一生ひとりだ、障害者として社会から憎まれて生きるんだ、などとたまに書いてある。ユキナはそれに反応する元気も最近はないようだった。


 私にはお母さんの記憶がない。冴さんが十三歳くらいのころに私は生じたのだから、お母さんというのは冴さんを指すのかもしれない。しかし冴さんをお母さんと呼ぶには頼りないし、なにより産まずの母にしてしまうのは気持ちが悪い。冴さんを庇護するために私が生じたはず。たとえ社会に反するとしても、私は冴さんを守るべきだし、冴さんにとっては私がお母さん……。でも、私も、ひとりの人間だ。冴さんの代わりにずっとこれから生きていくなら、だれか頼れる人がほしい。寄る辺なく生きていくことはできない。恋人は、これまでの彼氏を考えて、やだ。冴さんの身体を傷つけるかもしれない人はいらない。恋愛じゃなくて、親愛で接してくれる人、私もお母さんみたいな人がほしい。


 ユキナは温かさに飢えているのだ。

 K君との交際が嘘だというのは、うっすらと予想していたことだった。ビデオ通話らしき画質の荒い画像は、ネット上に流れているリーク画像かもしれないし、似ている人の画像かもしれない。同じ服なんて、たまたま買うことがあるかもしれないし、購入者のアップした写真を拾ってきただけかもしれない。そういう疑いは、山形に来る前からあった。けれども私は山形に来ることを選んだ。K君と恋愛しているというユキナを羨望のまなざしで見つめ、彼女に落ち度があれば責め立てようと思って、ここまで来た。浅かった。

 正直、私は、ユキナがこれから家庭の温かさを得られるとは思えない。ここ数日コミュニケーションしただけでわかった。ユキナは排他的なところがあり、その心の壁を吹っ飛ばしてくれる男性にこれから出会えるのは、どれくらいの確率だろう。それに自分から幸せになろうと行動できるだろうか。いなくなってしまった冴をずっと気にし続けているユキナが。冴が戻ってきたとしても、複数人の恋人を持つくらい情緒不安定な冴が、一般的な意味で幸せになれる行動をできるとは考えられない。一般的な幸せを押し付けているわけではないが、一般的ではない幸せというのはデメリットがつきものではないか。ユキナは精神的に幼い冴を支えるのか。冴の人格のひとつとして、一生、支えなければならないのか。

 はたと思い至る。私がこうしてユキナの先を案じるのは、友達として心配するより、母性が近いのではないかと。ふつうの主婦になることに失敗した今、ユキナのお母さんにならば、なれるんじゃないか。

 胸の中にわいた甘美な囁きに、ノートに触れる指が震えた。

 新しい生き方。結婚したり、子供を産んだりすることだけが、女の人生ではないと美香も言っていた。私はいつだってべつのものになりたかった。私じゃないものになりたかった。障害者として社会に認定された私じゃなくて、統合失調症になった私じゃなくて、なにかべつの、マイルドでクリーミーな甘い幻想をみていたかった。だから夢もきっと内実を暗示したものをみている。

 そのまえに。なにかを決断するまえに、私は見なければならないものがある。本能に導かれるように、開けてはいけないと言われていた部屋の扉に手をかけた。私は呼吸を整えてから入った。

 そこには予告されていたとおりカメラのセットと、隅の小さなテーブルに骨袋が置かれていた。骨袋の前には、写真が置かれている。家族写真かもしれない。気難しそうな表情の男性と、快活そうに歯をみせて笑う妙齢の女性と、幼稚園児くらいではないかと思われる子供が二人ピースサインをして並んでいる。

 骨袋のとなりにある花瓶には、洋花の造花がいけられていた。

 私はとつぜん、ここにあるものすべてぐしゃぐしゃにしたい衝動に駆られた。私は骨袋から、変色した骨を取り出すと、それを噛んだ。ぱさぱさして、口の中の水分を持っていかれてしまう。吐き戻しそうになりながら、こらえて飲み込んだ。

 ガチャッと鍵の回る音がした。ユキナが帰ってきた。それでも私は動けない。私が部屋にいないことがわかったのか、私を探すように足音が近づいてくる。そして部屋の前で止まる。

 一秒以上、間をおいて、扉が開いた。

「なにしてるんですか」

 私はユキナの目を正面から見た。その目が徐々に睨みに変化するのを見た。ここを荒らして怒るのは、冴にとって深く関係のある場所だからだろうか、それとも母に思い入れがあるからだろうか、あるいはその両方か。

 大きく足音を立てながら、近づいて、私が口の中に骨を頬張っているのに気が付いて、目を大きく見開いたあと、私の頬を打った。

 顎まで痺れるほど、キレのいいビンタだった。

 私は口の中の骨を吐き出した。唾液が糸をひく。

 はっとしたように、ユキナは叩いたほうの手を片手で抑え、一歩後退した。

「ご、ごめんなさい、紗季さん」

「私……お母さんには、なれない」

「もしかして、日記を読んだんですか」

 うなづく。もう一度、自分で確かめるように言った。

「ユキナのお母さんになりたいけど、なれないよ、私……」

 ユキナはゆっくりと私に近づき、両腕を持ち上げ、私を抱きしめた。ユキナのほうが背が高いので、そうすると、私のほうが繭に包まれたような安心感が得られた。人に抱きしめられるのはいつぶりだろう。温かいな。抱きしめ返すことで、温かさが伝わればいいな。

「私は何者にも、なれないよ……」

 ユキナは静かに泣いていた。統合失調症の陰性症状の感情の平坦化で、私は泣けないのだけど、ユキナが代わりに泣いてくれた。それでいいと思った。それだけが救いだと思った。


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