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第1話 回想・マッチングアプリ

 家計簿をつけるのが、こんなに面倒だとは思わなかった。同棲当初は「家計は私が計算するよ」と言ったのだが、同棲三ヶ月目で早くもその面倒さにめげそうだった。

 目の前のパソコン画面では、大学生くらいの男の子が私服を順々に公開していた。警告めいた真っ黄色のオーバーオール、おしゃれな人でないと着こなせないであろうダメージの入ったデニムのジャケット。子供部屋と言われても驚かないほど広くて大きなクローゼットには、衣装のほかに靴や小物なども収納してある。二人暮らしで貸借の2LDKに住む私からすれば、たいそう優雅な暮らしにみえた。男の子自身、白い衣服で上下を統一しており、一般人には見えないほど容姿が優れている。男の子が笑うたびに唇の隙間から白く整った歯列がのぞく。

 彼は私が私生活そっちのけで推している、K君だ。K君は大学生ながらに顔出しでYouTuberをしている。

 K君と画面越しに出会ったのは統合失調症になった昨年のことだ。ドーパミンで世界が乱反射しているときに、パソコンの画面越しに目があって微笑みかけられて、電撃的に「彼が運命の人なんだ」と天啓を得たのだった。彼のSNSの投稿を見ると、周りのファンには内緒で、私に愛を囁いていた。「すきだよ」「だいすき」「これはひみつね」。両想いだ。十九歳と二十七歳の年の差は恥ずかしかったが、嬉しくなったのも本当だった。とはいえ、どんなに気持ちが通じ合おうとも、私とK君が両想いだと周りのファンにばれたら厄介だから、彼は身動きできない。私が彼の住所を割りだして、会いに行くしかない。探偵に頼むにはお金をどれくらい用意すればいいのかわからなかったため、私は自分の口座から百万ほどおろそうとして、異常を察知した親に病院を受診することを強制された。もう二十七歳にもなったというのに、両親の付き添いで白い診療室に通されて、先生にお話しした。「私はK君と両想いなんです。病気ではないですよね」と訊ねると、先生は曖昧に微笑んだ。結果からいうと、私は統合失調症という考えのまとまりにくくなる病気で、その病気の陽性症状であるはずのないもの、つまり幻聴や幻覚を感じ取り、常識的には突飛な妄想を抱いていると診断された。K君のSNSの私宛ての投稿は、勘違いか幻覚だろうとの判断だった。

 ふざけるな。私とK君は恋仲なのは真実だ。そう訴えても、医者も両親も困った顔をするだけで、相手にしてくれなかった。挙句の果てには、両親からは私が変な行動をしないように通帳をとりあげられた。毎日、監獄にいる気分で出社していたが、上司の斎藤さんに休憩のときに一連のことを相談してみた。翌日には私の頭がおかしくなったと事務員全員に広まっていた。透明な水の中に黒いインクを一滴垂らしたように、もう綺麗な水に戻ることはない。斎藤さんには悪気はないのかもしれなかったが、統合失調症という病名が、噂好きで社交的な春日さんの耳に入ったのがいけなかった。統合失調症がテレビに出るときは、たいてい常軌を逸した妄想などを理由にした犯罪のニュースだから、印象がとても悪い。私も統合失調症と診断されてから、それくらいはネット検索で知っていた。それでも、ここまで腫物に障るように扱われて、居心地が悪くなるなど想像していなかった。

 一ヶ月経っても、二カ月経っても、職場全体の私へのよそよそしい態度は変わらなかった。庄司さんなどは私と休憩がかぶった際には、お弁当を並べて食べるような仲だったのに、この件があってから露骨に無視してくるようになった。庄司さんはザ・女という感じの気性が荒いタイプだし、精神疾患などへの理解はしがたそうな気難しい面を持っているし、しかたない。そう思って自分を慰めていたけれど、限界があった。さすがに三ヶ月目に、私は退職を申し出た。斎藤さんからは病名を皆に広めてしまったことを謝罪された。私はそれを相手にしなかった。謝罪されたことで、水は綺麗に戻らないのだから。斎藤さんのあけすけで率直な物言いと姿勢に好感を覚えたこともあったが、人を統べる立場としては、伏せるべきことは伏せ、嘘もうまく使うべきだ。

 両親には退職のことはあらかじめ相談してあった。傷病手当をもらい休職するのでもいいのでは、と提案されたが、休職が明けてもあの空気と白けた皆の顔が待っていると思うと、会社に通勤する勇気がでるかわからなかった。そう両親に打ち明けると、「そこまで言うなら……」と二人は了承してくれた。

 退職して数週間経ったころには、投薬治療のおかげで陽性症状は治まり、K君とのあれこれもすべて私の妄想だったのだなと客観的に自分をみることができるようになっていた。私の日常の範囲内にすべてが収まったにも関わらず、K君の配信を見ていると彼に迷惑をかけてしまった気がして、また自分のアキレス腱を意識せざるを得なくて、羞恥心がわいてくる。彼のことは好きだ。それは変わりない。だが発症前のように動画をまともに楽しめない。

 YouTubeから離れるようになり、休職して持て余した時間を私はマッチングアプリに注ぐことにした。統合失調症には、テレビから自分の悪口が聞こえたり、幻聴から自死を命令されたり、さまざまな急性期がある。私が恋愛関係の妄想を抱いたのは、恋愛が私に足りないからなのではないかと考えた。それに二十七歳であれば、世間一般的には結婚していてもおかしくはない年齢だ。Instagramの友人知人の投稿には結婚の報告や交際している人との旅行の写真が溢れている。幸せそうな笑顔に、純粋に憧れた。マッチングアプリは女性が基本無料なので始めやすかったこともある。両親は「気を付けてね。簡単に会うんじゃないぞ。騙された女はロクな目に遭わない」「最近マッチングアプリでトラブルになったっていう事件もニュースになっているからね……」とは言うものの、本気で私の行動を止めることはなかった。十九歳のYouTuberに妄執を抱いて歳をとるよりは、条件の良い男性を捕まえて結婚でもして落ち着いてくれれば、と考えたのだろうと私は予想する。

 ほどほどに期待を抱きながら、相手探しを始めた。放置されたカバンの中からパスケースを引っ張り出して、運転免許証で年齢確認して、実際に会うのはメッセージを重ねてからがいいかどうか、将来子供がほしいかどうか、未婚・既婚・子供の有無など、項目を設定していく。ほとんどの場合、女性は受け身だ。男性から送られる「いいね」を、女性がアリかナシか判断して、アリならマッチが成立し、一対一のチャットに進む。画像と、設定項目と、プロフィール文章で、相手とマッチするかどうか決める。

 女性からも「いいね」は送ることができるが、まいにち大量に送られてくる「いいね」を捌くのに時間がかかるため送る余裕がない。それにこんなに大量に好意をもらえるのに、自分からわざわざ新規の相手を探しに行く必要もない。その必要があるのは送られてきた「いいね」が尽きたときだ。

 「いいね」を捌く画面には、画像が大きく表示されるので、必然的に相手の顔で左スワイプか右スワイプか決める傾向がある。裁定者の立場は優越感を覚えやすく、単純にゲームみたいで楽しい面もあった。しかし長ずれば飽きるというもので、ログインしてすぐ男性の写真がたくさん並ぶトップ画面に、私は辟易としたものを次第に感じるようになった。ページを変えても、顔、顔、顔。今日送られてきた「いいね」は全部拒否。収穫ナシ。私はできれば結婚を考えられる男性がよかったので、項目やプロフィールも重視した。いろいろな人がいた。好みの顔の人も、なぜか上半身裸の人も。画像はふつうだったが、プロフィールに「事情があり精神科に通っています」と書いている男性は、心の中で謝罪しながらお断りした。私はどの立場から彼にNOと言えるのだろうとは思いつつも、結婚をするなら健常者がいいという思いがあるのを自覚した。病気を支えあえるなら、健常者じゃなくてもお付き合いできると知りつつも、私は支えるつもりはなくて、支えてもらうつもりだけがあるのだった。

 統合失調症は障害者。障害者手帳も発行されるし、障害年金だって申請すれば通り得る。陽性症状が表へ出なくなった代わりに、無気力や感情の平坦化などの陰性症状が出始めているころで、私は一日平均十二時間から十四時間眠りにつき、とてもではないが健常の生活は無理だった。「いまの紗季さんに社会生活は無理だから、マッチングアプリなんかやめて療養に務めたほうがいい」と言ったのは、会社を辞めてから、たまに連絡をとっていた斎藤さんだけだった。私は「障害者には幸せになる権利がないっていうんですか」と返した。返事はなかった。斎藤さんも、私のことを見下しているんだ。馬鹿な女が、また男に狂っているって、見下しているに違いない。


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