05. 奇妙なマンション
医者がボクの耳元で指を鳴らした。
「その鳥は鑑賞してはならない。気をつけたまえ」
医者は蓋のついた小瓶を二度振りながら自信に満ちた表情でボクの目の前に掲げた。目を擦りながら小瓶に焦点を合わせようとした。
ボクは栄養ドリンクが出来上がるまでの間、ずっとあの鳥に見惚れてしまっていたようだ。驚いたことに目で追っていたはずの鳥達が、さっきまで隠していた鋭い歯をむき出しにしてカチカチ鳴らしながらボクの方へ集結していた。医者の話によるとこの鳥は肉食だという。鳥籠の底を見ると小動物らしき小さな骨が散らばっていた。
「今回は持続性のある栄養ドリンクを処方しよう。きっと四週間はまともな生活が送れるだろう。このマンションの住人たちが健康でいられるのは医者である私のおかげだ。ふふん」
垂れ下がった長い前髪を肩の後ろへ流しながら自分に酔いしれている。機嫌が良いうちに質問してしまおうと思い、褒めたたえながら聞いた。
「やっぱりお医者さんって凄いですね。きっとここの住人はあなたへの感謝の気持ちでいっぱいだと思います。そんな素晴らしい先生ならこのマンションの出入り口を知っているのではないですか?」
褒められ更に上機嫌になった医者は、出口がどこにあるかは知らないが、役に立つだろうと栄養ドリンクの小瓶と一緒に鍵をくれた。
「ガラス棚の鍵かと思ったのだが、この部屋のものではないらしい。君が探している出口とやらの鍵かもしれん」
やっぱり出入り口については興味がないのか、と落胆した。でも、鍵という扉とセットとなるアイテムを手に入れたことにほんの少し希望を持つことにした。ボクは小走りに部屋を出ると、螺旋階段の手すりを持つ手に力を加え、一気に上がって行った。
さっきまで七階が最上階だったはずなのにもう一階増えていた。
「……そんな」
(このマンションからボク出られるのかな……)
不安になると同時に上の階が気になったが、701の扉をノックした。数回目のノックでやっと出てきた小さい人は最初の姿と全く変わっていなかった。
「栄養ドリンクもらってきました。効き目は一本で二週間もつそうです」
説明しながら差し出すと、小さい人は小瓶を一つ受け取り、視線を動かすことすら面倒くさいのか、ボクに目を合わせたまま眉間の皺を深くさせ、蓋を開けるとゆっくり飲み干した。
目を大きく見開いて深呼吸すると、急にはきはきと喋りだした。
「ふぅー、やる気が出てきた! ありがとう少年よ!」
小さい人は靴下を履き直すと、部屋を片づけ始めた。床に散らばった服をかき集め、本を次々と棚にしまっていった。彼がすっぽり入ってしまいそうな袋を広げると部屋のいたるところに転がっていた箱や紙切れを拾っては袋へ投げ入れた。
「そのごみ袋はいつ、どこに捨てるんですか?」
捨てる場所はきっと外に違いない。これで外に出られる! ボクはそう確信して聞いた。
「ごみだって? とんでもない! この部屋に捨てるものなど一つもない。ここに存在するものは等価交換によって、必ず生まれ変わる」
ボクはがっくりと肩を落とした。半べそをかきながらこれまでの経緯を愚痴るように吐き出した。掃除の手をとめ黙って聞いていた小さい人は棚の引き出しを漁り中から古びた筒を取り出した。
「これは目では見ることの出来ないものを見ることが出来る望遠鏡と言われている。これを使えば君が消えてしまったという屋根裏部屋と言うその出入り口が見つかるかもしれない」
涙をパジャマの袖でぬぐってから望遠鏡を受け取り右目を通してみると、部屋の上下が逆さまになって見えた。望遠鏡を顔から下ろし自分の目で見ると部屋は普通に戻っていた。もう一度望遠鏡を通すと逆さまに見える。
「不思議な望遠鏡……。ありがとうございます」
四週間後にはまた散らかっているのだろうなと思ったが、医者とイタチごっこのような関係がちょうどいいのかもしれないと、妙に納得した。
ボクが急いで一階まで戻ろうと下の段へ足を踏み出した時、猫の鳴き声に呼び止められた。声のする方へ目を向けると、螺旋階段の最上階で黒猫がじっとこちらを見ていた。
「もうお前との追いかけっこはしないよ」
黒猫を背にしてボクは勢いよく一階まで駆け下りた。
息を切らしながら絨毯が敷かれた床を望遠鏡から観察した。上下逆さまだ。筒の先端についているネジを回すとぐっと近くに見える。
「うーん……」
いくら望遠鏡を通して目を凝らしても、絨毯に切れ目は見つけられない。ボクの中の喜びが少しずつ消えていくのを感じた。
(やっぱり出入り口は別にあるのかな)
医者からもらった鍵をポケットから出して眺めていると、忘れかけていた増えた最上階を思い出した。また階段を上るのか……不承不承ながら二階まで上ったところで、201号室の詩人が目で見えないものを見る方法を探していたことをぼんやり思い出した。
201号室の扉が開くと、甘い香りが疲れたボクを癒すかの様にまとわりつく。
「あら、三回も訪問してくれるなんて嬉しいわ」
三回目の訪問も快く受け入れてくれる詩人のことが疲れからくる錯覚か、部屋の甘い香りのせいなのか、うっすらと女神に思えてきた。
頭にまとわりついた香りを左右に振り払い、訪問の目的を果たすことにした。
「この望遠鏡、目には見えないものを見ることが出来るそうなんです。ボクは出入り口が見えるかと思ったんだけど……」
「まぁ素敵! さっそく見てもいいかしら」
小指を立てながら筒を覗き込む詩人から、おかしな感想が出てきた。
「何てきれいなのかしら! 色とりどりの妖精が見えるわ」
妖精?ボクは詩人から望遠鏡を取り返すと同じ方向を見た。何もいない。ただ見えるのは上下逆さまになった部屋だけだった。
もしかして、見る人によって見えるものが違う?
望遠鏡を詩人に譲り、部屋を後にした。
ここにはボクの居場所はない。まだ見ぬ八階を目指すことにした。
螺旋階段の取っ手にしがみ付き、重い足を引き上げながら最上階へ向かった。何とか上りきると、最後の段の上でボクがここに来ることを心待ちにしていたのか黒猫が一声鳴いて迎えてくれた。黒猫の頭を撫でてやると、ボクの足に体をこすりつけてのどを鳴らし、そのまま後をついてきた。
新しい最上階も他の階と同様に満月のようなブラケット照明と一つの扉があるだけだった。他の階と違うところといえば、扉が廊下の突き当り奥にあることと、扉にプレートがかけられていないことだった。そして、階段は天井に届くことなくきちんと終わっていた。
(非常口って書いてあったらよかったのに……)
出来たばかりの階にもう誰かが住んでいるとは思えなかったが、確かめない理由こそなかった。
扉に向かって歩いているのに、なかなか辿り着けない。
「階段から扉までそんなに距離あったっけ?」
ボクは自分の呑気な思想に後悔した。扉が逃げる様に遠退いていっていることにやっと気付いたからである。壁と天井、壁と床が間延びしてボクと扉の距離を伸ばしていく。前のめりに走り出し扉を追いかけた。黒猫も足早についてくる。ひざを床に強打しながらもノブを掴んだ。捕まってしまった扉は意地でも逃げ切りたいのか、今度はみるみる小さくなっていく。急いでパジャマのポケットをまさぐり鍵を取り出し鍵穴に差し込んだ。
観念したらしく扉の動きがぴたりと止まった。ノブを掴んだまま目を閉じ、深呼吸して息を整えてから鍵をまわした。カチリッと開錠の音がした。
扉を開けると、室内は真っ暗だった。小さくなってしまった扉を通るには四つん這いにならなければならなかった。部屋への一手は並行した床を踏むのだと思っていたが、空振りし、ボクは短く叫んでから暗闇の中へ落ちていった。
◇◇◇
暗闇の中のボクは『落ちている』という表現が正しいのかということを考えていた。なぜなら、落下している速度が全く感じられないのだ。『宙に浮いている』という表現の方が合っていると思った。まぶたを閉じても開いても同じ暗闇。どちらが上で下なのかもわからない。ボクが入ってきた入り口からの光も、もう見当たらない。
非常口ではなかった。ここも誰かの部屋なのか……考えながら、腕を大きく回したり足を指先まで力いっぱい伸ばして何かに当たらないか水中にいるかのようにもがいた。
「ボクもずっとこのマンションの人になっちゃうのかな」
口から言葉という形にした瞬間、現実味が増して涙がこぼれた。パパとママに会いたい。おじいちゃんの家に帰りたい。
と、その時、聞き覚えのある音がボクの涙を止めた。
――チクタク、チクタク……
次の瞬間、速度を感じた。
――ドスンッ!
「いった――……っ」
ボクは予想する暇もなく、不意打ちで自分の重みを受け止めた。
右目を開いて、見覚えのある光景に安堵し左目も開けた。そこは、戻りたくて仕方がなかった物置だった。
夜中の大きな物音と揺れに、何事かと駆け付けたおじいちゃんが小さく叫んだ。
「いったい何じゃ? 寝たんじゃなかったのか?」
物置に倒れているボクに駆け寄り、頭や肩、膝に問題がないか摩りながら確認しているおじいちゃんの質問には答えず、涙を拭いながら、ずっと聞きたかった質問をした。
「おじいちゃん、この家の屋根裏部屋はいつからマンションだったの?」
おじいちゃんの顔が心配から不思議そうな表情に変化していく。
「やはり頭でも打ったのか? この家には屋根裏部屋なんぞありゃせん」
屋根裏部屋の入り口があった場所を見ると、そこはただの天井だった。上るときに使った梯子も見当たらない。おじいちゃんの手を借り、起き上がったボクは背中に埃を付けたまま抱き付いた。
「おかしなことを言う。変な夢でもみたのか……おやおや、体が冷え切っておる。ホットミルクを作ってやろう」
二人で階段を下りていく途中でおじいちゃんは思い出したように言った。
「おかしなことと言えば、家中の時計が止まってしまったんじゃよ」
一階に辿り着くと、止まったと言っていた時計が全て同じタイミングで秒針を刻んでいた。
「こりゃ参った」
目を皿にして口をあんぐり開けているおじいちゃんと、その様子を見ているボクの足に黒猫が体をこすり付けてきた。
「お前……一緒に落ちてきたの?」
返事をするかのように鳴いてから、写真立てが建ち並ぶ棚に飛び乗った。子供のときのパパが横に立ち、まだシワの無いおばあちゃんの膝の上からこちらを見ている黒猫と瓜二つだった。そのせいで、おじいちゃんの口はなかなか閉じることが出来なかった。
「何と……ばあさんが可愛がっていた猫そっくりじゃないか。逃げ出したとばかり思っておったが……いやいや、同じ猫である訳がない」
立て続けに不可思議なことを目の当たりにしたおじいちゃんは頭を振った。考えることに疲れたようだった。
同じ猫だとするなら、猫という生き物の寿命をとっくに超えているはずだ。でも目の前にいる黒猫は艶やかな毛並みで、老いを感じさせないのである。写真と同じ満月のような金色の目をして、写真と同じで色褪せてなどいないピンクのリボンを首に巻いているのだから、同じ猫と思う方が自然だった。
ボクの心の声が聞こえていたのか黒猫は鳴いた。そして、暖炉の上に飛び移るとバラの置き時計に寄り添い、振り子のように尻尾を振った。
あの日以来、物置から物音が聞こえてくることは二度となかった。奇妙なマンションの住人とも会っていない。黒猫は暖炉の前で刻一刻と進みゆく時間の流れを心地良さそうに満喫している。まるで止まっていた時が歩み出したことを喜ぶかのように。
おわり