03. 住人たちの思い
――401号室――
「いま何時だろう? ここに来てからどれ位たったのかな?」
あくびをしながら、螺旋階段横の丸い窓から外を見上げたが夜だといまいち時間の経過がわからない。満月も星たちも夜空に身をゆだねて寝ているように思えてくる。
階段を上る足取りも心なしか重くなってきた。四階に上りつめて見渡してみたが、さっき見かけた黒猫はいなかった。
今度はノックする前に、扉に耳を当てて中の様子を伺ってみた。しかし、何の音も聞こえなかった。誰もいないのかな?と思いつつノックした。
聞き耳を立てたときは何も聞こえなかったのに、息を切らし顔を真っ赤にした老人が勢いよく扉を開けて、開口一番怒鳴り散らした。ボクの前髪がふわっと浮いた。
「誰だぁ! こんな時間にっ! 全くけしからん!」
七三分けにカットされた髪を揺らしながら怒鳴る姿は威圧感たっぷりで、小柄な体格をしているということを見落としてしまうほどだった。ボクを確認した老人はまた怒鳴った。
「何じゃお前は! 子供がこんなところで何しとる? 全くけしからん!」
最初からずっと怒鳴りっぱなしなので、圧倒されてしまったボクは何も言えずに固まってしまった。
「何だ! こっちが聞いているのに答えんか! 全くけしからん!」
この老人は『全くけしからん』が口癖のようだ。語尾に必ずついてくる。そんなどうでもいいことを飲み込んで、やっと言葉を出すことができた。
「こっ……このマンションの出入り口はどこですか?」
つられて大きな声になってしまった。
「意気のいいガキじゃ! 気に入った! まぁ中に入れ!」
この怒りっぽい老人と二人っきりになりたくない、と一心に思ったけれど断る勇気もなく、助けてくれる友達が隣にいなかったボクは苦い顔をしながら渋々入った。意外にも老人の部屋は綺麗だった。廊下に置かれた棚の上にはケースに入った船やお城の模型がいくつか飾られていて、壁には手作りと思われるタペストリーが掛けられている。
奥さんが綺麗好きなのかな?とあたりを見渡していると、奥から白髪交じりの髪を後頭部できつく結い上げたおばあさんが出て来た。
「まぁ、何てことでしょう! こんな時間に子供が一人で出歩いているなんて」
怒鳴ってはいないが、怒り口調だ。夫婦そろって短気のようである。老人と二人きりではなくなったが、居心地がよくなることは無かった。
「ボク、出入り口を探しているんです。このマンションの。知っていたら教えてもらえませんか?」
「我々が出向く必要など無い! 息子夫婦が孫を連れて来ればいいのだ! それなのになかなか会いに来ない! 全くけしからん!」
この老人は、会いにきてくれない家族に怒っているのか。このパターンでいくと、また出入り口に関する情報は得られそうにないと予想したボクは、部屋を出る理由を探すことに集中した。目を泳がせて何かないかと室内を物色していると、老人が怒鳴り始めた。
「そこでじゃ! わしは息子夫婦に手紙を書こうと思いついた! いいアイデアじゃろう?」
情報収集に集中していたボクは老人の問いかけを無視してしまった。
「コラ! わしの話を聞かんか! 全くけしからん!」
老人にとっての通常より、更に大きな声で怒鳴られたボクは、驚いた拍子で模型のケースの方へよろめいてしまった。
「うわっと……すみません。このお城があまりにもきれいで、つい見とれていました」
とっさにしては良い言い訳が出た。
「むっ……そうじゃろう。その城に見とれてしまうのも無理はない。十九世紀ドイツ南部に建てられたノイシュヴァンシュタイン城といってな、画家がデザインした古城なんじゃ!」
画家がデザインしたというそのお城はどの位置から見てもとてもきれいだった。古城を見回しながら、自分の言い訳に感謝した。
「いかんな。話がそれてしまった! 紙があってもこの部屋にはペンがない! 全くけしからん!」
そんなことにでも怒るなんて。ボクは呆れた。
名残惜しかったけれど早くこの夫婦から開放されたかったので、胸ポケットの孔雀の羽ペンを差し出した。
「これ、よかったらどうぞ」
「まぁ、何てことでしょう!」
おばあさんは、怒っているのか喜んでいるのか、パジャマ姿の子供が羽ペンを持ち歩いていることに驚いているのか、よくわからない口調だった。
怒り口調でお礼を言われながら、短気な老人夫婦から開放されることができた。
――501号室――
景色の変わらない螺旋階段を上り、ノルマを達成するために手あたり次第当たっていく営業マンのように501の扉をノックした。
身構えていたけれど、扉を開けたのはボクと同じ位の背丈の少女だった。パーマがかったボリュームのある髪を耳にかけ、ボクのパジャマより断然質の良さそうな生地でフリルとリボンがたくさん付いたワンピースを着ている。
「あなたは、だぁれ?」
扉に身を寄せている。夜遅くの訪問者に警戒しているようだ。
ボクなりに優しい口調で聞いてみた。
「このマンションの出入り口がどこにあるか知ってる?」
「知らない」
「そっか……じゃ、三日月の絵がついたスプーンは知らない?」
少女は一瞬視線をそらした。しかし、すぐ平然とした表情で知らないと断言した。本当は何か知っているのじゃないかと、もう一度問いただしてみようと頭の中をフル回転して考えていると、さっき見かけた黒猫が開いた扉の隙間から中へ入ってきた。
「またお前なの?」
少女は猫を捕まえようとしゃがんだが、猫はするりと少女の手をすり抜け奥へと進んでいった。
黒猫のことを名前で呼ばなかったことに気づいたボクは慌てて言った。
「ごめん! あの猫うちのなんだ。すぐ連れ戻すね」
少女の返事を待たずに部屋に入り込んだ。そして猫を探す振りをしながらスプーンを探すことにした。
部屋の中心にレースが上から掛かった子供用のベッドが置いてあり、その周りを取り囲むように、いろんな動物のぬいぐるみが置いてあった。ライオンは本物と同じくらいの大きさに見える。ふと疑問が沸いたので質問した。
「お父さんやお母さんは?」
「二人ともいっつも仕事。だからアタシが寂しい思いをしないように動物たちが一緒なの」
一段と大きな耳と鼻を持つ像や、まん丸な目を持ち曲がりくねった蛇、実物より可愛くなっている熊など、たくさんの動物がひしめき合っている。部屋の角には海の生き物たちが水槽の隅で隠れているかのように固まっている。チーターの親子の間から三日月の絵が彫られたスプーンを口にくわえた黒猫がにゅっと現れた。
ボクと少女はそれぞれ違う心情で「あ!」と口にした。少女は猫からスプーンを取り返そうと、
「だめよ! それはアタシのよ!」
と、追いかけ始めた。
「あのスプーンは君のじゃなくて、一階の人のだろ!」
ボクも先を越されないように猫を追いかけた。黒猫は身軽に背の高さや大きさが異なるぬいぐるみ達を足場に飛び移り、あちらこちらに逃げ回った。黒猫が倒したぬいぐるみが行く手を阻み、少女は後れを取った。
少女とボクの距離が離れると、黒猫は静かにボクの目の前にちょこんと座った。抱き上げて口からスプーンを取り、
「このスプーンは返してもらうよ。……えっと、猫もね」
軽く息を切らしながら、スプーンを見せて少女に宣言した。
少女は涙目になりながら眉をつり上げ声を荒げた。
「アタシがほしいものは、パパもママも何でも買ってくれるわ! そのスプーンがほしいの! だから返して!」
「さっき君はボクに嘘をついたし、このスプーンだって盗んできたんじゃないの? こんなことしてるなんてパパやママが知ったらきっと怒られるよ」
親に怒られるのはいい気がするものではない。それは何でも買い与えられている少女も同じ気持ちのようだ。黙り込んでしまった。反抗するように睨みをきかせた瞳からは大粒の涙がぽろぽろと落ちている。
沈黙をやぶるように黒猫が鳴いた。
「とにかく、スプーンはボクから返しておくよ」
少女を泣かせてしまったという気持ちは、後味が悪かった。扉を閉める時も少女を直視することが出来なかった。
抱きかかえた黒猫を褒めながら撫でていると首輪に小さな鍵がついていることに気付いた。しかし、確かめようと鍵に手を伸ばそうとした矢先に黒猫は短く鳴いてボクの手からするりと抜け走り去ってしまった。
――601号室――
スプーンは見つけることが出来たけれど、肝心の出入り口に関する情報は誰からも、手がかりすら得られていない。黒猫の首輪についていた鍵が気になったが逃げてしまったし、何の鍵であるかわからない状態では追いかける気になれなかった。
螺旋階段を見上げると天井が見えた。最上階まであと少しだ。スプーンを返しに行くのを後回しにした。
階段の途中からいい匂いがしてきた。美味しそうな匂いだ。猫を追い掛け回して疲れたのと、嗅覚が相まってお腹が小さく鳴った。
どうやら美味しそうな匂いは601の扉から漏れ出ているようだ。匂いにつられてノックすると、大きなお腹とお尻をすっぽり隠したワンピースにエプロンをまとった小太りな女性が出迎えてくれた。
「こんばんは。あの……」
言いかけたところで、その女性はボクの手を取り部屋の中へと連れ立った。
「さぁさぁ、あたいの料理を召し上がれ!」
とてもおいしそうな匂いなので、ボクは胸に期待と鼻の穴を膨らませて喜んで部屋の奥へと進んだ。
「うわぁ凄い!」
部屋には立派なキッチンがあって、七つのコンロが一列に並んでいた。その全てに鍋が置かれ、湯気がもくもくと立っている。
手前にあるテーブル席に座るよう促され待っていると、木のスプーンを渡された。少しして、目の前に出されたお皿には、淡く透き通ったスープが入っていた。
「さぁ召し上がれ」
ぽってりした指を胸の前で絡め合わせ、満面の笑みで食べるよう勧められ、お腹が空いていたボクは疑いもせず口に運んだ。すると野菜の甘みが凝縮された濃厚なスープが口の中いっぱいに広がった。でも後味はすっきりで、ボクは幸せな一口に酔いしれた。その後、勢いに身を任せて一滴も残さず平らげた。
胃の辺りをさすりながら一列に並んだコンロを左から眺めていくと、湯気の合間から見覚えのあるアイテムが目に入った。フルーツが浮き沈みしながら見え隠れしている鍋。その隣はロール紙が鍋から飛び出ている。
このマンションの住人に関わるものが煮詰められている?