02. 不思議な部屋
――101号室――
扉には101と書かれたプレートがかけられていた。ボクは息を吸い込んでから扉をノックした。数秒待ったが誰の声もしない。緊張混じりの息を吐き戻しながら、もう一度ノックし、
「誰かいませんか!」
と、声を引き出した。
すると、扉の向こうから間延びした声が返ってきた。
「はいは~い。ちょっと待って~」
声からすると、怖そうな人では無さそうだ。肩の力が少し抜けた。
扉が開くと、そこには目がチカチカするような星柄の青いワイシャツを着てサスペンダーでズボンを繋ぎ止めた、とても太った男性が立っていた。襟にナプキンを押し込めて食事中のようである。
「何かご用~?」
ほんの少し面倒くさそうに質問されたボクは
「えっと…あの、屋根裏部屋の入り口が見当たらなくて、部屋に戻れなくなっ……」
と、言いかけたところで、太った男性が口をはさんだ。
「屋根裏部屋ぁ~? ぷぷぷ~」
手で口を覆いながら、わざとらしく笑った。
「ここは屋根裏部屋じゃなくて、マンションだよ~」
マンション? でも、ボクがおじいちゃんの家に来てから他の誰かとすれ違ったことはないし、挨拶したこともされたこともない。そもそもおじいちゃんの家は二階建てだったはずだ。
「ボクはこの下にある物置から入ってきたんですけど……その……」
嘘を言っている訳ではないのに、おかしなことを言う少年だと言わんばかりの顔で見つめられることに耐え切れず、声が小さくなってしまい、最後の方は諦めてしまった。
「君はここから出てその物置へ戻りたいってこと~? 戻りたいだなんておかしなことを言う子だなぁ~」
「……」
忌憚のない返事に固まってしまった。
「でも、今食事の途中だからな~。困ったな~。あ、困ったことがまた一つ増えちゃったよ~。もぉ~」
太った男性は、ぶつぶつ言いながらボクを部屋の中へ案内した。
入って驚いた。部屋には色とりどりのたくさんのフルーツが至る所に山積みになっているのだ。まるで太った男性が執事でフルーツが部屋の住人かと思えるくらいの量。そして部屋の真ん中、丸テーブルの皿の上には主と思わしき立派なぶどうがどっしりと構えていた。
フルーツの食べすぎであんなに太ってしまったのだろうか。この部屋を埋め尽くす量からするとあり得るかもしれない。
驚いているボクを気にもかけずに、太った男性は席に戻った。
「大好きなグレープフルーツを食べようと思ったんだけど、スプーンが見当たらなくてね~。あのスプーンで食べるから美味しいのにさぁ~。仕方ないから次に食べようと思ってたぶどうを食べてたところなんだよね~」
「はぁ……あの出入り口はどこに?」
「あぁ、出口ね~。上の階の人に聞いてみて~」
この人は知らないのか、答えるのが面倒くさいのか。もし、本当に出入り口を知らないのだとしたら、どうやってこんなにたくさんのフルーツを入手しているのだろうか?
「ねぇ、君の質問に答えたお礼にスプーンを探してきておくれよ~」
ボクはムッとした表情を惜しげもなく出した。このマンションの住人なら、出入り口くらい知っているはずなのに、教えてくれずに自分の探し物を押し付けてくるなんて。ボクの表情から何か察したのか、小さい木の実のようなものを手渡してきた。
「はい、これをあげるよ~。パイナップルの葉の中に紛れ込んでいたんだけど~君にプレゼントするよ~。何かのスパイスじゃないかな~」
乾燥している。確かにスパイスのようだ。
「あ、あとスプーンはね~これと同じ種類のものなんだ~」
太った男性が手に持ったナイフとフォークの柄には三日月の絵が彫られていた。
ひと言説明した後、ボクの返事も聞かず部屋には自分以外に誰も居ないかのようにぶどうに夢中になる姿を見て、これ以上何を言っても無駄だと感じ、部屋を後にした。
フルーツ達に見送られ、上の階へ進むことにした。
――201号室――
螺旋階段は隅に設置されていて、近くの壁に丸い窓が一つついている。窓から眺める景色は、ボクが部屋から見た夜空よりほんの少し満月に近かった。
上の階も同じ造りになっていて、扉のプレートには201と書かれていた。唯一違っていたのは扉の下からロール紙が一つ転がり出ていることだった。
扉に向かって一歩踏み出す前に扉が開いて細身の人が出てきた。転がり出たロール紙を手にとって体を持ち上げた瞬間、パジャマ姿のボクに気付き、首を傾け笑顔で挨拶してきた。
「あら、今晩は」
肩幅のある男性だが口調は柔らかかった。
「こんな夜遅くにどうしたのかしら? まぁ、どうぞ中へお入りなさいな」
開いた扉から部屋の甘い香りが漂ってきて、ボクは吸い寄せられるように中へ入っていった。
部屋には、たくさんのロール紙が置いてあった。おとぎ話やゲームでしか見たことのない木が芯になっている紙だ。天井から床までの壁に、無駄なく取り付けられた金色のフックに山積みのロール紙が横たわり、いくつかのロール紙はだらしなく転がっていて、文字が書きつづられているのが見てとれた。
床に並ぶ円柱の装飾瓶には書き込まれたロール紙が入っている。そんなロール紙達に守られているかのように佇む細長いガラス扉の棚には色とりどりのインク瓶がしまってあり、取っ手にはカーテンについているような重装なタッセルが飾り付けられていた。ロール紙の隙間には羽ペンが所々刺さっている。天井を見上げると天然石の飾りが垂れ下がっていて、照明の光が反射して幻想的で、ボクが今まで日常だと思っていた生活とはかけ離れた不思議な空間になっていた。
細身の男性は黒いカーディガンに黒いズボンで、一見シンプルに見えたが、下に着ているブラウスのレースが襟元や袖、裾から幾重にも出ていて彼独特の体の動きに合わせて揺れるので、水槽の中を舞う様に泳ぐ金魚のようでとても華やかに感じられた。
「で、何かご用かしら?」
くるりと振り向きざまに質問されたボクは、自分の探している出入り口と太った男性から頼まれたスプーンの行方と、どちらから聞こうか迷った。そして、簡単であるはずの方を聞いた。
「ここの出入り口はどこにありますか?」
すると、細身の男性は一瞬眉をひそめてから言った。
「出口はあなたの後ろよ」
言葉が足りなかったと気付き、焦って付け足した。
「このマンションの出入り口です」
「あら、そういうこと。残念だけど外には興味ないわ」
奇妙な答えだった。さっきの太った男性といい、ここの住人は外に出ずにどうやって生活しているのか。
細身の男性は何かひらめいたようで、真っ白でふわふわした羽ペンを手に取ると、ガラス扉のタッセルを手繰り寄せ、そのうちの一つのインク瓶にペン先を浸してから、すぐそばのロール紙に何かを書き綴った。
「私、詩人なの。インスピレーションを感じとるのに私の目で見えるものには限界があるから、何かいい方法はないかしらって最近思うの」
スランプなのかと思いきや、移動する先々で羽ペンを取り踊るようにインクを選びロール紙にすらすらと書き綴っている。近くのロール紙の文字に視線を落とした。
終わりのない星屑の谷へ
だれもいない星屑の森へ
底果てしない星屑の海へ
深い悲しみと共に ひとり船ゆらむ
ボクの視線の先に気づいた詩人は説明を加えた。
「その時は気分が落ち込んでいたのよ。少し暗い詩になってしまったわ」
うなずきながら、残っていた面倒な方の質問をした。
「あと、三日月の絵がついたスプーンを知りませんか?」
「スプーン? この部屋には必要のないものね。ごめんなさい、お役に立てそうにないわ」
「食事とかしないんですか?」
「食事? ふふふ、食べ物に関する詩をつくるときもあるわよ」
とんちんかんな答えだ。
お礼を言ってこの部屋を出ることにした。出ようとするボクの胸ポケットにスッと羽ペンが挿し込まれた。
「あなたの服はちょっと地味ね。これをプレゼントするわ」
孔雀の羽だった。ボクにはちょっと大人すぎるような感じがしたけれど、きれいだったのでありがたく受け取った。
――301号室――
孔雀の羽から漂う甘い香りをふわりふわり落としながら螺旋階段を上った。
ここまでおかしなことが続いたせいか、ボクの思考回路は少し曲がり始めているようだった。この階の住人は動物かもしれない、と扉の前を歩いていた黒猫を見て当たり前のように思えたのだ。
ボクを横目に見ながら、軽やかな足取りで通り過ぎていく黒猫の姿を見えなくなるまで見送ってから301の扉をノックした。数秒たってから扉越しに答えが返ってきた。
「何用かな?」
言語は人のようだ。
「このマンションの出入り口を知りませんか? あと、スプーンを探しています」
扉が開く気配はなく言葉だけが返ってきた。
「私は医者であるからして、薬をもらいにきたのでなければ帰りたまえ」
このマンションの住人たちは、自分に興味のないことに関しては誰一人答えてくれない。ボクはため息をつき肩を落とした。それから同じやり取りを二度繰り返したものの、結果は変わらなかった。