01. 満月の夜
必然と偶然が重なれば、誰でも不思議な世界へ足を踏み入れることが出来る。そして、不思議な世界への入り口が開く時には必ず前兆がある。
問題は、その前兆に気付くことが出来るかどうかである。その逆もまた然り――。
◇◇◇
定刻になると小窓から鳩が飛び出す鳩時計や、隠れていた人形達が踊り出すからくり時計。大きな振り子がゆっくり揺れ続ける壁掛け時計。住宅街のように建ち並ぶ家族写真に溶け込んでいる置き時計。大小さまざまで種類もたくさんの時計が集結しているこの家には、時計集めの趣味を誰にも邪魔されずに満喫しているボクのおじいちゃんが住んでいる。
ボクの冬休みは一週間ほどこの家に遊びに行くのが恒例となっている。
大きさや種類に関係なく、角がかけていたり模様や人形の洋服が色あせているのにきれいな時計と、新しいのにうっすらほこりを身にまとった時計が入り混じっている。ボクはこのなぞなぞの答えに、この家に入れば誰もが抱く別の疑問からたどり着いた。
「こんなにカチカチ音がうるさかったら眠れないんじゃない?」
「わしにとっては家事がはかどる音楽になったり、眠るときの子守唄にもなる。時計の針が動いていなかったら、ただの針が入った箱にすぎん」
そうなのだ。この家にある時計はすべて動いている。針が止まっているのに気付くと、ネジを巻いてやるか電池を交換し、きれいに掃除してから元の位置に戻すので、電池交換がまだとうぶん先になる時計はほこりを被ってしまっているのだ。
すべての時計が動いていても個々に時を刻んでいるため、同じ時刻を指しているとは限らない。本来の役割を果たしているのは、この部屋では暖炉の上でたったひとり優雅に座っている唯一色褪せることのないガラス細工で出来たバラの置き時計だけである。光の加減で凛としたリ、ふんわりしたり雰囲気が変わる、おばあちゃんが大好きだった時計だ。
おじいちゃんが住む地域は、冬に雪が降ることは滅多にないけれど、窓やドアと壁に隙間が空いているせいか寒い。それに両隣にアパートが建ってしまい、日当たり時間が短く昼間でも薄暗い。
今日の晩ご飯は、おじいちゃんの得意なホワイトシチューだ。昨日はミネストローネだった。明日はビーフシチューがいいな。少ない選択肢からもリクエストしてみようと思う。
「こりゃまいった!」
おじいちゃんが鍋を頭上に掲げ、料理をする過程では見る必要のない底を睨んでいる。眉間のしわに水が滴り落ちている。
「どうしたの?」
「……鍋底に亀裂が入ってしまったようじゃ」
ボクがいない日でも煮込み料理が続いていたらしい。
「今夜は別の料理にする?」
心では期待していても、少し残念な口調で聞いてみた。
でも、その期待は一瞬匂わされて終わった。
「そうじゃの……いや、大丈夫。二階廊下の物置に買ったままの鍋があったはずじゃ」
静かな階段を上った。時計は置かれていない。足場の狭い階段では電池交換が危ないからと、ボクのパパに止められたからだ。ボクと同じくらいの背丈のパパや、おじいちゃんとおばあちゃんが銅像の前で笑っている写真が等間隔に飾られている。赤ちゃんのボクがママに抱っこされてボクだけ違う方を見ている写真もある。
ボクが寝るベッドが置いてある部屋の隣に物置がある。ひと回り小さいドアの物置にはおばあちゃんの物が置かれたままになっていた。スーツケースからピンクの袖がはみ出ている。天辺にだけほこりを被ったバスケットボールがダンボール箱と壁の間で、落ちそうで落ちない絶妙な状態で止まっている。その横には野球ボールとバットが静かに寄り添っている。きっとパパが子供の頃に使っていたものだろう。
「鍋はどこだろう? 買ったままなら箱に入っているかも」
物もほこりも長い時間同じ場所に留まっている中で、ドアからうっすら道筋ができている方向があった。その道筋を目で辿ると小さめの箱がいくつか並ぶ棚に行き着いた。小さめの箱には『電球の替え』や『アルバム』とかわいらしい字で書かれている。その上に目をやると、壊れた鍋と同じくらいのイラストが描かれた箱が置かれていた。
「きっとあの箱だ。よ……っと」
ジャンプして箱の角を手前にずらすと、箱のふたに乗っていたほこりがふんわり落ちてきた。
「うわっ……ゲホゲホッ」
咳き込んで涙目になりながら、背伸びをして指先で箱をたぐり寄せ、最後は両手でしっかりと押さえた。ほこりを吸わない様に息をとめてから箱を引きずり出し、沈黙を続ける道具やスーツケースを背に足早に物置を後にした。
「おじいちゃん、新しい鍋とって来たよ。これだよね?」
野菜を切りながら、顔だけこちらに向けたおじいちゃんが言った。
「おぉ、ありがとな。助かったわい」
ふと、二階で物音がした……気がした。もしかたらボクがジャンプしたせいでバスケットボールが転がり落ちたのかもしれない。少し気になったがこの部屋以外は寒いし、聞き間違いという可能性もある。明日の昼間にでも様子を見に行けばいいだろう。
ロッキングチェアの上で、料理のやさしい音と時計のまじめな音、そして暖炉の薪の不定期な音色に包まれながらボクは冬休みの宿題を進めた。
暖炉の上にあるバラの置き時計を見ると、六時三十八分。新しい鍋からはもくもくと湯気が立っている。おいしそうな匂いがする。お腹が鳴りそうだ……と思ったと同時に、
「出来たぞ!」
にんまりしたおじいちゃんがシチューをテーブルに置いた。ロッキングチェアから勢いよく立ち上がりテーブルへ駆け寄った。鍋の中身を見た瞬間、お腹が鳴った。
「待たせて悪かったのう」
言葉とは間逆の表情をする。
いつも一人で食べている夕食が、この一週間は一人じゃない。しかも孫と二人きり。すべての時間が愛おしく、嬉しくてたまらないようだ。
夕食を食べながら、学校での出来事やパパがママに怒られている日常を話した。おじいちゃんは、そうかそうか、と嬉しそうに聞いてくれた。
◇◇◇
パジャマに着替え、ベッドに入る前にカーテンの間から夜空をそっと覗き見た。
「うわぁ……きれいだな。今夜は満月だ」
雲一つない真っ青な夜空には、空を独占した月と星たちが静かに輝いている。両隣のアパートがなかった頃は、もっと広い夜空が見えたのに。
白い息を窓に吹きかけてからベッドに入った。眠りにつこうと壁側にうずくまり目をつむった瞬間、また物音が聞こえた。小さいけれど何かが開くような音。
「何だろう?」
今回ばかりは気になった。ボクが出るとき、そんなに大きな変化は感じられなかった。でも少しずつずれていって、物の雪崩が起きてしまったらどうしようと考え始めると、目が冴えてしまった。
話しかける相手はいないけれど、夜というのは一人なのだと認識するだけで不安になる。そんな不安を振り払うように自分に話しかける。
「ちょっとだけ覗いてみようかな」
部屋を出ると、あまりの静けさに寒さが増した。
物置のドアを少し開け、片手だけ差し込んで電気のスイッチに指をかけた。点けると同時に勢いよくドアを開けた。目を見張ったが、動いたものは見当たらなかった。転がったと思っていたバスケットボールは同じ位置にある。
(何の音だったんだろう……?)
疑問は残ったままだったが、見た目に変化がなかったことで自分を納得させ、物置内をくまなく観察する気持ちを治めた。電気を消してドアを閉めようとした瞬間、
――コロンッ
体がビクッと跳ねた。電気のスイッチから手を除け、ゆっくりと振り返った。見渡す限りさっきと見た目は変わっていない。ほんの少し眉間にしわが寄った。
ふと小さな変化に気が付いた。物置の床に目をやると、ぶどうの実が一粒転がっていた。手にとってみると、ほこりを被っていない。鍋を取りに入った時、部屋全体がほこり臭かったし、物置にフルーツを置くなんて聞いたことがない。何より、このぶどうは今すぐ食べられそうな程瑞々しい。
「一体どこから……」
と、言いかけた途中で、また一粒落ちてきた。見上げると屋根裏部屋の入り口がずれて隙間が開いていた。
(もしかしてネズミ?)
得体の知れないものだったら恐怖に慄いたかもしれないが、説明がつけられる状況のせいか、怖くは無かった。
壁に立てかけられている梯子を入り口の真下に設置して、寝ているおじいちゃんを起こさないようにゆっくりと上り戸を持ち上げた。
屋根裏部屋からまったりとした空気が下りてくる。自分の目線が屋根裏部屋の床下あたりまで届くと、またぶどうの実がこちらに向かって転がってきた。
ぶどうの実を手に取った瞬間、真っ暗ではないことに、はたと気付いた。物置の明かりのせいではない。この明かりは下からではなく上から。つまり屋根裏部屋に灯りが点いているのだ。新しい疑問と一緒に恐怖心がついてきた。泥棒が潜んでいるとしたらと思うと、自分へ話しかける声も小さくなっていく。
「もしかして誰かいる……とか?」
恐怖心より好奇心が勝ったところで屋根裏部屋に立ったボクは、口を開いたまま棒立ちになり、瞬きすら忘れていた。
「おっ……おじいちゃんちの屋根裏って、こんなに広かったの?」
屋根裏部屋だと思っていた場所は、ホテルで見るような細かい模様の絨毯が敷かれていて、その先にはバロック調のロートアイアンの螺旋階段が上へと続いていた。壁には満月のような真ん丸のブラケット照明が廊下を挟んで交互に施され、天井と床を優しく照らしている。見渡す限りでは、扉は一つしかなかった。
「何階まであるんだろう……?」
螺旋階段の上を眺めると結構続いている。
(おじいちゃんに聞いてみなくちゃ!)
驚きと好奇心で夜だということを忘れて、なぜ教えてくれなかったのか聞く為に下の物置まで一旦戻ることにした。
「……え?」
さっき入って来たはずの物置からの入り口が無い。四つん這いになって、手探りで絨毯の切れ目を探したが見当たらない。見渡す限りでは、扉は一つ……違う。ボクはあの扉から入ってきた訳ではない。
「どうしよう」
なぜこうなってしまったのか、入り口があったはずの場所を行ったり来たりしながら自問自答を繰り返したが、無くなってしまった入り口以外で現状から脱する方法は一つしか思い浮かばなかった。