悪役令嬢は残業する
パトリックと一緒に障害を乗り越えると心をひとつにしたイライザは、社畜魂を発揮する!
お父様たちの動きがわかるようにリビングルームに移動した私は、アンドレからもらったノートに目を通しながら、部屋からお父様かアンドレが出てくるのを待った。
ノートの情報によると、黒魔法を使った後は体力の消耗が相当激しいらしい。体力を強化するために普段からどんな生活を心掛けるべきなのかや、体力の消耗時によく効く薬草のことも書かれている。
確か、この邸には薬草庫があったはず。私はすぐに薬草庫に行ってみた。
さすが公爵家の薬草庫、壁一面が薬棚になっていて、何種類もの薬草の名前が貼られている。よく効くと記されていた数種類の薬草をブレンドした瓶もあった。どうやら薬湯として飲むらしいが、残りが少ない。アンドレも飲むだろうから、もっと必要なはず。私は棚に置かれていた薬草の調合に関する本を全部抱えて、リビングに戻った。
薬草に関する知識を片っ端から頭に入れていく。しばらく没頭していると、お父様の部屋のドアが開いた音がした。
すぐに廊下に飛び出すと、アンドレが眠そうに欠伸をしながら歩いてくる。私の姿を見て、驚いたように目を見開いた。
「イライザ…義姉さん、まだ起きてたの?」
「ええ、ちょっと調べたいことがあって。アンドレは?順調に進んでるの?」
「うん、順調だよ。ちょっと疲れたから、薬湯を入れてきてって頼まれてさ」
「それなら、私が入れて持っていくわ。お父様からお話も聞きたいし」
アンドレがさらに目を丸くする。
「入れられるの?薬湯」
「アンドレがくれたノートに薬草のことが書いてあったでしょう?さっき薬草のことも勉強していたから、薬湯の入れ方もわかるわ」
私が言うと、アンドレはにっと笑った。
「さすが義姉さん。もうそこまでやってるんだ」
「私には黒魔法の素質がないんだから、サポートくらい当然よ。さあ、早くお父様のところに戻りなさい。アンドレはアンドレにしかできないことをしっかりやってちょうだい」
「ふふ、以前よりイライザ、パワーアップしてない?今の方がいいね」
それって、以前のイライザと違うって言いたいのかな?アンドレ、カンが鋭そうだから中身が違うってバレそうでドキッとするな。
「余計なこと言ってないで、さっさと行く!それから、私のことは義姉さんと呼ぶんでしょう?」
「おっと、失礼。はいはい、戻るよ。じゃあ、薬湯よろしくね」
色々襤褸が出ないように、アンドレをさっさとお父様の部屋に追い返すと、私は薬草庫からさっきのブレンドの瓶を持ってきて薬湯を入れた。ハーブティーのような香りが漂う。本の手順通りやったから、きっと大丈夫なはず。
薬湯を持ってお父様の部屋のドアをノックする。
「どうぞ」
アンドレが中からドアを開けてくれた。部屋に入ると、お父様が床に描かれた魔法陣の中心で目を閉じ、ぶつぶつと何かをしゃべっている。
「今、影をアスターにいるご友人のところに飛ばしてる」
アンドレにそっと耳打ちされ、私は黙って頷いた。どうやら今はお父様には話しかけない方がよさそうだ。テーブルに薬湯を置いて、しばしお父様の様子を見守る。アンドレが薬湯に手を伸ばし、一口すすって顔をしかめた。私も味見してみたけど、この薬湯はめちゃくちゃ苦い。アンドレの表情に、思わず口元が綻んだ。
そうやって待っているうちに、お父様が目を開けた。だいぶ疲れた表情をしている。
「お父様、お疲れ様でございます。薬湯を入れてまいりましたので、一息入れてください」
「おお、イライザ、まだ起きていたのかい?ありがとう、いただくよ」
お父様は椅子に座って薬湯を飲んだ。
「うん、苦い。でもこれがクセになるんだよ。こんなにしっかり成分を抽出した入れ方ができるとは。イライザ、勉強したのかい?」
「ええ、少し。薬草庫の本を読ませていただきました」
お父様はもう一口薬湯を飲むと、懐かしそうに瞳を細めた。
「君のお母さんが入れてくれた薬湯とよく似ている。やっぱり親子なんだなあ。いつも彼女は僕をサポートしてくれていたから…」
お父様は薬湯を飲み干すと、ふうっと息をついた。
「ああ、薬湯でだいぶ癒された。イライザは進捗を聞きに来たんだろう?今飛ばしていた影の情報を話すから、メモを頼む。これまでの分はアンドレがまとめてくれているから」
私はすぐにノートを広げ、お父様の言葉をメモし始めた。アンドレは先程までの分のメモを整理しながら、黒魔法についてもノートにまとめている。
こうして明け方近くまで、私たちの作業は続いた。
少し眠って朝食を取ってから、私は自室のドレッサーの前に座った。鏡の左下に刻まれた魔法陣に手をかざすと、鏡が光り出す。すぐにパトリックが鏡に映し出された。
「おはよう、イライザ。少しは寝たか?」
「おはようございます、パトリック様。ええ、少しは。パトリック様こそ、ちゃんと仮眠取りました?」
「取らないとお前に怒られると思って、ちゃんと取ったよ。おかげで頭もすっきりしてる」
パトリックの顔色も悪くなさそうで、私は安心した。
「じゃあ早速、お父様からの情報をお伝えしていいですか?」
「ああ、頼む」
私は昨夜お父様から聞いた情報をまとめたものを報告していく。今後の予定まで報告すると、パトリックが大きく頷いた。
「さすがウォーノック公爵だ。俺が欲しかった情報が完璧に集められてる。根回ししておきたい人物への接触もしてくれてるし、これで俺の計画も順調に進みそうだ」
「今のところ、どんな計画になってるんですか?」
「アスター帝国は、現皇帝の独裁体制になってから、武力行使により急激に国土と勢力を拡大した国だ。属国となってからも独立を諦めていない国も多いし、亡国の貴族たちで皇帝の転覆を目論む者もいる。国内ですら現皇帝のやり方に不満を持っている者も多い。だから、内部分裂を起こさせて現皇帝を廃位させる」
それは…そうできたら理想だけど、そんなにうまくいくのかな?現皇帝が廃位されても、次に皇帝になる人が同じような考え方の人だったら?私が考え込んでいると、パトリックがにやりとした。
「現皇帝のやり方に内心反発している皇族も多いらしい。戦争を望まない皇族を次の皇帝に据えるよう、もちろん動いてる。ウォーノック公爵が、この計画にかなり同調的で、それなりに力を持っている人物たちをうまく洗い出してくれているからな。俺はその人物たちに現皇帝を廃位できたらどんなメリットがあって、どうすればそのメリットを享受できるか、魅力的な案を提示してプレゼンする。もちろん、彼らに危険が及ばないように現皇帝を廃位させる計画も一緒にな。これからこの計画を詰めるから、イライザ、午後ウォーノック公爵とアンドレも一緒に登城できるか?少しの間王城に滞在して補佐をしてほしい」
「もちろんです」
私はにっこり笑って頷いた。一緒に乗り越えたいって言った私の気持ちを、ちゃんとパトリックが汲んでくれたことが嬉しい。午後の登城に備え、私たちはそれぞれ準備に入った。
パトリックの執務室に通されると、机の上に山積みになった書類の向こうからパトリックが顔を出した。すっと立ち上がり、笑顔で私たちを応接セットへと促す。
「ウォーノック公爵、イライザ、連日お呼び立てして申し訳ない。昨夜も遅くまで尽力くださり、感謝します」
今朝鏡越しに会ったけど、実際に会って顔が見られると安心する。疲れてないはずはないけど、顔色は悪くない。前世より10歳くらい若いんだから、体力ももっとあるのかも。私もそうだし。無理がきく若さって素晴らしい。
密かに胸を撫で下ろしていると、私の後ろに続いていたアンドレがパトリックに挨拶をした。
「お初にお目にかかります。この度ウォーノック公爵家の養子となりました、アンドレ・リー・ウォーノックにございます。パトリック殿下にお会いできて光栄です」
「はじめまして、アンドレ。話はウォーノック公爵から聞いているよ。これからよろしく」
パトリックに目が眩むほど眩い笑顔を向けられ、アンドレが頬を染めた。そうなのよ、あの笑顔には男でも魅了されちゃうよね。私は内心、アンドレに大きく同意した。
ソファに座るなり、目の前に書類の束が配られる。
「これまでの経緯と調査結果を踏まえた作戦の計画書だ。まずは目を通して、忌憚ない意見を聞かせてもらいたい。私は今回の件をきっかけに、アスター帝国の現皇帝を廃位させて、武力による強引な統治路線を潰してしまいたいと考えている」
パトリックが強い意志を宿した瞳で語ると、お父様とアンドレが少し目を見開いた後、同意するように頷いた。
「確かに。ここでアスターの強硬路線を叩けるならば、そうしておくべきでしょう。我が国の今後のためにも」
お父様はそう言うと、熱心に計画書を読み始めた。アンドレも続く。私もパトリックの意図を少しも取りこぼさないよう、集中して計画書に目を通す。
私が計画書を読み終わり顔を上げると、お父様もほうっと息を漏らしながらパトリックを見た。
「さすがです、殿下。これならきっとアスター帝国を平和的な国家へと方向転換させられるでしょう。私もアンドレも、この計画に沿って尽力させていただきます」
パトリックが安堵の笑みを浮かべて手を差し出した。
「ぜひ、よろしくお願いします。この計画にウォーノック公爵のお力は不可欠ですから」
お父様がその手を両手で力強く握り返す。
「どこまでもついていきます、パトリック殿下。殿下のような素晴らしい方にイライザを嫁がせられること、恐悦至極に存じます。末永くよろしくお願いいたします」
相変わらずお父様のパトリックへの熱量がすごい。まだ婚約は宙に浮いたままだけど、確かにこの計画通りに事が進めば、パトリックとアスター帝国の皇女が結婚ってことにはならなそうだ。そのためには、絶対に計画を成功させなくちゃ。
「ありがとうございます。それでは、早速計画を実行していきたいと思います。イライザにも私の補佐をお願いしたいと思いますが、よろしいでしょうか?」
「もちろんですとも。イライザもそのつもりでいたようです」
私が数日分の着替えや身の回り品を持ってきたの、お父様も見てたもんね。お父様とアンドレにも着替えは持ってきてもらうようにしたし。
「では、皆さん、よろしくお願いします」
パトリックに続いて、私たちも立ち上がった。お父様とアンドレは、黒魔法を使うため王城の魔法学者が用意した部屋に行き、私はパトリックとともに交渉用の資料作りに入る。
「この侯爵の心を動かせるよう、これとこれに目を通して交渉案の作成を頼む」
仕事がどんどん割り振られる。前世を思い出して、懐かしさと緊張感が蘇る。これ、ちょっとでも突っ込まれる隙があるとめっちゃ怒られるやつだ。今回はさらに、自分たちのこれからも大きく関わるから失敗は許されない。集中しなきゃ。
目を閉じて背筋をぐっと伸ばし、深呼吸をする。それからぱっと目を開くと、交渉案の作成に取り掛かった。
――どのくらい時間が経っただろうか。交渉案の作成が終わり、落ちがないか、もっといい条件が提示できないかを見返した。いつの間にかパトリックの従者さんが机にお茶を置いてくれてたみたいだ。出入りしたのにも気づかないとは、私もかなり集中してたんだな。せっかくだから一口飲む。冷めちゃったけど、香りがよくてほっと心が解れた。
パトリックにちらりと目をやると、一心不乱に何か書きつけている。その鋭い眼光は沢渡部長そのものだ。前世でよく、こうして一緒に残業したな。しばらくお茶を飲みながらパトリックを見ていると、眉間を指で摘まみながらパトリックが顔を上げた。あの仕草、超見覚えがある。ひと段落ついたんだな。
私は作成したばかりの交渉案を手に立ち上がり、パトリックの前に移動した。
「パトリック様、こちら、目を通していただけますか?」
「ああ、お疲れ。すぐ確認するから、その間にそこの書類、国別に整理しといてもらってもいいか?」
「はい、承知しました」
つい最近まで日常だったやりとりに、一瞬自分がイライザだって忘れそうになる。ラブソニの世界で沢渡部長と残業する日が来るとは、想像もしてなかったな。
書類を整理してから、部屋の隅に置かれたティーセットでお茶を入れる。薬草があれば、疲労回復の薬湯でも入れたのに。
パトリックの執務机にお茶を置くと、パトリックが顔を上げて微笑んだ。
「ありがとう。交渉案もよくできてる。ここのとこだけ、こっちの条件も追加しといて」
「わかりました」
私が書類を受け取ると、パトリックはお茶を飲んでふぅーっと長く息を吐いた。
「パソコンないって辛いよな。この問題が片付いたら、この状況どうにかしよう」
「ですね。手書きがこんなに辛いとは思いませんでした」
「ラブソニの世界観って、中世ヨーロッパっぽい感じをベースに現代っぽいアイテムは魔法で賄ってる感じだよな?それなら魔法で何らかの解決策があると思うんだが…。とりあえず今はそれ探してる暇もないしな」
私は腕をぷらぷらさせながら頷く。ずっとペン握ってたから腱鞘炎になりそう。
そんな私をじっと見ていたパトリックが、立ち上がって腕を広げた。
「ん」
「何ですか?」
「充電。早く」
これは…ハグってこと?私は躊躇いながらも、パトリックの前に立った。その瞬間、ぎゅっと抱きしめられる。パトリックの胸に頬を埋めると、いい香りに包まれた。
「――あー、癒される。最高」
私もパトリックの背中に腕を回した。密着度が増して恥ずかしいけど、ぴったりくっつくとなんだかすごく安心する。
「私も…最高です」
思わず正直に告げると、パトリックが嬉しそうな顔をしてちゅっとキスした。安心してたのに油断も隙もない!と睨みつけたら、そのままもう一度、深く長いキスをされた。舌を絡めとられて、足の力ががくんと抜ける。パトリックはそんな私をキスしたまま抱え上げて、ソファに移動した。
「はぁ…ん…」
疲れているせいか、すぐに頭がぼうっとしてきて何も考えられなくなる。貪るようなキスにすっかりとろとろにされていると、やっと唇が離れた。
「可愛い。もっととろけさせてやりたいけど、今はこれで我慢だな」
いやもう…十分とろけてますけど…。手加減しようよ…。
「充電完了。すげぇ元気出た。前世でもこうやって充電できてたらもっと頑張れたな、俺」
「いえ、大丈夫です。前世で沢渡部長にあれ以上頑張られたら、部署の全員が過労死してますから」
パトリックは私を後ろから抱きしめて、髪に顔を埋める。まあ、心は確かにちょっと満たされて元気出た…かも?
「よし、もうひと頑張りだな。いけるか?大城…イライザ」
「はい、大丈夫です」
パトリックは最後に、数秒間抱きしめる腕にぎゅうっと力を込めた。ずっとこの腕の中にいられる未来を掴まなきゃ。
「さあ、休憩終わり!」
まるで自分に言い聞かせるように言って私から離れると、パトリックが執務机に向かう。
私も立ち上がってお茶のカップを下げると、新たな仕事に取り掛かった。
王城に用意されていた客人用の部屋で仮眠を取り、翌日も各々の仕事に没頭する。合間に私は薬草を取り寄せ、お父様とアンドレ用の薬湯と、パトリック用の薬湯を入れて皆の疲れを癒した。これだって私にできる数少ないことのひとつだ。
お父様とアンドレも、私たちが作成した交渉案を手にそれぞれ影を飛ばし、パトリックも魔法で通信を行える相手には直接プレゼンをしていった。
そして3日目の朝、この件に尽力する全員が国王陛下の下に集まった。これまでの経緯と現状を報告し、最後の詰めを行う許可を得る。
考えてみれば、直接国王陛下に会うのは初めてだ。ゲームで顔を見たことはあったけど、やっぱり本物はオーラがある。パトリックとよく似た美しい顔立ちで、実年齢よりかなり若く見えた。
「パトリックはじめ、ウォーノック公爵家の面々もよくやってくれた。後は、アスター帝国の現皇帝を廃位させれば、すべて計画通りということだな」
「はい。これより、最後の計画に移ります」
「わかった。頼んだぞパトリック」
「はい。必ずや、よいご報告をさせていただきます」
私たちはお父様が黒魔法を使う部屋に移動した。お父様が影を飛ばし、協力者たちが一斉に行動に出るための手引きをする算段だ。
根回しは万全。交渉相手たちも全員が交渉案をのみ、契約魔法も交わしたから裏切ることもできないはず。きっと大丈夫、うまくいく。自分に言い聞かせながら、何度も深呼吸をする。握りしめた手のひらがじっとり汗ばむ。前世で経験したどれだけ大きな案件でも、こんなに緊張したことない。
「それでは、始めます」
魔法陣の中心に立ったお父様が目を閉じた。アンドレも援護するようにお父様の後ろに立ち、目を閉じる。近くに置かれた魔石にお父様が見ている光景が映し出された。
「アスター帝国の皇居だ。あの玉座に座っているのが皇帝」
耳元でパトリックが教えてくれる。アスター皇帝は髭のある眼光鋭い人物だった。歳は60歳くらいに見える。何かの会議なのか、臣下や貴族が集められているようだ。この中の半数以上が協力者になっているはずだ。
皇帝の臣下に姿を変えたお父様の影が、護衛の兵士たちが入れないように結界を張り合図を出すと、協力者たちが一気に皇帝に詰め寄った。しかし、その瞬間。
皇帝の背後にいた術者らしき人が手を振り、協力者たちが薙ぎ払われる。
「くっ!」
お父様が呻いて片膝を着いた。
「強力な術者がいる!アンドレ!」
お父様は再び立ち上がると両手を前に広げ、影を通じ黒魔法の攻撃を飛ばす。アンドレがお父様の横に駆け寄り、同じように攻撃を飛ばし始めた。
魔石に映し出されたアスター帝国の術者も、お父様たちの攻撃を受けてよろめいている。その間に協力者たちが皇帝を捕らえるのが見えた。お父様、アンドレ、頑張って!私は手を組んで祈る。祈るしかできない自分がもどかしくて、涙が出てくる。
攻撃の応酬をしていたアンドレが、アスターの術者の攻撃を受けて弾き飛ばされた。
「アンドレ!」
慌てて駆け寄って抱き起すと、アンドレが悔しそうに呻いた。
「だめだ、まだ僕じゃ力が足りない…」
パトリックがすっとアンドレの身体に手をかざす。
「動くな。肋骨が折れてる。回復魔法をかける」
回復魔法を施されたアンドレの顔から、苦悶の表情が消えた。
「殿下、すみません…」
「大丈夫だ。このまま横になっていろ」
スキャンも回復魔法も使えるなんて、沢渡部長は本当にすごい。それに比べて、私は…。悔しさに唇を噛みしめた。
お父様はまだ応戦中だ。相手の術者の攻撃が当たり、お父様がふらっと後ずさって、ごほっと口から血を吐いた。
「お父様!!」
嫌だ、待って。涙が溢れて止まらない。私、この人の娘になってまだほんの少しだけど、とっても大切に思ってる。どうしたらいい?どうしたら守れる?目の前で大切な家族の命が脅かされてるのに、どうして私は何もできないの!?
――身体の中で何かが弾けたような気がした。
「イライザ…?」
パトリックの声がくぐもって聞こえる。身体の芯が熱い。何かが湧き上がってくるような感覚。私は吸い寄せられるようにお父様の隣に立つと、すっと両手を前にかざした。
「もう、やめて」
身体の中から強大な力が放たれるのを感じて、私はそのまま気を失った。
「イライザ!イライザ!」
――パトリックが呼んでる。どうしてそんな悲痛な声で叫んでるの?
目を開けると、私を覗き込むパトリックの顔があった。その顔は青ざめて僅かに震えている。私はパトリックに抱えられていた。
「パトリック様…。どうしてそんな泣きそうな顔をしているの…?」
パトリックの頬に手を伸ばすと、その手にパトリックの手が重ねられた。
「よかった。イライザ、どこも痛いところはないか?苦しくないか?」
「私…どうして…?」
まだ頭がぼんやりしている。
「急に強力な黒魔法の攻撃を放って倒れたんだ。覚えてないのか?」
そうか、急に倒れたから、こんなに心配されてるんだ。でも、黒魔法を私が?素質がないんじゃなかったっけ…?
――そうだ、お父様は?
「パトリック様、お父様はご無事ですか!?」
はっとして周りを見ると、魔法陣の中心にお父様が座り込んでいた。私の視線に気づき、弱々しく微笑んで手を振ってくれる。傍らにはお父様を支えるアンドレ。よかった、みんな無事だ。
「ウォーノック公爵には回復魔法をかけたから、怪我は心配ない。体力はだいぶ消耗されているが…。計画も成功だ。イライザの一撃で相手の術者が気絶して、その間にウォーノック公爵の影が術者を拘束して力を封じた。皇帝も捕らえて投獄。アスター帝国は今、各地で反皇帝派が皇帝派を制圧して政権を握った状態にある。俺たちの筋書き通りだ」
それを聞いて、私はほっと胸を撫で下ろした。
「本当によかった…」
また体中の力が抜ける。なんだかもう、猛烈に眠くて、私はそのまま眠りに落ちた。
次に私が目を覚ましたのは、ふかふかのベッドの上だった。窓の外はもう暗く、月光が仄白く差し込んでいる。
この部屋は…?仮眠を取った客人用の部屋とも違うみたい。もっと広いし、部屋全体が豪華な感じ。ぼんやりと部屋を見回してふとベッドの横に目を向けると、パトリックが腕を組んで椅子に座り、眠っていた。月明かりに照らされた寝顔は、彫刻のように整っている。
もしかして、私を心配してずっとついててくれたのかな…。
「パトリック様…?」
小さい声で呼びかけると、パトリックがはっと目を覚ました。
「イライザ!起きたのか?」
「そんなところで寝てたら、風邪ひいちゃいますよ」
「よかった、人の心配ができるくらいには回復したみたいだな。――確かに寒い。ベッドに入れてくれ」
「は?ここに入るんですか?」
「そもそも、これ俺のベッドだから」
ここ、パトリックの部屋だったんだ!そりゃ広くて豪華なはずだ。慌てる私をものともせず、パトリックがベッドにもぐり込んできた。身体が冷たい。
「わ、すごい冷えてるじゃないですか!早く温まって!」
焦りで恥ずかしさが一瞬で吹き飛んだ。
毛布でくるもうとすると、パトリックがぎゅっと私に抱きついてきた。
「こっちの方が温かい」
恥ずかしいけど、こんなに冷たい身体のパトリックを放っておけなくて、私は抱きついているパトリックの上から毛布を掛ける。
「イライザが目を覚ましてよかった。黒魔法をあんな出力で使ったから、体力を消耗しすぎて倒れたらしい。――無理させてごめん。ちゃんと守れなくてごめん」
冷えた背中をさすっていると、パトリックが小さな声で言った。きゅうっと胸が締めつけられる。
「私の方こそ…。心配かけてごめんなさい」
パトリックのさらさらの髪を撫でて、ぎゅっとその大きな身体を抱きしめた。きっとすごく心配してくれてたんだろうな。こんなに身体が冷たくなるほど、ずっとそばについててくれたんだ。
「計画、うまくいってよかったです。沢渡部長が考えた計画なら、当然ですけど」
冷たい身体を抱きしめたまま私が言うと、パトリックがふるふると力なく首を振った。
「でも、大城にすごく無理をさせた。ウォーノック公爵にも。相手に術者がいるのはわかってたのに、あんなに強力な術者だとは…」
「だって、そんな報告上がってなかったし、仕方ないですよ」
「どうやら、皇帝に危険が迫った時のみという条件と引き換えに、強大な力を発動するよう誓約させられた術者だったらしい。だからウォーノック公爵も事前に探知できなかったそうだ…」
「それじゃ、なおさら仕方ないじゃないですか。お父様ですら探知できてなかったんだから、自分を責めるのやめてください。みんな無事で、計画も成功。オールオッケーでしょう?」
私の言葉に、パトリックががばっと起き上がった。苦しそうに顔が歪んでいる。
「全然オッケーじゃねえよ!俺は、お前がアランに攫われた時、もう絶対に危険な目には合わせないって誓ったのに、またお前をこんな目に合わせたんだぞ!何がオッケーだって言うんだよ!」
私も起き上がり、パトリックをもう一度ぎゅっと抱きしめ直す。
「大城…?」
「沢渡部長は、ちゃんと回復魔法やスキャンも使いこなしてたじゃないですか。私は、アンドレやお父様が傷ついているのに、見ていることしかできなかった。自分が何もできないことが本当に不甲斐なくて、悔しくてたまりませんでした」
「それは…。俺は黒魔法が使えないから、影を飛ばして戦ってくれる二人をサポートすることしかできなかったし…。それならせめて回復魔法くらいは習得しておかなければと…」
「そうやって沢渡部長は、ちゃんと自分にできるベストを尽くしたじゃないですか。計画だって完璧で、ちゃんと皇帝を捕えて、廃位できる方向に進んでる。あのアスター帝国の皇帝をですよ?ゲームの中でだって、そんな流れにはなってなかった。こんなことできるの、沢渡部長以外にいないです」
「でも、ウォーノック公爵を危険に晒した。あの時、大城が黒魔法を使ってなかったら…」
「私が黒魔法を使っていなかったら、きっと沢渡部長がお父様に回復魔法をかけてたでしょ?たまたま、何故か私が先に黒魔法を使えたってだけです。それに、私が倒れたのは黒魔法で体力を消耗しただけで、怪我もしてないですし。眠ったらすっかり回復しましたよ」
パトリックを抱きしめる腕に力を込める。だから、沢渡部長が責任を感じる必要なんて全然ないんだから。
「――悪い。俺、お前が絡むとダメだな。自分がこんなに情けない奴だなんて思わなかった」
自嘲するようにパトリックが笑う。沢渡部長の笑顔なんてほとんど見たことなかったはずなのに、そのパトリックの表情がどうにも沢渡部長らしく感じる。もう私は、あんなに推していたパトリックのキラキラした表情よりも、沢渡部長らしいパトリックの表情の方がたまらなく好きなんだな、と変なタイミングで実感した。
「まあ、弱いとこ見せてもらえるのも、実はちょっと嬉しいですけどね。同じ人間なんだなって思えて」
「お前、俺をなんだと思ってるんだよ」
「え?サイボーグとか?鉄面皮の」
私が笑うと、パトリックも笑った。それから私をぎゅっと抱きしめる。
「また情けないとこ見せたな。でも、きっとこれから先、いっぱいこんな俺を見せちゃうのかもな。それはできる限り回避したいけど、正直全部回避できる自信はない。それでも、俺は絶対にお前を守りたいし、ずっと一緒にいたい。こんな俺でもいいか?」
ああ、私、この人が本当に好きだ。
「そんな沢渡部長のパトリックがいいです。何が起きても、また一緒に乗り越えましょう。私にだけは、弱さも情けないとこも、隠さないで見せてほしいです」
「それでもできる限り、格好つけさせてもらうけどな」
「もう十分過ぎるくらいカッコいいですよ、私の婚約者様は」
笑顔で見つめ合う。それから長く甘いキスをして、私たちは抱き合って眠った。
アスター帝国の皇帝は廃位のうえ辺境に幽閉され、新たに反武力派の皇族が帝位に就いた。平和路線への舵が切られ、属国とされていた国々の独立に向けての動きも進んでいるらしい。まだまだ皇帝派だった貴族たちからの反発もあるだろうけれど、それは少しずつ解決していくしかないだろう。皇女のパトリックへの輿入れの話もなくなり、とりあえず目的は果たせた。
「アスターの皇女、実は反武力派の貴族に思い合ってた奴がいたらしい。彼女にとっても、この結婚がなくなったことは喜ばしかったようだ」
アスター帝国の新皇帝からの話を、パトリックが教えてくれた。皇族とか王族って、きっと前世の私たちみたいに自由に結婚することは難しいんだろうけど、それぞれみんなが少しでも幸せな結婚ができるといいと思う。
私はといえば、あの時突然黒魔法を使えたことがかなり稀有な事例だったみたいで、魔法学者の人たちから、お父様やアンドレも巻き込んで色々事情を聞かれた。何故使えたかは未だにわからないけど、やっぱり遺伝的要素が大きいのだろうとのことだ。ほんの僅かな素質の欠片が、危機的状況に反応したのかもしれない、というのが今のところの学者さんたちの見解らしい。あの時の力は凄まじかったみたいなんだけど、その後は全然で、アンドレと一緒に修業を受けることになった。結局、火事場の馬鹿力的なものだったのかなー、って思ってる。
「黒魔法が使える王妃とか、すごいじゃん。イライザもチート持ちになるとはな」
王城から帰る馬車の中、パトリックが笑った。気を利かせたつもりか、お父様とアンドレは別の馬車に乗っている。王家の広い空間を持つ馬車なのに、パトリックは当然のように私の隣に座っていた。
「黒魔法を使えるっていっても、あれ以降はまったくですよ。アンドレにおいてかれそうです」
「でも、大城ならちゃんと頑張るんだろ?」
「それは…ハイスぺなパトリック様に相応しい婚約者になりたいですし?まあ、黒魔法を極めたところで、使い手だって公表できませんけど」
「今のままでも十分認められてるよ。あの時大城がまとめた書類見て、臣下たちが青ざめてたからな。自分たちより王子の婚約者の方が仕事ができるんじゃ、首が飛ぶかもって」
「それは過大評価では?そもそも、沢渡部長の指導の賜物ですから」
「厳しすぎな上司で文句言われてたけどな」
「だって、毎日のように残業してましたし…。ブラック企業が聞いて呆れるほど真っ黒だったと思いますよ…。そりゃ文句のひとつやふたつ、出るでしょうよ…」
「だな。無理させてたって反省してる」
「わ、沢渡部長の口から反省なんて言葉が聞けるとは」
「失礼な奴だな」
軽口を叩き合って笑い合う。頑張ってよかったな。一緒に乗り越えられて、よかったな。
私たちの婚約披露パーティーも、無事約3か月後と日程が決まった。準備やら何やらで、さすがにパトリックが最初に言ってた1か月後は無理があったみたい。そりゃそうだよね、王太子に限りなく近い第一王子の婚約披露なんだから。パーティーの詳細はこれから決めてかなくちゃいけないから、まだまだ忙しい日々が続きそうだ。
「そういえば、私まだ王妃様にはお会いしてませんよね?どんな方なんですか?」
「ああ、王妃様ね…」
パトリックが複雑そうな顔をする。え、もしかしてまた試練?私が青ざめると、パトリックが噴き出した。
「感情が顔に出過ぎ。王子の婚約者の公爵令嬢のくせに」
「普段はもっとちゃんとしてます!パトリック様の前だけですから!」
むっとして私が言うと、くすくす笑いながら、パトリックが頷いた。
「知ってる。からかっただけ。感情豊かな顔してると、大城感が増すから、つい」
「つい、じゃないですよ!めちゃくちゃ不安になったじゃないですか!で、結局どうなんですか、王妃様」
「大丈夫。普通にこの婚約にも賛成してるし、悪役キャラとかじゃ全然ないから」
それを聞いてほっとする。さすがに次から次へと試練が続くのは、一旦勘弁してほしい。これからも楽な道じゃないのはわかってるだけに。王妃教育ってやつも始まるみたいだし。
「悪い。意地悪し過ぎた。許して」
パトリックがそう言って私の瞳を覗き込み、頭をポンポンした。そうやって私を照れさせて誤魔化す気だな。そうはさせないぞ、とばかりにじろりと睨みつけると、さっと唇を塞がれた。
「だから、そういうゲームのイライザが見せなかった表情されると、ああ、この顔大城らしくてそそる、って抑えが効かなくなるんだよ」
耳元で囁くパトリックの声が、沢渡部長の声と重なって聞こえる気がした。そう思ったらもう、流されてしまうしかなくなる。もう一度降ってきたパトリックのキスに、私は目を閉じて応えた。
私がパトリックを通して沢渡部長を感じているのと同じように、沢渡部長もイライザを通して私を感じてくれていることが嬉しい。前世であのまま仕事漬けの毎日だったら、絶対に得られなかっただろう幸せな感情。
「私、沢渡部長と一緒にこの世界に転生して、よかったって思ってます。不安なことや大変なことがあっても、沢渡部長となら大丈夫って思えるんです。転生前は、こんな気持ち知りませんでした」
「俺も同じ。転生をきっかけに、やっと大城に気持ちを伝えて、大城からも気持ちを返してもらえた。今なら何があっても絶対に二人で乗り越えられるって感じてる」
「これからも、二人で頑張りましょうね。必要ならいつでも残業しますから」
「指導はこれまで通り、厳しくいかせてもらうからな」
「望むところです。社畜魂、舐めないでくださいよ」
目を合わせて笑う。私たちは手を握り、身体を寄せ合った。
お読みくださり、ありがとうございます!
まだまだ二人の物語を書いていきたいと思っております。
よろしくお願いいたします!