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 両腕にトレイを抱えて壁にもたれ、溜息をつく。エリスはぼんやりと(くう)を眺めて、瞼に焼き付いた男の顔を思い浮かべていた。


 ----なんでだろう。あの笑顔が頭から離れない。


 エリスには今、気になっている事がある。


 店員への迷惑行為を禁止してくれたお礼に、ディルターにクッキーを渡した。自分でも良い出来だと思う程、美味しそうに焼けたと思う。これならきっと喜んでくれるだろうと、焼き上がったものを見た時は小さな声で『よし!』とか言ってしまったりしていた。そこまでは良かった。


 問題は、クッキーを作っている時も巾着に詰めている時も、始終胸が高鳴っていた事だ。誰かに食べてもらう為に作るのはルーカスと別れて以来一度もない。と言うよりルーカスにしかした事がない。けれどそれは、偽装夫婦とはいえ同じ屋根の下で暮らす中での自然な行動であって『ルーカスの為に作る』というものでは無かった。


 エリスはディルターに手渡す直前まで、初めての事だから緊張してドキドキしていたのだと思っていた。けれどクッキーを受け取った時のディルターの嬉しそうな笑顔を見た瞬間、確かに心臓が音を立てたのだ。そして、ほんの一瞬だけ頭の中が真っ白になった。


 ディルターは精悍な顔立ちをしていて、睨んだ時の表情は目を細くして見ても怖い。普通にしていても厳めしい相貌をしていると思う時がある。おまけに身体は大きく、背は高い。本気で睨まれれば大抵の男は縮み上がってしまうだろう。

 そんな男の優しい笑顔である。普段から笑顔を向けられるエリスにとっても、脳天を貫かれるような衝撃だった。


 ----アンリが変なこと言うから!


 わざわざ家まで送ってくれた後、二階から見た優しい笑顔も忘れられない。言葉通り安心したように頷き、何も言わずに立ち去る後ろ姿は本当に格好良かった。あんな風に守ってくれる男がいつも傍にいてくれたら…


 ----じゃなくて!!あれは騎士としてのお役目の一環!!勘違いするな私!!


 そうは分かっていても無意識に切ない溜息が出る。相手は貴族であり、いつかは王宮に戻る人だ。深入りするつもりも、派遣されている間だけの相手になるつもりも無い。


 ----なーんて。どの口が、どの立場から言ってんのよ。相手にされるわけないでしょうが。


 さて、と壁から身を離し、手を上げてエリスを呼ぶ客の元へ歩いていく。注文を聞いて厨房係へ伝えに行き、ホールに戻ったところを仕事仲間のサラに呼び止められた。


 「エリス、この前の幼馴染が来てるわよ。」

 「え!?」

 「エリスを呼んでくれって。なんだかすごく慌ててたわよ。」

 「分かった、ありがとう。」


 ----ルーカス…この前来たばかりじゃない。


 エリスはトレイを置き、急いで店の外に出た。前回と同じ場所に立っているルーカスを見つけた途端、ルーカスもエリスに近付いてきた。


 「エリス、突然来て悪かった。」

 「どうしたのよ。まさかもうアレを持ってきたんじゃないでしょうね?」

 「違うんだ。まぁそれもあるんだけど、とにかく大変なんだよ。今日ヴェラさんがうちに来たんだ。」

 「お母さんが?どうしてルーカスのところに?」

 「それが、テュッセンさんが仕事中に倒れたそうなんだ。それで君に伝えてほしいって言いに来て…」

 「お父さんが!?」


 エリスは思わず声を上げて口元を押さえた。不安と心配で眉間に皺を寄せるも、何も言えずにただ目を伏せる事しかできない。エリスにとって父親は、自分から自由を奪い、結婚という名の監獄に閉じ込め、エリスの望まない事を強要する者だった。


 執事を務める父テュッセンは、我が子への躾には人一倍厳しかった。男とはこう在るべし、女とはこう在るべしと強い固定観念があり、エリスが結婚してからも母親や使用人を通してエリスの様子を報告させては、ああしろこうしろと口を挟んできた。

 その最たるものが、『夫婦仲を深めるには子を産むに限る』だった。


 ----アレを言われて以来、お父さんとは二度と顔を合わさなくなったのよね…。


 思い出しただけでも腸が煮えくり返る。エリスはキュッと唇を噛み、深く息を吸って吐いた。


 「そう…分かった。わざわざ言いに来てくれてありがとう。」

 「エリス、僕と一緒に帰ろう。ヴェラさんも君に帰ってきて欲しいんだよ。」

 「いいえ、帰らないわ。そんな今さら…」

 「あの頃の君と今の君は違うだろう。目的を達成した今の君は自由で、誰にも縛られていない。何をそんなに怖がるんだ。」

 「怖がってなんていないわ。ただ、まともに会話をする自信が無いのよ。何事もなく親子の会話をするには傷を負い過ぎたの。」


 エリスは首を横に振り、自分の腕をギュッと握り締めた。ルーカスと離婚する時、両親にその理由を告げた時の二人の絶望に満ちた眼差しは今でも忘れられない。娘が一人で町を出る事を引き止めなかったのも、親の恥さらしがいなくなってせいせいするからだ。

 ルーカスは小さく息をつき、エリスの両肩に手を乗せて顔を覗き込んだ。


 「エリス、君の気持ちは僕が一番よく分かってる。僕も一緒に会いに行くから。」

 「でも…」

 「大丈夫だよ。あの時からもう何か月も経ってるんだ。僕とミネリアの事を言う人もまだいるけど、それでもずいぶん落ち着いた。」

 「…。」

 「今日の馬車はもうないから明日の最初の馬車で一緒に帰ろう。僕は近くの宿屋に泊まって、明日の朝君の家まで迎えに…」

 「その人から離れろ。」


 話し合う二人の間を低い声が割り込んでくる。二人が振り向いた先には鋭い眼光を放つ男が佇んでいた。


*


 ディルターは書類仕事を手早く済ませて席を立ち、別の部屋にいる部下に『少しの間外出する』と伝えて外へ出た。行き先はもちろんマット・グラーシュだ。今日のディルターには仕事よりも訓練よりも重要な課題があった。


 ----今日こそエリスさんを公園デートに誘ってみせる!


 ディルターは女を誘うどころかデートそのものをしたことが無い。マーシャンを自宅に閉じ込めた日から、どうやってデートに誘おうかと悶々と考えているうちに四日が経ってしまった。


 マーシャンから誘い方を聞いておくんだった、と何度か肩を落としたが、これ以上情けない姿を見せておちょくられるわけにはいかない。たとえ心の中でもだ。


 ----普通に言えばいいんだ。気を張らず、自然に、散歩に行くみたいに。


 練習がてらブツブツと呟きながら歩いていると、目的の店の前で話し込んでいる男女の姿を見つけて足を止めた。一人はエリス、一人は若い男だ。背中を向けているので顔は見えないが、エリスと何やら揉めている。


 「エリス、僕と一緒に帰ろう」

 「でも…」


 ----何?一緒に帰ろう、だと?


 ディルターはピクリと片眉を上げて二人をジッと見つめた。男はなにやら必死になってエリスに話しかけている。そして二人して話に夢中になっているからか、目立つ格好をしているディルターの存在に気付いていない。エリスの表情や雰囲気からして男とは親密に見える。


 ディルターは無意識に歩く速度を上げた。そしてエリスの肩に乗せている男の手が目に入った瞬間、男の後頭部を睨みつけて声を上げた。


 「その人から離れろ。」

 「え?」

 「ベルナント様!?」

 「え?」


 ----ベルナント?どこかで聞いたような…あっ!


 ルーカスは店の扉に貼られた紙を見た。店員への迷惑行為を禁止するやつだ。『騎士団団長ディルター・ベルナント』と書いてあるところに目を止めたと同時に、冷や汗を流して固まった。まさか店員であるエリスを口説いていると思われたのではないだろうか。


 「聞こえなかったのか。すぐにその手を離せ。その貼り紙が見えないのか?」


 やっぱりな、と心の中で涙を流して振り返った瞬間、涙がカラカラに干上がった。なぜなら恐ろしい形相の大男がすでに臨戦態勢でこちらを睨みつけているからだ。ルーカスは急いで両手を前に出し、勢いよく首を横に振った。


 「あの、違います!僕は…」

 「言い訳はいらん。現行犯で連行する。」

 「えぇッ!?」

 「お待ち下さい、誤解です!この人は私の元夫なんです!!」


 ディルターは男を捕らえようと伸ばした腕を止め、見開いた目でエリスを見た。ルーカスも目を見開いてエリスを見る。ディルターは腕を下ろしてチラと男を見下ろした。


 「元夫?先日話していたのはこの者の事ですか?」


 ----こ、怖い…え?敬語?


 ルーカスはピクッと耳を動かして顔を上げた。


 「はい。彼はルーカス・レイドといいます。私の元夫であり、幼馴染です。」

 「立ち入った事を聞きますが、なぜ彼がここに…その、もしかして何かあったのですか?」

 「あ…あの、実は…」


 エリスはたった今ルーカスから聞いた話をディルターに説明した。その様子を、ルーカスは口を開け目を丸くして見つめる。


 ----エリスがプライベートな事を他人に話してる!?まさか…


 ルーカスはもう一度貼り紙を見た。店員への迷惑行為の禁止、団長の名前、そして絵の中のエリスに似たエプロン姿の女。思わずゴクリと唾を飲み込む。


 「そうですか、お父上が…。分かりました。俺が今からミントンまで送ります。」

 「え!?」

 「ミントンの場所は把握しています。近くに馬を預けてありますからそれに乗って行きましょう。」

 「いけません!そんな事をして頂く為にベルナント様に話したわけではありません!」

 「俺がしたいからするんです。明日だと間に合わないかもしれない。」

 「でも…!」

 「エリス、せっか…くぅッ!?」


 ルーカスの声に反応した大男からギロッと鋭い眼光が突き刺さる。ルーカスはコホンと咳払いをしつつディルターを視界に入らないようにして、改めてエリスに声をかけた。


 「エリス、せっかく騎士様がこう言って下さっているんだ。すぐに行っておいで。」

 「…。」

 「騎士様、エリスの父親テュッセン・インベルはミントンのメルレアン男爵家の執事です。倒れた後その屋敷の一室で治療を受けているそうですので、そちらをお訪ね下さい。今は息子の…エリスの兄であるレミアンが父親の代わりを務めていると聞きました。夜遅くとも事情を説明すれば通して貰えると思います。」

 「メルレアン男爵家だな。分かった。」

 「エリス、すぐに店に戻って事情を説明してくるんだ。いつ戻れるか分からないってことも伝えるんだよ。」

 「えぇ…分かったわ。」


 エリスがディルターに視線を向ける。ディルターが小さく頷き返すと、頭を下げてから店の中へ入っていった。


 「騎士様、少しよろしいでしょうか。」

 「何だ。」

 「私と彼女の結婚について…どこまでご存知ですか?」


 ディルターは目を細めてルーカスの頭を睨みつけた。『どこまで』とはどういう意味なのか。気にはなるが、元夫から何らかの事情をほのめかすような事を言われるのは気分の良いものではない。自然と声に苛立ちが滲みだす。


 「結婚して離婚した。それだけだ。」

 「私と彼女の結婚は、偽装結婚だったんです。」

 「何?」

 「…。」

 「何だそれは?」

 「私と彼女は書類上夫婦ではありましたが、本当の意味での夫婦ではなかったんです。つまり私達は幼馴染以上の関係を持った事はありません。幼い頃に手を繋いだぐらいでしょうか。男女間の事は一切ありません。」

 「な…」

 「ベルナント様、お待たせしました!」


 ディルターがあまりの衝撃に言葉を詰まらせた時、ちょうど扉が開いてエリスが飛びだしてきた。余程急いで用意したのか、まとめてあった亜麻色の髪がほつれて首筋に流れている。ルーカスはニコリと微笑み、エリスの頭を撫でてからディルターに向き直り頭を下げた。エリスもルーカスに倣って頭を下げる。


 「エリスの事、よろしくお願い致します。」

 「よろしくお願いします。」

 「頭を上げて下さい。さぁ、急ぎましょう。」


 ディルターは深く息を吸い込み、エリスの手を取って歩きだした。

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