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 ディルターが少し不貞腐れたように言う。その表情は相変わらず険しいままだが、直前までの凄みはすっかり消えていた。


 「はい、ディルター・ベルナント様ですよね。ですが私のような身分の者が馴れ馴れしくお名前を呼ぶのは良くないと思いまして、騎士様と…」

 「構いませんから、名前で呼んで下さい。」


 被せ気味に言い、ズイッと前に身を乗り出す。エリスは見えない圧力に冷や汗を流しながらも、コクリと頷いた。


 「あ…それではべルナント様とお呼びしますね。」

 「俺も名前で呼んでも良いですか?」

 「もちろんです。エリスとお呼び下さい。」

 「分かりました。…エリスさん。」


 ディルターの表情から険しさも消え、今では穏やかな眼差しでエリスを見つめている。ディルターはふと、エリスが買い物カゴを持っている事に気が付き、気恥ずかしい空気を誤魔化す為に話題を変えた。


 「買い物ですか?」

 「はい。朝クッキーを焼こうと思ったらオートミールが少ししか無かったので買いにきたんです。」


 話題なんて変えるんじゃなかった。そう思っても今さらどうにもできず、そのまま話を続ける事にした。


 「その…クッキーはよく作るんですか?」

 「えぇ。持ち歩けるし、お腹が空いた時にちょうど良いので。」

 「あぁ、確かにそうでした。味も美味しかったですし、量も大きさもちょうど食べやすくて、また食べたくなる…」

 「え?」


 動揺のあまりうっかり出た本音にハッと我に返るも、またしてもすでに遅かった。なぜならエリスがキョトンとした顔をディルターに向けているからだ。ディルターは赤くなった顔を片手で隠し、視線をそらせた。


 「あ、いや、すみません!催促しているわけではありませ…って、こんな事を言うと余計におかしくなりますね。すみません、何も聞かなかった事にして下さい。」


 ダメだ。どうにも調子が狂ってしまう。今まで誰に対してもここまで取り乱す事など無かったのに。

 離れた場所で待機している部下の姿が目に入り、ここはさっさと立ち去ろうと決めたところでエリスの高く揺れる声が耳に届いた。


 「プッ、フフフ…」

 「あの…」

 「フフ、申し訳ありません。そんな風に言って頂けるなら差し上げた甲斐がありました。本当は心配していたものですから。」

 「心配?」

 「えぇ。ベルナント様はもっと良いものを召し上がってらっしゃるでしょうから、私が作ったものなんてお口に合わないのではと思っていたんです。でも、袋を返して下さった時に美味しかったと言って下さったでしょう?」

 「はい、本当にそう思いましたから。」


 ディルターが小さく頷く。甘いものが苦手な自分でも食べられたのだから不味いわけがない。また食べたくなるというのも本心だった。作り方を実家の厨房係に教えてほしいぐらいだ。

 エリスはニコリと微笑み、『そうだ』と言って言葉を続けた。


 「もしご迷惑でなければ、またお渡ししてもよろしいでしょうか。」

 「え!?」

 「ベルナント様が店員への迷惑行為を禁止して下さったおかげでとても働きやすくなりました。お礼にたくさん焼きますので、騎士団の皆様で召し上がって」

 「俺の分だけで大丈夫です!」

 「頂ければ…え?」


 エリスが言い終わる前に、また被せ気味にディルターの声が割って入る。ピシャリと言い切る語気の強さに思わず目を丸くしていると、ディルターは目力を強くして説得し始めた。


 「団員全員分となると大変な量になりますから。それに材料を揃えるだけでも大変でしょうし、それから手間もかかるでしょうし、だから…その…」


 最初の勢いはどこへ行ったのか、だんだん声が小さくなり言葉の尻がしぼんでいく。終いには言葉を詰まらせ、少し間を空けてからポツリと呟いた。


 「お、俺の分だけで十分です…」


 二人の間の空気が音も無く静まり返る。エリスは目をパチパチと瞬かせ、ディルターは目をそらせて顔を真っ赤にして俯いた。やはりさっさと立ち去るべきだったかもしれない。


 ほんの一瞬の沈黙が異常に長く感じる。ディルターは俯いたままチラと目の前に立つ女を見て、ギクリと肩を震わせた。エリスが控えめな笑顔で口元に手を添えている。その笑顔に釘付けになった。


 「分かりました。ではベルナント様の分だけお作りしますね。」

 「あ…はい、ありがとうございます。」

 「また!これは私からのお礼ですよ。貴方様からのお礼は必要ありません。」

 「はい…すみません。」


 ----あらら…どうしよう、謝らせちゃったわ。


 怒ったつもりはまったく無かったのに、威厳ある騎士団長が怒られた犬のようにしょんぼりしている。ふと、エリスはこちらに近付いてくる足音に気付いて視線を向けた。いつまで経っても戻って来ない団長に痺れを切らしたのか、副団長のマーシャンが迎えに来たようだ。ディルターもマーシャンの方を見ている。

 エリスはマーシャンに会釈をしてからディルターに声をかけた。


 「どこにお持ちすればよろしいですか?」

 「俺が直接取りに来ます。いつでも。」

 「では今夜はいかがですか?今日帰ったらさっそく焼きます。」

 「分りました。じゃあ今夜、店に行きますね。」


 エリスが頷く。ディルターもそれに返すように頷きマントを翻した。少し離れた所で待機していたマーシャンを連れて部下の元へ戻っていく背中はもう威厳を取り戻している。その背中をポカンと見つめて、クスリと笑った。


 ----私からのお礼だって言ってるのにわざわざ取りに来てくれるなんて。それにこっちの懐具合まで考えてくれるなんて本当に良い人ね。


 ただのお礼とはいえ、誰かの為に料理をするのは久しぶりだ。今日は贅沢にナッツやレーズンも入れてみようか。一人分だったら少しあれば十分足りるだろう。残ったら自分用に使えばいい。

 エリスは久しぶりに心が浮き立つのを感じて粉屋へ向かった。


*


 派遣された騎士団が滞在するフェルデラン館二階の奥にある団長室。ディルターは午前の業務を終え、休憩がてらゆったりとソファに身を預けて茶を啜っていた。いつもは茶の香りなど気にしたこともないが、今日の茶は格別に美味く感じる。きっと今日の茶には良い茶葉を使っているのだろう。


 ----こんな美味い茶には甘さ控えめなクッキーがピッタリだな。


 もう今から明日のティータイムが楽しみだ。ディルターは茶を飲み干し、カップをテーブルに置いてふと視線を上げた。副団長のマーシャンが書類を手に怪訝な目をこちらに向けている。


 「何だ?」

 「エリスさんと何かあったんですか?」


 ディルターはジロッと睨みつけ、ソファにもたれて溜息をついた。なぜどいつもこいつも馴れ馴れしく名前で呼ぶのか、という苛立ちを含めた溜息だ。自分はエリス本人からちゃんと許可を得てから呼んでいるというのに。


 「お前には関係無い。」

 「それが気を使った部下に言うお言葉ですか?巡察中に急に飛びだして行かれたかと思ったら、エリスさんがいらっしゃいました。彼女を見かけたから走っていかれたんでしょう?」

 「あれは彼女が襲われていると思ったからだ。その説明はしただろう。」


 マーシャンはその時の事を思い返して心の中で半目になった。周囲を警戒しながら歩いている途中、突然ディルターの背中から強烈な殺気を感じたので剣の柄に手をかけたら、ディルターは何も言わずに猛スピードで走っていってしまったのだ。その先にいるエリスとワイバーの姿を見つけた時はまた性懲りもなくエリスに付き纏っているのかと疑ったが、遠目でもすぐに誤解だと判断できた。


 「でも誤解だったのでしょう?なのにお戻りになるのが遅かったじゃないですか。私が団長の元へ行こうとする部下達を留めるのにどれ程苦労したとお思いですか?気を利かせて離れた場所に待機していたのに、そんな言い方はあんまりです。」


 マーシャンがこれ見よがしに口を尖らせる。ディルターはそれを無視して立ち上がり、机に戻って書類に手を伸ばした。しかしマーシャンは諦めない。そろそろハッキリさせなければ、業務に支障が出てからでは遅いのだ。というか、今朝の事ですでに支障は出ている。


 「で、やっぱり彼女の事がお好きなんですね?」

 「またそれか。彼女は既婚者なんだぞ。お前は俺を侮辱しているのか?俺が倫理や道徳を無視して見境なしに女を好きになるような男だとでも言いたいのか?」


 ディルターは書類を置き、低い声をマーシャンに向けた。たとえ腹心の部下とはいえ、越えてはいけない線というものがある。上司のプライベート、特に恋愛事情などその最たるものではなかろうか。しかしやはりマーシャンには引く気は無かった。


 「恋は理屈じゃありません。素敵な女性は結婚してようがしてまいが、その方が素敵な女性である事に変わりは無いのですから。」

 「…。」

 「世の中では片方もしくは両方が既婚者だと不実の愛だとか言いますが、私はそうは思いません。だって結婚した相手が最良の相手だったのは()()()()での事じゃないですか。結婚してからの方が人生は長いのです。その中で真実の愛を見つける可能性だって十分にあるんですよ。」

 「たとえそうだとしても、彼女は夫を愛しているから結婚したんだろう。ましてや子を持つ母親なんだぞ?」


 言ってて自分でダメージを受ける。ついさっきまでの浮かれた気持ちは今や沈んで足元に転がっている。

 それよりもディルターには気になる事があった。どちらかと言えば面倒事が嫌いでドライな性格をしているマーシャンが、既婚者との背徳的な愛を片手にここまで食い下がるのは珍しい。

 何か企んでいるのかと怪しんだところで、マーシャンがサッと声音を変えた。いつも通りのドライなマーシャンに戻っている。


 「まぁ、それもそうですね。」

 「それに俺は、己の気持ちを優先して子から離れるような女など絶対にごめんだ。」

 「余計な事を申し上げてしまいましたことを心から謝罪致します。ですが…貴族間の結婚は一度結んでしまったら解消するのはとても大変だと聞きます。団長は婚約者がおられるとはいえまだ独身ではないですか。ご自分のお気持ちに蓋をするのはまだ早いと思いますよ。」


 では、とマーシャンは一礼して団長室を後にした。廊下を歩きながらディルターの言葉を思い返す。真面目ゆえに心と態度が一致しない男の言動に苦笑しつつ、久しぶりに鼻歌を歌った。

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