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朝起きて身支度を整え、棚の扉を開ける。粉類の入ったカゴを下ろし、目当ての袋を手に持ってガッカリした。オートミールの粉があと少ししか無い。
----しょうがない、買いに行こう。ついでに小麦粉も少し買い足して…
エリスはカゴを元に戻して買い物カゴと財布を持ち、買い物へ出かける事にした。いつも買いに行く粉屋は家から歩いて約十五分の所にある。もっと近くにも粉屋はあるのだが、行きつけの粉屋の店主がマット・グラーシュの常連客であり、顔見知りになったおかげで少し多めに粉を分けてくれるのだ。節約する身としてはとてもありがたいサービスだ。
ルーカスから受け取ったお金は手を付けずに置いてある。病気や怪我、突然の解雇でいつ働けなくなるか分からないし、一人で生きていくと決めた以上は少しでも将来の為に蓄えたい。
『君に良い人ができたら来るのをやめるよ。』
ルーカスのその言葉に対して、そんな日は来ないと言い返した。確信はあった。元々結婚願望は無かったが、ルーカスとの結婚生活を経験してさらに結婚が嫌になったからだ。結婚は女の自由を奪い、言動を制限し、身籠ることを強要する。ルーカスの妻でいる間に受けた両親や周囲からのプレッシャーやそれらによるストレスも、浴びせられた侮辱の言葉も、目的があるから耐えられた。
目的が達成された今となっては、今後の人生でたとえどんなに素晴らしい男と出逢ったとしても二度とあんな生活は送りたくない。
久しぶりに結婚生活の事を思い返して胸の中が波立っていたからだろうか。ろくに前を見ずに歩いていたせいで曲がり角から人が出てきた事に気付かず、相手の肩に思いきりぶつかった。
「きゃあっ!!」
「おっと、すまねぇっ…ってあれ、もしかしてエリスじゃねぇか?」
「え?」
名を呼ばれ、顔を上げる。見覚えのない顔に首を傾げていると、男はまるでエリスをよく知っているかのように馴れ馴れしく話しだした。
「今日は仕事は休みか?」
----もしかしてお客さん!?
連日繁盛している小料理屋には毎日多くの客が出入りしている。余程親しくない限り顔などいちいち覚えていないが、男の口振りからして何度か会話をした事があるようだった。エリスはなるべく早く立ち去れるように言葉を短くして返した。
「仕事はこれからなんです。」
「じゃあ今は時間があるんだな?一緒に飯食いに行こうぜ。」
「いえ、買い物を済ませないといけませんから。ここで失礼します。」
逃げなきゃ―――。
考えるよりも先に身体が動く。エリスは咄嗟に一歩下がった。男の息から酒の臭いがする。酷く酔ってはいないが、素面というには無理がある程度には酔っていた。
しかし男は腕を伸ばしてエリスの腕を掴み、逃げられないように強く握り締めた。
「おいおい、そりゃあねぇだろう。俺らはもうお前らを口説けなくなったんだぜ?」
「…離して下さい。」
「へっ、離すわけねぇだろう。こうしてせっかく店の外で会えたんだからさぁ。ちょっとぐらい相手してくれよ。しょっちゅう通ってんだろ?」
「大声を出しますよ。」
「おう、いいぜ。お前みたいな女、だ~れが助けに…」
「その汚い手を離せ。」
エリスの背後から伸びた剣先が男の喉元で止まっている。どこかで見た事のある光景に固まっていると、さらにどこかで聞いた事のある声がしてゆっくりと後ろを振り向いた。
----あ!この人!
振り向いた先に立っていたのは、自警団のバッジを付けるワイバー・サーゼンだった。ワイバーはエリスを後ろに下がらせ、背中に隠して男を睨みつけている。エリスは呆気に取られてワイバーの後頭部を凝視した。
まさかワイバーがかつての騎士団長の立ち位置にいるとは。そして、まさかかつての己の立ち位置にいる男に剣を向けて睨みつけているとは。
ワイバーの低い声が目の前の男を刺す。
「何をしている。」
「なんだテメェ…そのバッジ、自警団か!?」
「そうだ。婦女子への暴行現行犯でお前を連行する。両膝を地につけ、頭を下げて両手を後ろに回せ。」
「クソッ…」
ワイバーが剣先を向けたまま仲間に合図を送る。男はあっという間に拘束され、ワイバーは剣を鞘に戻して振り向いた。
「ご婦人、お怪我は…え!?あ、え?もしかしてエリスさんですか!?」
直前の男前な声から一変して素っ頓狂な声を上げるワイバーに、エリスは思わず仰け反った。どうやら被害者がエリスである事に気付いていなかったらしい。
「え、えぇ…こんにちは。」
「あ、あの、すみません、動揺してしまって。お怪我はありませんでしたか…って、俺が言って良い言葉じゃないですよね…」
ワイバーはズゥンと肩を落として目を伏せた。以前、ワイバーも先程の男と同じように酔った勢いでエリスの腕を掴んで暴言を吐いたのだ。しかも人気の無い暗い場所に連れ込もうとまでしてしまった。
その時の暴漢と同一人物とは思えない目の前の青年に、エリスは小さく息を吐いてから言葉をかけた。
「いえ、助けて頂きありがとうございました。」
「あ…いえ、こちらこそ…」
「では私はこれで。」
「あ、あの!あの時は…本当に申し訳ありませんでした。あなたに酷い事をしてしまって…」
「もう過ぎた事ですから。それにとても反省されているようですし、もう良いですよ。」
「言い訳にしか聞こえないと思いますが…その…あの日の夜、結婚を考えていた恋人の浮気現場に遭遇した挙句に捨てられて、むしゃくしゃしてたんです。だからといってやっていい事ではありませんが、後で正気に戻った時、あなたになんて事をしてしまっ…」
ワイバーは途中で言葉を切り、口を固く結んで眉間に皺を寄せた。『だから何?』という表情で真っ直ぐ見返すエリスの冷たい眼差しに気付いたからだ。エリスからしてみれば、あの時偶然騎士団が通らなければ『むしゃくしゃしてた』という下らない理由で酷い目に遭っていたかもしれないのだ。言葉ではもう良いとは言っていても、到底許せる事では無かった。
「そろそろ行かないと。それじゃ。」
「待って下さい!本当に…」
エリスがワイバーの声に足を止めた時だった。突然目の前に大きな白い壁が現れたのだ。視界の全てが真っ白な布で覆われ、何が起こったのかと再び呆気に取られていると、その壁の上の方から凄んだ低い声が落ちてきた。
「何をしている。」
「ベルナント団長様!?」
----え?騎士様!?
本日二度目の『何をしている』に、エリスはパッと顔を上げて壁の上にある後頭部を見た。短く切り揃えられたダークブラウンの髪がある。間違いなく騎士団長のディルター・ベルナントだ。ディルターの背中越しに見えるワイバーの表情がみるみる青ざめていく。ワイバーの立ち位置がまた元に戻っている事に『忙しい人ね』と思いつつ、静かに成り行きを見守る事にした。
ディルターはワイバーを睨みつけ、柄に手をかけた。
「貴様…まだ彼女に付き纏っているのか?」
「ち、違います!誤解です!私はただ…」
「言い訳は良い。以前お前を罰した時に、二度と彼女には近付くなと命じたはずだが…まさか忘れたわけではあるまいな。」
「忘れておりません!」
「ならば、なぜまた彼女が怯えているんだ。まぁいい。話は尋問室で聞くことにする。」
「ヒッ…!」
「騎士様、お待ち下さい!」
エリスは二人の間に割り込むようにしてワイバーの前に立ち、ディルターを見上げた。道行く人々が足を止めてこちらの様子を窺っている。このままではワイバーが罪人になってしまう。目が合い、ディルターの険しい表情が少し緩んだのを見て、周囲にも聞こえるようにハッキリと声を出した。
「この方は私を助けて下さったのです。私を襲った男はすでに連行されました。」
「エリスさん…」
縋るようなワイバーの声を聞き、ディルターがさらに睨みつける。収まるどころかさらに不機嫌を増した男の様子にエリスは困惑した。単なる誤解だというのに何をそこまで怒る必要があるのか分からない。
ディルターは深呼吸をして姿勢を正し、表情は崩さないままワイバーに向けて顎をクイと動かした。『行け』という合図だ。それを見たワイバーは慌てて頭を下げて足早に去っていった。
「早とちりして申し訳無い。」
「いえ、騎士様は助けて下さっただけですから。」
「…『騎士様』?」
「はい?」
「俺は…先日あなたに名前を教えませんでしたか?」




