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 翌日の昼過ぎ。ディルターはフェルデラン館を出て、マット・グラーシュへ向かった。昨夜は結局袋を返せず、そのまま自宅に持ち帰ってしまったからだ。これ以上引き延ばすわけにもいかないし、夕方の報告会議が始まるまでには戻らなければならない。


 「あっ…」

 「あら?」


 店に着いて扉を開けると、偶然目の前に立っていたエリスと目が合い思わず仰け反った。エリスの表情がパッと笑顔に変わる。ディルターはグッと胸を詰まらせつつ、すぐに姿勢を正した。


 「まぁ、騎士様。いらっしゃいませ。」

 「あ、いや、今日は客として来たわけではないんです。その…あなたに用があって。」

 「私にですか?何でしょうか。」


 ディルターは懐から袋を取り出し、差し出した。


 「これを返しに来ました。」

 「これ、あの時のクッキーの袋ですね。わざわざありがとうございます。」

 「いえ。本当は昨夜返すつもりだったのですが、忙しいようでしたし声をかけるタイミングが分からなくて。見計らっているうちに持って帰ってしまったんです。」

 「そうでしたか。」

 「あの…クッキー、とても美味しかったです。」


 エリスがキョトンとした顔でディルターを見上げる。その様子から自分の顔が真っ赤になっていることに気が付き、ディルターは慌てて頭を下げた。


 「それでは、これで失礼します。」

 「あ、お待ち下さい!」

 「はい?」


 開いたままの扉から出ようとするディルターの背中を呼び止め、エリスはニコリと微笑んだ。よく笑う女性だな、とディルターは思う。


 父親の命令で何度か夜会や舞踏会に出席したが、いつも女から向けられるのは相手を値踏みするような上辺だけの笑顔だった。子爵家の次男であるディルターは、自力でどれだけの財産を生み出す事ができるかといった目を向けられるのが常だった。歳の近い妹がいるおかげで女の素の部分をある程度は知っているせいか、化粧で固めた笑顔の奥で光らせる眼には不快感しか得なかったのを覚えている。


 それに比べて…と思ったところでエリスの声が耳に届き、ハッと我に返った。


 「あの、お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」

 「すみません、まだ名乗っていませんでしたね。騎士団団長のディルター・ベルナントです。」

 「ベルナント様、ですね。今日はありがとうございました。」

 「こちらこそ。」


 ディルターはエリスに背を向けて歩きだした。ただ袋を返しただけで、どうしてこんなに足が重くなるのだろうか。袋が無くなった懐の隙間に微かに風が通る。


 ----あのクッキー、旦那や子供にはしょっちゅう食わせてるんだよな…


 クッキーだけでは無い。毎日手料理を食べさせているのだ。そんな当たり前の事を思い浮かべては溜息を落とす。

 ディルターは馬番に預けていた馬を引き取り、少し遠回りをしてフェルデラン館まで駆けていった。


*


 夏の日差しを和らげる涼しい風に、秋の気配を感じ始めた頃。エリスは厨房で食器を洗っていると、ホールにいる仕事仲間のサラが声をかけてきたので手を止めた。『エリスにお客さんよ』と言ってニヤニヤと笑いながら訪問者の名前を言うサラの横を、急いで通り過ぎて外に出る。そこで待っていたのは別れた元夫のルーカスだった。


 「ルーカス!どうしたのよ急に!?」

 「やぁ、エリス。久しぶりだな。元気にしてたか?」

 「元気よ。あなたも元気そうね。一人?ミネリアは一緒じゃないの?」


 ミネリアはルーカスの元恋人であり、再婚相手だ。ルーカスが首を横に振る。


 「僕一人だよ。先に君の家に行ったんだけど留守だったからこっちに来たんだ。はい、これ。」

 「うん?」


 ルーカスは懐から小さな袋を取り出し、エリスの手の中に握らせた。袋の重みと布越しに伝わる形から硬貨が入っているのが分かる。エリスはルーカスに視線を戻し、首を横に振った。


 「ルーカス、これお金よね。こんなの受け取れないわ。」

 「僕が君にできる事はこれぐらいしかないんだ。まだ働き始めて間もないし、生活も安定してないだろう?」

 「何言ってるの。住む家と仕事を紹介してくれたんだから、それで十分よ。それにもうすぐ子供が産まれるでしょう?あなたたちの方がこれからお金が要るようになるんだから、私の事よりこれからの事に残していかなきゃ。」


 ミネリアの腹にはルーカスの子が宿っている。エリスが家を出た時にはまだそれ程目立ってはいなかったが、あれから三か月以上も経てば随分目立つようになっているはずだ。きっと今頃は、重い腹を抱えながら周りの環境に慣れる為に苦労している事だろう。


 「とにかくこれは…」

 「エリス。君が僕達の為にしてくれた事を考えれば、これぐらいどうって事は無いんだ。この事はミネリアも知っているし、君をとても心配している。だから受け取ってくれなきゃ僕が彼女に怒られるんだよ。」

 「ルーカス…」


 ルーカスの大きな手がエリスと袋を優しく包み込む。真剣な眼差しで見つめるルーカスの熱意を見て、これ以上は何を言っても無駄だと察した。ルーカスがこの表情をした時は絶対に引かない事をエリスは知っている。伊達に幼い頃からの付き合いでは無いのだ。

 エリスは小さく息をつき、その熱意に笑顔を返した。


 「分かった。じゃあ、これはありがたく受け取っておくわね。」

 「うん。」

 「でも、もうこれきりにしてちょうだい。私も彼女が心配なの。あなたがこうしてここに来る間、彼女はあの家に独りぼっちなのよ?」

 「それは約束できないな。それに彼女は君が思っているよりも強いよ。あ、そうだ!君に良い人ができたら来るのをやめるよ。違う意味で迷惑かけるかもしれないしね。」

 「もう!そんな日は絶対に来ない事を知ってて言ってるわね!?」


 エリスは拳を振り上げて叩く振りをした。ルーカスがそれに合わせて防ぐ振りをする。ルーカスはクスクスと笑いながら、細めた目の奥でジッとエリスを見つめた。


 ----変わらないな。


 エリスは幼い頃から地元の男達の間では一目置かれた存在だった。エリスの実家であるインベル家は平民ながら代々貴族の執事を務める家系だ。エリスには兄と妹がいて、兄は父親の跡を継ぐ為に共に働きながら執事としての教養を学んでいる。妹は地元で有名な商家の息子の元に嫁いでいる。そしてエリス本人は明るく活発な性格と控えめな美しさを兼ね備えた不思議な魅力を持っていた。


 ルーカスという婚約者がいる手前声には出せないが、妻にしたいと願う男は多かった。そんなエリスがルーカスと結婚したのは妹よりも後だったが、式場の陰で涙を流す男が後を絶たなかったという。


 そして、ルーカスが店を訪ねた時の店員の対応が、今でも変わらずモテている事を証明していた。元夫である事を伝えずにエリスを呼んで欲しいと頼んだら、『お前もか』という目であからさまに警戒されたのだ。不思議に思い、ふと店の扉を見ると、エプロン姿の女に近付こうとする男の絵が貼られてあった。その絵全体が大きな『×』で覆われていて、絵の下には文字でこう書かれていた。


 『店員への迷惑行為は固く禁ずる。これを破った者は程度によらず厳罰に処す。騎士団団長ディルター・ベルナント』


 つまりはエリスを含め、ここで働く女達は日頃から男に声をかけられていたという事だ。なるほどそういう事かと納得する一方で気になったのは、絵の中の女がどことなくエリスに似ている事だった。


 結局ルーカスは店員に『エリスの幼馴染です』と言って、エリスを呼び出すことに成功した。しかしこれ以上長居をするわけにもいかない。エリスの言った通り、身重のミネリアを独りにはしておけない。

 ルーカスは深く息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。そして幼馴染の兄として、エリスの頭をポンと撫でた。


 「それじゃあ僕は帰るよ。」

 「えぇ、気を付けてね。…ルーカス、一つだけ言わせて。」

 「うん?」

 「女が強いように見える時は、本当は一番心が弱っている時なの。ミネリアの事、大事にしてあげてね。」

 「…あぁ、分かった。ありがとう。また来るよ。」


 ルーカスはエリスに手を振り、乗合馬車の停車所までゆっくりと歩いた。


*


 乗合馬車に乗り込み、外の景色に目を向ける。しかしその瞳には何も映らず、脳裏に浮かぶのはルーカスの妻だった頃のエリスの姿だった。


 ルーカスとエリスは親同士が決めた婚約者同士であり、二人は三年前に結婚した。しかしその実態は、互いの利の為の偽装結婚だった。


 結婚したくないエリスと、ミネリアという愛する恋人がいるルーカス。両親にミネリアとの結婚を認めてもらえなかったルーカスは、全てを捨ててミネリアと駆け落ちしようとしたところをエリスに止められ、偽装結婚の話を提案された。最初は『無理だ』と言って断ったが、エリスから何度も説得され、話を聞き、ミネリアと相談して最終的には首を縦に振った。


 ----でも、そのせいでエリスは…


 三年という結婚生活の間、エリスは誰にも知られないように周囲へ気を配り、両家の親からの『子供』という圧力をかわす事に心を砕いてきた。そして毎日朝から晩まで大店の跡取り息子の良き嫁、良き妻として振る舞い、ルーカスを陰ながら支えていた。


 『これで私の役目は終わりね。』


 離婚が成立した日、エリスは何かから解放されたかのように心から安堵の息を漏らした。それを見た瞬間、ルーカスは己の不甲斐無さを思い知らされた。


 ----あの頃は僕達の為に努力してくれたエリスに何もしてやれなかった。いや…できなかった。


 エリスがいつも気を張っていた事に気付いていた。

 疲れている事を悟られないように強がっている事に気付いていた。

 弱音を吐きそうになる自分を隠している事にも気付いていた。


 でも気付いていない振りをしていた。気付いている事を認めてしまったら、一度でも弱っている細い肩を抱き締めてしまったら、エリスを愛してしまうかもしれない。それだけは避けたかった。自分には愛するミネリアがいる。

 たとえ仮初めの夫婦といえど、寝食を共に過ごした三年という月日は互いの関係を変え、心の距離を縮めるには十分な時間だった。


 ----君は本当にあれで良かったのか…?


 馬車がゆっくりと停車所に近付いて行く。ルーカスは馬車を降り、愛する妻の待つ家に向かって歩いた。

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