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 ディルターはすでに崩壊した顔面を片手で覆い、肩を揺らしながら、ふと腑に落ちる感覚がして目を開けた。


 ルーカスとの縁談の話が出たのはエリスが十七歳の時だった。しかし十八歳になってまで子供達に混ざって遊んでいたような娘が結婚など考えられるわけがない。それも相手は幼馴染だ。きっと幼い頃は一緒に走り回っていたことだろう。


 ----でも一般的には、十七歳はもう結婚を意識してもおかしくない年齢だ。良い縁談を用意しようとする親心と、まだ中身が子供な娘心が上手く噛み合わなかった事が偽装結婚なんてものにまで発展してしまった、というところか…


 ディルターは隣で言い合う母娘を横目に溜息をついた。


 「とにかくこんな娘ですから騎士様に見染められるわけが無いと思い、ああ言ったのです。」

 「そうでしたか。しかし私はまさにその、男を相手に堂々とした態度を通すエリスさんの姿に一目惚れしたのです。それと、()()()()()()()らしい落ち着いた雰囲気にも。」


 ディルターがニヤリと笑ってエリスに視線だけを向ける。エリスが顔を真っ赤にしてその視線から逃げるように顔を背けると、ノック音のすぐ後にテュッセンが入ってきた。


 「ディルター様、申し訳ありません。すぐに屋敷に戻らなければならなくなりました。」


 ディルターは立ち上がり、それに倣ってエリスも立ち上がった。


 「分かりました。私達ももうすぐ帰るところでしたのでお気になさらず。」

 「ありがとうございます。…エリス。」

 「何?」

 「縁談の話は断っておく。」

 「お父さん…」


 テュッセンは小さく頷き、ディルターに向けて一礼してからヴェラと共に部屋を出た。


*


 ヴェラは夫を見送ってから新しい茶を淹れ直し、応接室へと戻ってきた。それを見たエリスがサッと立ち上がり、ヴェラからトレイを受け取った。


 「お話の途中でしたのに申し訳ありません。」

 「いえ、急に来たのはこちらですから。お忙しい中、申し訳ありませんでした。」

 「いえ、とんでもない!フフ、夫のあんな嬉しそうな顔は久しぶりに見ました。」

 「え!?」


 ヴェラは茶を一口飲んでから、目を丸くする娘に向き直った。


 「彼はね、あなたとルーカスを結婚させた事をとても悔やんでいたのよ。」

 「お父さんが?」

 「えぇ。あなたが自分から結婚すると言った時、彼は複雑な気持ちだったの。あなたは最後まで嫌がるだろうと思っていたし、レイドさんにも断るつもりでいたから。」


 ヴェラの言葉にエリスは眉をひそめて母親を見返した。ヴェラの言葉を疑っているからではなく、ついさっき父親が言っていた事と同じ事を言っているからだ。その真っ直ぐな眼差しには微塵も偽りの色は無く、それがさらにエリスを混乱させた。

 ヴェラは目を伏せ、声を少し落として続けた。


 「最初は仲睦まじい様子で、杞憂だったと胸を撫で下ろしていたの。でも、だんだん二人の雰囲気がおかしくなっていったでしょう?」


 二年目に差しかかった頃だと察して、エリスは目をそらせた。


 「あの頃からルーカスには良くない噂が出始めていたし、私達はとても心配していたの。でも二人揃って会いに来てくれる時はいつも通り和やかな雰囲気だったし仲良くしていたから、ただの噂なのだと信じていた。」

 「…。」

 「けれどしばらくして…ルーカスが外で女性と密かに会っているところを見たと何度も言われるようになって、私達は噂が本当だった事にショックを受けたの。あの時のテュッセンは本当に憔悴しきっていて見ていられなかった。」


 三年目に入った頃を思い出す。エリスとルーカスはあえて互いを避けるように振る舞い、ルーカスはわざと人目につく場所でミネリアと会うようにした。


 「それでも彼は、二人には以前のように仲良くなって欲しいと望んでた。せめて二人の間に子ができたら、ルーカスも他の女性に目を向けずにエリスを、家庭を大事にしてくれるんじゃないかと思ったの。」

 「だからあんなに『はやく子を作れ』と言ってきたのね。」


 ヴェラは小さく頷き、腰のエプロンを摘んでそっと目頭を押さえた。潤んだ目元と鼻の頭が赤く染まっている。ヴェラは深く息を吸い、乱れ始めた呼吸をゆっくりと整えた。


 「でもダメだった。それどころか、ルーカスは相手の女性との間に子を作ってしまったでしょう?」

 「…。」

 「それを知った時…彼も私も、怒りと悲しみで泣き崩れたのを覚えているわ。彼なんて怒りに震えた拳を何度も机に叩きつけて壊してしまったのよ。滅多に乱暴な事をしない人が…それぐらいショックだった。」

 「…。」

 「あなたがルーカスと離縁すると言いに来た日…自分は子ができない身体だと言った日から今までずっと、彼は自分を責め続けていたの。エリスにつらい思いをさせるくらいならもっと早くに縁談を断れば良かった、って。」

 「……ッ!お母さっ…」

 「でも、最初からあなた達が分かってやってた事だったのなら良かった。良くは無いけれど…少なくともエリスが傷付いたわけではなかったのなら…身体がなんとも無いのなら…本当に…それだけで私達は…うっ…うぅっ…」

 「お母さんっ…!」


 エリスは立ち上がり、ヴェラの側へ駆け寄った。膝をつき、皺だらけの小さな手を包み込んで胸元に引き寄せる。重なる手に涙が零れ落ち、微かに震える身体に胸が締め付けられる思いで呟くように口を開いた。


 「ごめんなさい。私…自分の事しか考えてなかった。自分が自由になる事ばかり考えて、自分のした事で…お父さんやお母さんを苦しめるなんて考えもしなかった…。」


 ヴェラの鼻を啜る音を頭の上で聞きながら、エリスは手を包んだまま続けた。


 「傷付けてごめんなさい。悲しませてごめんなさい。」

 「いいのよ。あなたもずっと苦しんできたんでしょう?私達はもっとちゃんと話し合わないといけなかったのよね。」


 ヴェラはエリスの手をそっと包み返し、すでに真っ赤になった目元を細めてニコリと微笑んだ。


 「お母さん…」

 「エリス、お兄ちゃん…レミアンの事だけど、彼があの子をあえて特別扱いしていたのには理由があるのよ。」

 「理由?」

 「えぇ。お兄ちゃんは……あの子は…」


 ヴェラが言葉を切り、目を伏せる。その沈痛な面持ちを見て、エリスは慰めるようにヴェラの手を優しくさすった。


 「どうしたの?お兄ちゃんがどうかしたの?」

 「あの子は、ものすごく自分に自信の無い子だったのよ。」

 「は?」

 「あの子は昔から不器用で何をしても上手くいかなくて、おまけに性格が暗くて打たれ弱くて、ちょっとした事でドン底まで落ち込むようなどうしようもない子だったの。それに比べてエリスは聡明で明るくて活発だし、ユアンナは愛嬌があって皆の人気者だったでしょう?だから妹達への劣等感がすごかったのよ。」

 「えぇ…?」

 「でもレミアンは長男で唯一の息子だから彼も特に厳しく躾けていた。でもある日、あの子の心が壊れ始めている事に気付いたの。一切笑わなくなったのよ。あの子は…厳しく躾けるのではなく、誰が見ても分かりやすい態度と言葉で『よしよし』としてやらないといけない子だったのよ。」


 エリスはさする手を止め、ポカンとした顔で母親を見た。幼い頃の兄は覚えているが、筋金入りのおっちょこちょいな母親から見ても呆れる程出来が悪かった印象は無い。頭も良かったし、運動もできた。馬のように走り回るエリスよりは少し大人しい子供だったぐらいの記憶しかない。それでもヴェラの口振りは、相当息子には手を焼いていた事を物語っていた。


 「もしかして…お父さんが私やユアンナの前でお兄ちゃんだけを可愛がってたのって…」

 「それが一番あの子の心が安定したからよ。やり方が間違っている事も、あなた達を傷付けている事も分かってた。でも他にどうしようも無かったの。」


 ヴェラはエリスの手を包む手に少しだけ力を込めて深い溜息をついた。エリスからは呆れた溜息が零れ落ちる。


 「だからって…」

 「だから彼からはあなた達へのフォローを頼まれていたんだけど…」

 「え?フォローなんてあった?」

 「…。」


 ヴェラのすでに渇いている目がスイッと横にそれていく。エリスはそれを半目で見上げ、母の視界の中に入るよう身体を横へずらした。


 「ねぇ、あった?」

 「あの…その…」

 「わ・す・れ・て・た・の・ね?」

 「ご、ごめんなさい…」

 「酷いッ!どこまでおっちょこちょいなのよ!そんな大事なとこを忘れるなんて!」

 「正直に言うと、さっきエリスが言い出すまで忘れてたの。」

 「もぉぉぉぉ!それのせいで私達がどれだけ傷付いたと思ってんのよ!

 「あら、でもユアンナはケロッとしてたわよ?むしろ『お父さんもお母さんも大変ね』って言われたんだから。」


 ヴェラの言葉にエリスの動きがピタリと止まる。父親の気性だけが似た自分とは違い、妹のユアンナは一見母親のようにのんびりしていて父親のように洞察力があった。


 ----てことは、私だけが知らずに傷付いてたって事!?


 途端に全身の力が抜けていく。それまで黙って話を聞いていたディルターはゆっくりと立ち上がり、ヴェラの膝にグニャリと身体を預けるエリスをソファに連れ戻した。

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