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窓から差し込む柔らかい光を手元に当てて、ゆっくりと指を滑らせる。針先にクルクルと糸を巻き、キュッと結んでフゥと息をついた。
----やっとできたわ。イタタタ…
ヴェラは糸を切って布をテーブルの上に置き、グッと目頭を揉んだ。四十を過ぎた頃から年々目が悪くなり、五十を目前に控えた今ではちょっとした繕い物でもすぐに目が疲れる。溜息をつきながらついでに固まった肩を揉んでいると、来客を告げるノック音が聞こえて返事をした。
「はい。」
「お母さん、エリスよ。」
「エリス!?」
ヴェラは声と同時に立ち上がり、急いで玄関へ行って扉を開けた。
「エリス…」
「ただいま。」
「帰って来きてくれたのね!じゃあもしかして…あら?」
諦めていた娘の帰省に安堵したのも束の間、そのすぐ隣に立つ大きな人影に気付いてヴェラは思わず『あっ』と声を上げた。
「まぁ、騎士様ではありませんか!」
「こんにちは、インベル夫人。突然訪問した無礼をお許し下さい。」
「いいえ、そんな構いませんわ。お久しぶりでございます。どうぞ中へお入り下さい。」
「ありがとうございます。」
ヴェラは大きく扉を開け、二人を中へ通した。娘だけでなく娘の雇用主である騎士団長が来た事に首を傾げるも、その理由はすぐに分かった。エリスを先に屋内へ入らせる為に、ディルターの手が自然とエリスの腰に回されていたからだ。そしてエリスもまた、それを自然に受け入れている。
ヴェラはそれとなく、かつ、横目でしっかりとそれを見てからすぐに視線を外して扉を閉め、素知らぬ顔でエリスの側に歩み寄った。
「エリス、私はお茶を用意するから騎士様をご案内して差し上げて。」
「分かったわ。ディルター、こちらへどうぞ。」
「あぁ、ありがとう。」
----んまぁっ!やっぱり!
キッチンへ向かう途中のソワソワしていた足が軽く跳ねる。湯を沸かして茶の用意をしている間も意識はすっかり若い二人へと向けられ、ヴェラの手元を見る視界には何も映っていなかった。
ガシャンッ
「ひゃあぁっ!あっつ…!」
「お母さん!?」
「どうしました!?」
キッチンから大きな物が落ちる音がして、ディルターは素早くヴェラの側に駆け寄り状況を確認した。座り込むヴェラのすぐ側にはヤカンが転がっている。溢れた水からは微かに湯気が立っていて、幸いにも熱湯ではなかったことに胸を撫で下ろした。
「あぁ、驚いた。」
「失礼、手を見せて下さい。湯はどこかにかかっていませんか?ヤカンは当たっていませんか?」
「はい、大丈夫です。湯はまだぬるかったので。ご心配をおかけして申し訳ありません。」
「お母さん、あとは私がするから座ってて。」
エリスは母親の手を取って立ち上がらせ、服が濡れていないか確認した。
「ごめんなさいね。年々目が悪くなってるみたいで…」
「何言ってるの。お母さんがおっちょこちょいなのは昔からでしょ?」
事実、母ヴェラは本人も自覚する程注意力が散漫になりやすい。床に物が置いてあれば必ず足を引っかけるし、外へ出かけると何か一つは持ち物を落とす。料理をすれば味付けするのを忘れるし、休憩しようと腰を下ろせば椅子が無くて尻餅をついていた。
エリスはそんな母親を見て育ち、物心がつく頃には母の行動をハラハラする目で追いかけてサポートしていた。
「ねぇ、お母さん。今日はお父さん、こっちに帰ってくるわよね?」
ポットに湯を注いで蒸らしている間にふと目を向けると、身支度を整えるヴェラが目に入った。
「えぇ。でもいつ帰ってくるかは分からないから、今からお屋敷まで行ってくるわね。あなた達が帰ってきてる事を伝えてくるわ。」
「お茶は?…ねぇ、なんでそんなにニヤニヤしてるのよ。」
「ウフフフフ、なんでもないわ。お茶は二人で飲んでちょうだい。騎士様、少しの間出て参ります。」
「お送りしますよ。」
「いえ、いつも歩いている道ですから大丈夫です。エリス、少しの間よろしくね。」
「えぇ、気を付けてね。」
ヴェラはディルターに軽く頭を下げ、静かに家から出ていった。
*
ヴェラとテュッセンが揃って家に帰ってきたのはヴェラが出てから一時間程経った頃だった。テュッセンは妻から連絡を受けてすぐに息子のレミアンに後を任せ、身支度を整えて妻と共に家へと急いだ。
「お待たせして申し訳ありません、騎士様。ようこそお越し下さいました。」
玄関から入るなり帽子を取り、完璧な所作で挨拶をする。テュッセンの後ろではヴェラが静かに頭を下げていた。ディルターも歩み寄り、それに応じる。
「いえ、突然訪問したのは私の方ですから。どうぞ頭を上げて下さい。」
テュッセンは荷物をヴェラに手渡し、ヴェラが部屋へ入っていくのを見届けてからディルターを応接室へ案内した。
「エリス、お茶の用意を。」
「はい。」
応接室の扉の前でエリスが踵を返し、キッチンへと向かう。ディルターはその様子を見て片眉を密かに上げた。
----ふむ…
「どうぞ。あちらの席におかけ下さい。」
「ありがとうございます。」
テュッセンに勧められて上座に座ると、対面に座ったテュッセンが落ち着いた声で口を開いた。
「騎士様は…」
「ディルターで結構です。」
ディルターの突然の申し出に、テュッセンは少し驚き口を噤んだ。相手に名を呼ばせるのは親しい者に許す行為だが、二人が顔を合わせるのはこれが二度目である。しかも前回会ったのは半年以上も前だ。テュッセンは小さく頷き、続けた。
「では…ディルター様は本日はどのようなご用件で?」
「もうお察しかと思いますが、今日はエリスさんとの交際を認めて頂きに来ました。」
テュッセンはすぐに言葉を返さず、深く息を吸ってからまた小さく頷いた。
「やはりそうでしたか…。しかし先日の娘の話では、ディルター様とはそういった関係では無いとのことでしたが。」
「えぇ。そう言ったその日の夜に、私から彼女に交際を申し込みました。そしてそれを受け入れてくれました。」
ディルターはテュッセンの目を真っ直ぐ見つめ、間を空けずに続けた。
「正直に言うと、インベルさんが彼女にすぐに帰ってくるようにと言ったのは、彼女に縁談があるからではないかと思い焦ったのです。」
「その通りです。ディルター様、ご無礼を承知で単刀直入にお伺い致します。娘と交際するというのは、その先も見据えての事でございますか?」
テュッセンの声に微かな緊張が走る。ディルターは訳ありの娘の親として当然問うだろうと思っていた内容に平然と言葉を返した。
「はい、いずれエリスさんを妻に迎えたいと思っています。まだ交際を始めたばかりですし彼女に求婚するのはこれからですが。」
ディルターはテュッセンの表情がさらに曇るのを見てその理由を察したが、そのまま続けた。
「私達は雇用主と家政婦としてずっと一緒に暮らしてきました。もちろんその間、私達の間に他人に秘さねばならない事は何もありません。ですが…」
「お待ち下さい。その先は私の話を聞いてからにして頂けませんでしょうか。」
テュッセンの小さな声がディルターの声を遮った。まだ続くであろう娘への想いを聞く前に、娘について伝えなければならない事実がある。テュッセンは眉間に皺を寄せて目を伏せ、ディルターの返事を待った。
「なんでしょう。」
「その…娘は…」
コンコン
小さなノック音にハッと目を開き、顔を上げる。無意識に強張らせていた目をゆっくり閉じて深く息を吸い、落ち着いた声を扉に向けた。
「入りなさい。」
テュッセンの返事に合わせて入ってきたのは、焼き菓子をのせたトレイを持ったヴェラだ。その後ろからエリスが茶をのせたトレイを持って続く。
「お待たせしてしまい申し訳ありません。」
「お母さん、足元に気をつけてね。」
「えぇ。あら?」
テュッセンは立ち上がり、ヴェラに歩み寄って両手を差し出した。
「ヴェラ、トレイをかしなさい。私が運ぶ。」
「今日は焼き菓子だけだから大丈夫よ。」
「いいから、お前は先に座っていなさい。」
「あらあら、お客様の前でまで心配性ね。」
テュッセンの有無を言わさない物言いに昔の記憶が呼び起こされ、エリスは溜息混じりに父親を見た。歳を重ねて少しは変わったかと思ったが、人の本質というものは一生変わらないものらしい。
「お父さんたら、そんなにキツく言わなくてもいいじゃないのよ。」
「ディルター様の前で粗相をしてはいけないだろう。」
「『ディルター様』?え、いつの間に?」
エリスがトレイを持ったままキョロキョロと二人を見ている。先程までの重い空気から一変した賑やかな空気に、ディルターはフと笑みを浮かべて声をかけた。
「皆さん、とりあえず座って話しましょう。」




