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「ずっと…?」
エリスの震えた声の呟きにハッと我に返る。恋人を作るという言葉に焦り、つい勢いで想いを告げてしまった。
----終わった…
家政婦として雇ったのは最初から囲うつもりだったのかと軽蔑されたかもしれない。まったくの誤解ではないだけに、追及されれば言い訳をすることもできない。緊張でかいた汗は冷や汗に変わり、高鳴っていた鼓動は絶望へのカウントダウンに切り変わった。
「ずっとって…いつからですか?」
「あ…それはその…うん?」
ディルターは咄嗟にエリスの手から自分の手を離そうとして息を止めた。離そうとした手が離れない。軽く引けば簡単に離れる程度の力で握り返された細い指に身体の全ての自由を奪われ、心臓だけがドクリと音を立てた。
「エリスさん…?」
「あっ!?あ、やだ、す、すみません!」
「…。」
今度は離れようとしたエリスの手を男の手が握り返す。重なった手から伝わる熱が腕を通り、全身を巡って固まった唇をじんわりと解した。
「正確にはいつからか分からない。初めて君と会った時に、助けてくれた礼だと言って渡されたクッキーがとても美味しくて、また食べたいと思ったのがきっかけだった気がする。」
「本当に最初ですね。」
「そうだな。その時はまだ好きとか嫌いとかそんな感情は無かったんだ。でも君に袋を返そうとした時に、君が口説いてきた客に『子供が待っている』と言っているのを聞いて…すごくショックを受けた。」
「それって…」
そういえば、とエリスはその時の事を思い出した。仕事中、いつものように客の誘いを断っている視界の端に、こちらに向かって歩いてくるディルターの姿が映っていたのだ。その時はディルターはただ席を立っているだけだと特に気にも留めていなかった。もちろん、自分に用があるなどとは微塵も思っていなかった。
「あの時はなぜショックを受けたのか分からなかった。そして袋を持ったまま席に戻ってしまった。結局その日はそのまま持って帰ってしまって、翌日の昼に改めて返しに行った。覚えてるか?」
「えぇ、覚えています。その時に初めてお名前を教えて頂きましたから。」
「君が既婚者だと知って、気持ちを落ち着かせてからじゃないと無理だった。だから…その…こんな事を言うと嫌な男と思われるかもしれないが、君が離婚していると知った時は心底嬉しかった。」
「まぁ…」
「この際だから全て白状するが、君とルーカスが実は偽装結婚だった事も、君がこれまで男を避けていたと知った時も嬉しかった。恋人がいなかった事も。」
「…。」
「でも君がどんなに男を避けていても、君はとても魅力的で男の方が放っておかないから心配だった。不安だった。万が一にも君の心を射止める男が現れたらと気が気じゃなかったんだ。それで、家政婦として君を雇うことを思いついた。俺の目の届くところにいてほしくて…。」
落としていた視線を上げてエリスを見る。俯くエリスの表情が険しくも笑顔にもなっていない事に焦りを覚えたが、もう後戻りはできない。怒っているだろうか。幻滅しただろうか。しかしたとえ親切心の裏に隠した醜い独占欲に嫌悪感を抱かれたとしても、本音を伝えるには他に方法がなかった。
ディルターはエリスの手を離し、膝をついたまま姿勢を正して深く息を吸った。
「エリスさん、俺の恋人になってくれないか?」
「あの…でも…」
「もちろん今すぐ返事をくれとは言わないが、そうだな…三日。三日だけ待つ。きちんと考えてほしいが、ダラダラと引き延ばすのも互いの為に良くない。」
「三日…」
「せっかちなのは分かってるし、申し訳無いとも思ってるんだ。君の気持ち次第では…ここで働き続けるのが難しいという事だったら、最初の約束通り新しい勤め先を紹介…」
「…りません。」
「え?何か言ったか?」
微かに耳に触れる声がまた震えている。ディルターは泣き声のような弱々しい声にギクッと身体を硬くして俯くエリスの顔を覗き込んだ。
「あの…す、すまない、泣かせるつもりは…」
「三日という期限も、新しい勤め先も、必要ありません。」
「え?それはどうい…っ!」
思わず言葉が詰まり、頭の中が真っ白になった。スッと上げたエリスの顔は真っ赤に染まり、いつも穏やかに微笑んでいる瞳は今にも泣きそうに潤んでいる。しかしその瞳は真っ直ぐディルターへと向けられていて、声の震えと一緒に揺れていた。
「わ、わた、私も、貴方様をお慕いしていました。こ、これが、恋なのか尊敬なのかどうかは… 経験が無いので分かりません。でも、貴方様の優しさを勘違いしてはいけない、と、ずっと自分に言い聞かせて…あああの、その、ですから…」
「エリス。」
「は、はい!?」
ディルターは立ち上がり、そしてエリスの手をそっと握って立ち上がらせた。
「俺の恋人になってくれるのか?」
「はい、あの…でも私なんかがご主人様の恋人だなんて…身分も住んでいる世界も何もかも違うのに…」
「ディルターだ。今度こそちゃんと名を呼んでくれ。今から恋人同士なんだろう?それから『私なんか』と言うな。身分も関係無い。俺は目の前にいる君を好きになったんだから。」
「ディルター…あっ」
手を引き寄せ、細い身体をギュッと抱きしめる。結んだ長い髪に頬を擦り寄せた瞬間、無意識に安堵の息が漏れた。
「エリス…はぁ、良かった。緊張した。」
「え?緊張したんですか?」
「するさ。こんな事初めてで、どうしたら君に振り向いてもらえるのかずっと悩んでたんだから。」
「え!?」
瞳の潤みがスーッと消え去っていく。エリスはまるで予想だにしないディルターの言葉に、声をひっくり返して目を丸くした。
「なんだその反応は。俺が緊張するのはそんなにおかしいか?」
「だって恋人役の練習をしていた時、とても自然にハグしたり甘い言葉を囁いたりしてらしたじゃないですか。」
「ちょっ、今それを持ち出すのか!?あ、あれは、その…」
「もしかしてここぞとばかりにスキンシップを…もがっ」
ディルターは反射的にエリスの口を押さえ、もう片方の手でエリスの後頭部を押さえた。その時は男として意識してもらう為にしていた事だったが、いざ思い返してみれば恥ずかしい事ばかりしていたという自覚がある。己の口から出た歯の浮くような言葉の数々には何度も顔が真っ赤になった記憶がある分、面と向かって話題に出されるのは耐えられなかった。
「勘弁してくれ…」
「…。」
ディルターは顔をそむけたまま目だけをエリスに向けるが、エリスからの無言の圧力にあっさり負けてサッと視線をそらした。
「お、俺は君が思ってるような優しい男じゃないんだ。」
「…。」
喋れなくても目が『正直に言え』と言っている。ディルターは観念したように俯いて顔を隠し、ボソボソと呟いた。
「うっ…、だから、恋人役なんてものは単なる口実だ。恋人同士の練習と言えば君に堂々と触れられるから。」
モゴモゴ
「わ、分かってる!卑怯な真似をしたっていう自覚はあるんだ!でも一度ハグしてしまうともう後戻り出来なくなってしまって、もう少し、もうちょっとだけと思ってるうちにだんだんと、その…」
モゴモゴ!モゴ…モゴ…モ…
「レリアンナとの婚約が解消された時も安堵した反面、君との恋人関係も終わってしまうのかと落ち込んだ。本当はすぐに想いを伝えるつもりだったんだが、いざその時になると上手く言えなくなった。本当に情け…うん?どうした?」
静かになった手元をふと見れば、エリスが顔を真っ赤にしてプルプルと震えてる。エリスはディルターの手の力が緩んだ隙に思いきり下に引っぱり、胸いっぱいに息を吸い込んだ。弾け飛びそうな羞恥心のせいで、いつの間にか鼻まで押さえていたようだ。
「プハッ!苦しい!!ケホッ、ケホッ!」
「うわっ!すまん大丈夫か…エリス?」
ディルターがスーハーと呼吸を繰り返すエリスの背中をさすっていると、上下に揺れていた小さな肩は次第に小刻みに震え出し、堪えるような笑い声がエリスの口元から漏れ聞こえてきた。
「フフフ…そこまで自覚して反省なさっているのなら、私からは何も言うことはありません。」
「あ、いや、それはまぁ…」
エリスは身体を起こしてディルターに向き直り、男の顔をじっと見上げた。いつもの余裕のある男の表情は見る影も無く、お仕置きを言い渡される直前の少年のようなしょんぼり顔がエリスを見下ろしている。
エリスは顔がニヤけるのを必死で堪えつつ、男の手をそっと握った。
「先程も申し上げましたが」
「敬語はやめてくれ。」
落ち込んでいても要望はきっちり伝える。その脆いのか逞しいのか分からない精神力への苦笑も堪えつつ、エリスは静かに頷いて言葉を続けた。
「さっきも言ったけど、私は今まで恋をしたことがないの。でもディルターからの優しい言葉や行動にはいつもドキドキしてた。そしてその度に胸が高鳴らないように気を付けてた。あなたの優しさを勘違いしちゃいけないって。」
「…。」
「だから、これからはこの気持ちが本当に恋なのかどうかを確かめたい。順番が逆になってしまうけれど、もしそれでも良かったら私を恋人にしてくれますか?」
エリスにはこれが精一杯だった。冷静になって想いを伝えたつもりでも、もうすでに心臓が胸を突き破りそうな程バクバクと音を立てている。こちらを見つめる濃碧の瞳を見返すだけで顔から火が吹きそうになっている頬に、ディルターの大きな手がそっと触れた。
「君がそうしたいならそれで良い。何でも良い。俺は君が側にいてくれるだけで良いんだ。」
「ディルター…」
「それに俺も今まで抑えていた分、思いきり君に恋をしたい。そうだ、これから二人で一緒に恋をしていかないか?」
「一緒に?」
「そう。初めて同士、一緒に…」
「あ…」
エリスの頬に触れていた手が顎の下へと滑り、それをクイと軽く持ち上げる。ゆっくりと近付いてくる男の顔を息を呑んで見つめていると、目の前まできた瞳はフイと横にそれて耳元に低い声が触れた。熱を帯びた吐息が耳にかかり、細い肩がフルッと震える。
「君と交わした契約書の内容だが…」
「え?」
「一部変えさせてくれ。これ以上君に触れられないのは耐えられそうにない。」
「え!?あ、あの、それって…」
「いいか?」
許可を得るようで、拒否する事を許さない声音がエリスを甘く痺れさせる。
エリスは目を閉じて小さく頷き、唇に触れる柔らかくて優しい感触に心を委ねた。




