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 メルレアン男爵家の屋敷を出て、夕暮れの町を自宅まで歩く。いつもならもう少し遅くまで仕事をしてから帰るのだが、昼間に屋敷を訪れた妻からの言伝を聞いて急いで家路に着くことになった。

 扉を開けて中に入ると、玄関が見える場所で待っていたヴェラが足早に近付いてきた。


 「おかえりなさい、あなた!」

 「あぁ、ただいま。ヴェラ、そんなに慌てて歩いたら危ないだろう。また転んだらどうするんだ。もっとゆっくり歩きなさい。」

 「ごめんなさい、私のせいであの子が…」

 「いいからまずは落ち着きなさい。さぁ、座ろう。」

 「えぇ…」


 テュッセンは荷物を置き、帽子と上着を脱いだ。ヴェラの手を引いてソファへ連れていき、ゆっくりと座らせてから隣のソファに腰を下ろした。


 「それで、何があったんだ?なぜエリスは帰ってしまったんだ。」

 「私があの子に余計なことを聞いてしまったの。雇い主の騎士様と恋人関係にあるのか、特定の相手はいないのかって。」

 「それで?」

 「自分はただの家政婦で、特定の相手もいないって言ってたわ。でもそれで気付いてしまって、怒って帰っちゃったのよ。」

 「気付いたというのは縁談のことか?」

 「えぇ。私はお相手について何も言ってないの。なのにあの子ったらものすごい剣幕で帰ってしまって。」

 「なぜそれで怒るんだ?」


 テュッセンは眉をひそめた。もしヴェラが不用意に縁談の相手について話していれば、聞きようによっては怒るかもしれないがそうでは無かった。何も話していないのならば怒る理由が分からない。

 ヴェラは目を伏せ、胸につかえていたものを放つように深く息を吸ってゆっくりと吐いた。


 「それが分からないの。ねぇ、あなた。あの子、ルーカスとの結婚は私達に無理矢理させられたと思っているようなの。やっと別れたのにたった一年で再婚なんて、って言ってたわ。」

 「無理矢理?」


 テュッセンの眉間の皺がグッと深くなる。


 「確かに話が出たばかりの頃は嫌がっていたが、結局あの結婚にはエリスも前向きになっていたじゃないか。」

 「私もそう思ってたから驚いてしまって…。たった三年で…あんな事になってしまったから結婚が嫌だと言うのならまだ理解ができるのだけれど…そもそも結婚したくなかっただなんて…。じゃあ…どうして…うっ」


 ヴェラは放ちきれなかった胸のつかえに顔を顰め、涙を零した。テュッセンは溜息をつき、ヴェラの背中をそっとさすった。


 「分かった。近いうちに私がエリスと話をしてくる。きっと何か誤解があるはずだ。」

 「えぇ…お願いします…」

 「だからもう泣くな。君のせいじゃない。お茶を用意するから、それを飲んで落ち着きなさい。」

 「グスッ…ありがとう、あなた…」


 テュッセンは小さく頷いて立ち上がり、キッチンへ向かった。


*


 ディルターはパンを口に入れながら、目線だけをチラと前に向けた。一人で過ごすはずだった夕食のテーブルにエリスがいる。しかしエリスは一向に食事に手をつけようとはせず、一点をジッと見つめている。ディルターはとうとう溜息をついてパンを皿に置き、エールで口の中のものを流し込んだ。


 「食べないのか?」

 「あ、いえ、いただきます。」

 「食べながらでいいから、話してくれ。」

 「あ…はい。実は、実家に呼ばれたのは私に縁談の」

 「ゴッフ!!」

 「え!?」


 エリスはすぐに立ち上がり、急いで手元に置いてある布をディルターに差し出した。幸い飲み込んだ後にむせたので外には出ていない。ディルターはサッと口元を拭き、ジンジンと痺れる喉を軽く鳴らして息を整えた。


 「縁談と言ったか?」

 「はい。でも、そうだとハッキリ言われたわけではないんです。」

 「じゃあ、なぜそう言い切れるんだ?」

 「急に母が私に特定の相手はいないのかと聞いてきたんです。それで『いない』と答えたら『良かった』と言って喜んだんです。それで、もしかしたら縁談かと思って問い詰めたら『いいお話なのよ』と言うので、それで…」

 「帰ってきたんだな。」


 エリスがコクリと頷く。その様子を、ディルターは複雑な思いで見つめていた。

 ほぼ確定しているとはいえ、まだ縁談だと決まったわけではない。しかしもし本当に縁談だとしたらハッキリと突っぱねるエリスの態度は嬉しいと思う一方で、自分も同じように突っぱねられるかもしれないという不安に襲われた。


 ----まだ待たないといけないのか?


 「はぁ…」


 思わず溜息が零れ落ちる。今朝、マーシャンにはエリスとの距離を地道に縮めていくと話していたが、このままでは縮まるどころか少しでも出方を間違えた瞬間、二人の間に巨大な岩が落下する恐れがある。ここまできて失敗したくはないが、かと言っていつまでもこの関係でいるつもりもない。

 ディルターはエールをカップに注ぎながら静かに口を開いた。


 「お父上とは会ったのか?」

 「いえ、実家に帰ってすぐの出来事でしたので、父と会う前に帰ってきました。会ったらきっと言い合いになってしまいますので…」

 「じゃあ、ほとんど話を聞く事なく帰ってきたのか?」

 「はい…ついカッとなってしまって、気が付いたら家を飛び出していましたから。」

 「それならもう一度帰って、きちんと話し合った方がいい。縁談じゃなかったらどうするんだ。」

 「いいんです。あの雰囲気は確実に縁談でしたから。それに相手が誰であれ断ることに変わりはありませんから、詳しく聞く必要もありません。」


 溜息混じりにピシャリと言い切り、ちぎったパンを口へ放り込む。ディルターはまるで聞く耳を持たないエリスの態度に眉をひそめて食事の手を止めた。


 ----なぜ決めつける?なぜ話もせずに自分の中だけで完結してしまうんだ。


 それ程溜まっていない腹の中に不快な重みがのしかかる。まるで自分の好意を一蹴されたような錯覚に陥る。まだ始まってすらいないというのに。

 ディルターは込み上げる苛立ちを抑える為に注いだばかりのエールをグイと一気に流し込み、重い口を開いた。


 「もし縁談だったとして、相手が真剣に申し込んだものだったらどうするんだ?」

 「え?」


 エリスはスプーンを持つ手を止めてディルターに目を向けた。これまでディルターの真剣な眼差しは何度も見てきたが、今のような怒りを含ませたものは向けられた事が無い。エリスはスプーンを置き、手を膝に置いた。


 「君を心から愛する男が意を決して君に求婚しても、そうやって話も聞かずにはねつけるのか?」

 「それは…」

 「結婚するかどうかは君の人生だから君の自由にすればいい。でもだからといって、相手や周囲の人に対して礼節を欠く行動をとってもいい理由にはならないだろう?」


 それに、と続けようとして言葉を呑み込む。出かかったものを喉の奥で押し留め、流し込むように深く息を吸った。


 ----俺だったらこんな断られ方耐えられ…


 「そう…」

 「うん?」

 「そうですね、ご主人様の仰る通りだと思います。自分の事ばかりで相手の気持ちを何も考えていませんでした。」

 「ん…まぁ、とりあえず落ち着いて話を」

 「もしかしたら、とても良い人かもしれませんもんね。」

 「して…え?」


 ディルターは『?』と顔を上げてエリスを見た。直前まで落ち込んでいた表情は苦笑を浮かべ、膝にあった手はスプーンを持ってせっせとスープを口に運んでいる。ディルターが己の耳を疑いながらポカンとして固まっていると、エリスはサッと口元を拭いてニコリと微笑んだ。


 「実は前に少し思っていた事があるんです。結婚は考えられませんが、恋人を作るぐらいならいいんじゃないかって。」

 「は!?なんだと!?」


 ディルターの額にピシッとヒビが入る。


 話が違う。思っていた流れとも違う。

 もう一度帰って話し合うように助言したのは、相手の男そのものとは絶対に関わらないだろうと確信していたからだ。


 エリスはディルターの背後がゴゴゴと渦巻いている事など気付く事もなく、感謝の気持ちを込めて言った。


 「ありがとうございます。ご主人様が背中を押して下さったおかげで前向きに考える事ができました。やっぱりちゃんと話を聞いてきますので、明日もう一度実家に行ってきてもよろしいでしょうか。」

 「ダメだ。」

 「ありが…はい?ダメ?」

 「そういうつもりで帰るのなら話は別だ。恋人を作る()()()だと?君にとって恋人という存在はそんなに軽いものなのか!?」


 ディルターは眉間に皺を寄せてしばらくエリスを見つめ、立ち上がった。テーブルを回り、エリスのすぐ側で足を止める。その様子をずっと見ていたエリスの驚いた顔を見下ろしながら、ポツリと呟いた。


 「どうなんだ?」

 「あの…どうなさったのですか?私何かお気に障る事を…」

 「言った。」


 ディルターは床に片膝をつき、エリスの手を取ってそっと握り締めた。頭上からエリスの息を呑む音が聞こえてくる。ディルターは手の中にある小さな手を見つめ、溜息を落とした。


 「君の恋人になりたいと思っている俺の前でそんな事を言われたら、俺は…」

 「え?」


 エリスの気の抜けた声を最後に沈黙が落ちる。

 ディルターがゆっくりと顔を上げる。

 熱い眼差しでエリスの紅潮する頬と潤んだ瞳を捕らえ、慎重に、そして静かに口を開いた。


 「君が好きだ。初めて会った時からずっと。」

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