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早朝の眩しい光と空高く飛ぶ鳥に目を細め、涼しい風に髪を靡かせる。
騎士団副団長マーシャンは、まだ出勤する者の少ない時間帯の敷地内を一人ゆっくりと歩くのが好きだ。長年、王宮から派遣された騎士団を迎えてきたフェルデラン館の庭は、むさ苦しい男共さえ視界に入らなければ恋人と一緒に散策を楽しめる程美しく整えられている。とはいえ本分は軍事施設なので、庭以外は実用第一の優雅さとは無縁な造りをしているが。
副団長室に荷物を置き、資料と鍵を持って団長室へ向かう。鍵を開けようと鍵穴にさしてみるが、すでに開いている事に気が付き扉をノックした。低い声の返事を待ち、取手に手をかける。
「おはようございます。」
「おはよう。」
「今日はお早いですね。もうエリスさんは出発したんですか?」
「あぁ…。」
----元気無いなぁ。分っかりやすぅ〜。
とは思っても、デキる部下は顔には出さない。マーシャンは素知らぬ顔で本棚へ足を向け、持ってきた資料を片付けた。ディルターのこの様子では、何か気になる事があるに違いない。こういう時のディルターは必ず自分に相談する事をマーシャンは知っている。案の定、ディルターの低い声がマーシャンに向けられた。
「なぁ、マーシャン。」
「はい、何でしょう?」
「父親から急に呼ばれる理由って、何だと思う?」
「急だったんですか?」
「あぁ。父親の使いの者がうちに来て、五日以内に帰ってこいと言って帰ったんだ。事情は知らない、と。」
「ははぁー、それは怪しいですねぇ。まさか縁談とかだったりして〜。」
「はぁッ!?」
ちょっとした早朝ジョークのつもりだったが、マーシャンの方が驚くぐらいの大声に軽く足が浮いた。
「冗談ですよ。」
「冗談でもやめろ。」
「でも無くはないですよね。離婚してからずいぶん経つでしょうし、親としては良い縁があれば逃したくないでしょうし。」
「…やめろと言っただろう。」
「申し訳ありません。まぁ…真剣に答えますと、親が急ぐとしたら大抵は身内の冠婚葬祭、怪我・病気、遺産相続についてとかではないですか?」
「やっぱりその辺だよなぁ。」
ディルターは納得できる答えに頷き、フゥと息をついた。本当はマーシャンと同じ事を考えていたが、できればその可能性だけはゼロであってほしい。やはりエリスから直接話を聞くまでは安心できないもどかしさが、ディルターの眉間の皺に深く表れていた。
「ところで、団長もそろそろ気持ちを伝えるおつもりなんですよね?」
「まぁ…な。」
妙な間が空く。マーシャンはキョトンとした顔で上司を見下ろした。
「婚約を解消したらすぐにでも、と仰ってませんでした?恋人役の時、良い感じだったんですよね?」
「そうなんだが、あれは疑似恋愛だったから彼女も積極的だったんじゃないかと思うようになってな。これが実際に身に降りかかるとなると、途端に逃げてしまいそうで…」
「あー、それはあり得ますね。詐欺師は最初から嘘だと分かってるからペラペラと口説き文句が出せるんですから。」
「詐欺師と一緒にするな。まぁとにかく、俺は諦めるつもりは無いから地道に距離を詰めていくさ。」
ディルターは立ち上がり、グッと腰を伸ばして腕を回した。こういうモヤモヤしている時は剣を思い切り振り回すに限る。
「まだ会議まで時間があるな。ちょっと身体を動かすか。」
「はい、行ってらっしゃいませ。」
「何言ってる、お前も来い。最近鈍ってるだろ。」
「えぇぇッ!?絶対に嫌です!!不機嫌な時の団長の稽古はめちゃくちゃ乱ぼ…あぁあぁぁー!!」
ディルターの太い腕が問答無用でズルズルとマーシャンを引きずっていく。
この後、マーシャンはトレンタに赴任して初めて座ったまま会議を取り仕切った。
*
フェルデラン館に定刻を知らせる鐘が鳴り響き、ディルターは手早く荷物をまとめてすぐに団長室を飛び出した。階段を駆け降り、家までの距離を走る。ディルターがこんなに急いでいるのには理由があった。
定刻になる少し前。
ディルターは書類確認の切りの良いところで手を止め、軽く伸びをしながら夕食をどうするかと考えていた。長らくエリスの手料理ばかり食べていたので、食べたいものが思いつかない。というより、食べたいものは何かと聞かれれば『エリスの手料理』と即答するぐらいすっかり胃袋を掴まれてしまっていた。
しばらく考えてみたが結局何も思い浮かばず天井を見つめていると、ノックをする音がしたので返事をした。すると数日はここにいないはずの、エリスの護衛に付けていた部下が入ってきた。
「失礼します。ただいま戻りました。」
「なぜお前がここにいる。エリスさんはどうした?」
「エリス・インベルさんは団長のご自宅まで無事に送りました。」
「帰ってきているのか!?」
「はい。私も今日はミントンの宿に泊まるものだと思っていたのですが、ミントンに着いてそれ程時間が経っていないのにエリスさんが宿屋まで来て『帰ります』と仰ったんです。」
「何があったんだ?」
「さぁ…ただ、ものすごく怒っているような、悲しんでいるような、落ち込んでいるような、始終何とも言えない表情でおられました。」
「…分かった。ご苦労だったな。下がって良い。」
「はっ。」
こんな事があり、定刻になってすぐに帰路についたのだ。
家の窓から漏れてくる灯りが見えて足を止める。急いで帰ってきたは良いものの、どう言葉をかければいいかまでは考えていなかった。確実に何かあったに違いないというのに。
----取り繕う方がおかしいか。急に予定が変わったのは俺の都合じゃ無いし、自然に『どうした?』って聞けばいいんだ。
鍵を取り出し、鍵穴にさす。よし、と一呼吸置いてからカチッと回し、扉を開けた。
「おかえりなさいませ。」
「…。」
いつも通りの笑顔を向けながら足早に歩み寄るエリスに言葉が詰まる。ディルターは小さく息をつき、扉を閉めてエリスに向き直った。
「ただいま。何があった?」
「何もありませんよ。マントをお預かりします。」
「先に質問に答えてくれ。実家で何かあったんだろう?」
「本当に何も…」
「エリス」
エリスは肩をピクッと震わせ、ディルターと目を合わせた。恋人役を終えて以来、呼び捨てにされたのはこれが初めてだ。少し前までは毎日聞いていたのに、今は妙な恥ずかしさが込み上げてくる。エリスは顔に熱が集まるのを感じてサッと目を伏せ、返事をした。
「はい。」
「俺は君にとってただの雇用主で、君のプライベートな事に口を出す立場じゃない事は分かっている。それを分かった上で聞いているんだ。」
「…。」
「何があった?すぐに帰ってきたのは、実家にいたくない理由があるからなんだろう?」
ディルターの穏やかな眼差しと声がエリスの胸にスッと溶け込んでいく。エリスは自然に、そして無意識に甘えるようにコクリと頷いてから、『しまった』と口元を押さえたが遅かった。
「話してくれ。君の力になりたい。」
「あの…でも先にお着替えになって下さい。すぐにお食事の用意をしますから。」
「分かった。食事をしながら話そう。いいな?」
「はい。」
ディルターはエリスにマントを手渡し、自室へ着替えに行った。




