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ローゼント家へ向かう馬車の中で、エリスは窓の外をぼんやりと見ながら小さく溜息をついた。
----やっぱり住む世界が違うな。
エリスは幼い頃から父親に連れられて何度かメルレアン男爵家の屋敷に行った事があった。屋敷は子供の目から見ても豪華で、誰に教えられるわけでもなく庶民には縁の無いものなのだと理解していた。その経験があったおかげでディルターの実家へ行く事自体には気後れする事は無かったのだが、いざ屋敷に着いてみるとベルナント子爵邸の桁違いな大きさに思わず膝が震えてしまった。
----恥ずかしいぐらい場違いだったわ…
その場しのぎの恋人役だと先に伝えてもらっていたから良かったものの、もしディルターから家族にも本物の恋人らしく振る舞えと言われていれば足が震えて真っ直ぐ立つこともできなかっただろう。
それに、ともう一つ溜息をつく。
今まで一緒に過ごしている中でのディルターしか知らないので気にした事は無かったが、家族と談笑しながら茶を飲むディルターの雰囲気はとても優雅で品があり、貴族令息そのものだった。もちろんエリスは普段の生活で見せるディルターも彼本来の姿なのだと理解している。しかしたったそれだけの事でエリスがどんなに背伸びをしても届かない世界の人なのだという事を改めて突きつけられた気がして、なぜか上手く茶が飲み込めなかった。
----とにかく今はしっかり気を引き締めないと。それに恋人役ができるのもこれで最…
「コホッ、んっ」
エリスは咄嗟に軽い咳払いをして、最後に浮かんだ言葉を呑み込んだ。たとえこの一件が終わっても、ディルターがトレンタに赴任している間は家政婦として働き続けるのだ。昼夜を共にする雇用主と使用人の間に特別な感情など必要ない。生まれてはならない。
----恋人か…。これが終わって元通りの生活に戻って落ち着いたら、思いきって誰かと付き合ってみようかな。
頻繁に出かける事はできないが、たまに会うぐらいならできるかもしれない。買い物ついでにデートをするのもいいだろう。弁当を作って外で食べて、季節を感じながら散歩して。ディルターなら、恋愛や結婚に後ろ向きな背中をあの優しい笑顔と大きな手でそっと押してくれるはずだ。
----あれ?なんか…また胸がつかえる。なんでかしら。
無意識に手を胸にあてる。今度は咳払いぐらいでは収まりそうにない胸の痛みに眉根を寄せていると、穏やかな低い声が耳に触れた。
「エリスさん、緊張してるのか?」
「はいっ!?あ…はい、そうですね、今さらですが本当に私で良かったのかなと思ってます。」
「そんなに固く考える必要は無い。何か聞かれても俺が答えるようにするから。」
「はい…」
「もし君にしか答えられないような事を聞かれたら、君が何を答えても俺がそれに合わせるようにするから心配はいらない。」
「ありがとうございます。おかげで気持ちが楽になりました。」
本当は全然楽になってないが、そんな事を言うわけにもいかない。気持ちが沈んでいるのは別の理由だからだ。エリスは呑み込んだ言葉が喉から外に出る前にニコリと微笑んだ。
「それと、これだけは言っておきたい。きっかけは俺への謝罪代わりだったが、俺は君だから頼んだんだ。レリアンナに勘違いされたのが君じゃなかったら俺一人で彼女の元へ行っていた。」
「あ…」
深い濃碧の瞳が熱を帯びて見つめてくる。エリスが返事に戸惑っていると、ディルターはさらに言葉を重ねてきた。
「君は?もし同じ状況でこれを頼んだのが俺じゃなかったら引き受けていたか?」
これがもしディルではなかったら引き受けてなどいない。エリスはキュッと唇を噛み、コクリと頷いた。
「はい。これは謝罪の一環ですから、言われれば引き受けていました。」
「…。そうか。」
「でも…」
「うん?」
「ご主人様でなければ練習まではしませんでした。思い返しても本当に恥ずかしい事ばかりしてましたから。そんな姿はご主人様にしか見せられません。」
「エリスさん、それは…」
「あ、あとはルーカスぐらいですね!彼にはもう今さら隠す事も無いっていうところまで見られてますから。」
「…そうか。まぁ、彼は元夫だからな。一緒に生活していたら自然とそうなる。」
「そうなんです。あ!だからご主人様にも平気なのかもしれませんね。」
クスクスと笑うエリスを見つめるディルターの表情に翳りが差していく。エリスはそれを真っ直ぐに見返し、精一杯の微笑みを浮かべた。
*
レリアンナが待つローゼント伯爵家は、ベルナント子爵家から馬車でゆっくり移動して一時間半程の距離にある。エリスは到着を知らせる御者の声を合図に深く息を吸い、門から玄関に着くまでの間何度も深呼吸を繰り返した。
「降りよう。」
「はい。」
先に降りたディルターの差し出した手にそっと手を乗せる。恋人同士らしく腕を組んで立っていると、出迎えに来ていた侍女が一礼して声をかけてきた。
「ディルター・ベルナント様とエリス・インベル様でございますね。ようこそお越し下さいました。お嬢様は応接室でお待ちですのでご案内致します。」
----いよいよだわ…。
無意識にディルターの腕を掴む手に力が入る。ふと、侍女が二人に背中を向けて扉を開けたと同時にポンポンと手を叩かれ、エリスは顔を上げた。ディルターが優しい笑顔で見下ろしている。
『大丈夫だ』
ディルターの口が小さく動く。声に出さずともいつもの穏やかな声音が耳の奥で再生され、エリスの胸が高鳴った。
コンコン
いつの間に応接室に着いていたのか。扉をノックする音にハッと我に返り、エリスはサッと姿勢を整えて前を向いた。
「お嬢様、ディルター・ベルナント様とエリス・インベル様がお着きになられました。」
「どうぞぉ〜。」
扉の向こうから甘ったるい声の返事が聞こえてくる。刹那、ギシッと強張る太い腕。開いた扉から一歩進んだエリスの目に飛び込んできたのは、ピンク色のフリルを全身に纏い、グルグルに巻いた金色の髪に大きな赤いリボンを乗せた、大きな瞳の小柄な令嬢だった。
「いらっしゃあ〜い。ディル兄様、お久しぶりねぇ。」
----やだ可愛い!お人形みたい!
ソファに座る愛らしい令嬢が細い手首をフリフリと振ってニッコリと笑っている。ディルターは無言で歩みを進め、レリアンナが座るレースたっぷりのソファから十歩程手前のところで足を止めた。
「久しぶりだなレリアンナ。相変わらず元気そうで何よりだ。」
「うふふ、ディル兄様もお元気そうねぇ。怖〜いお顔も相変わらずだわぁ〜。」
----怖い顔?
エリスが隣をチラと見上げる。そこから見えたのは、怖いというよりげんなりした顔だった。
「で、その人がディル兄様の恋人なのぉ?」
「そうだ。エリス・インベルさん、俺の…愛している人だ。」
「ッ!?」
「ひゃあぁ〜っ!あのディル兄様がそんな言葉を言うなんて!信じられなぁ〜い!」
「エリス、彼女が俺の婚約者だったレリアンナ・ローゼント嬢だ。」
「え!?あ、エ、エリス・インベルと申します。初めまして。」
「初めましてぇ。レリアンナ・ローゼントと申しますぅ。どうぞお座りになってぇ〜。」
レリアンナは満面の笑みを浮かべ、大きな目を細めて二人を交互に見た。近くにいた侍女に茶の用意をするように言い付け、あどけなさの残る顎に指をあててエリスをジッと見つめている。嫌な予感とその瞳から逃げるように視線をテーブルに落としてみるが、レリアンナの好奇心は直球でエリスへと向けられた。
「ねぇ、エリスさん?」
「はい。」
「一体、ディル兄様のどこを好きになったのぉ?私はそこが一番気になるのよねぇ。ディル兄様っていつも怖い顔か、仏頂面か、顰めっ面しかしてないのよ?無口だし、喋ったかと思えば小言か怒鳴り声か冷たい言葉ばっかりで、優しさのカケラも無いような人なのにぃ〜!」
「散々な言われようだな。お前達が昔っから下らない面倒ばかり起こすからだろう。その度になぜか俺が駆り出されていたんだ。やっと解放されたかと思った矢先にお前と婚約だなんて、俺は一体何の罪を犯してしまったんだと本気で思った。」
「ひっどぉ〜い!それは私の言葉ですぅ〜!ふんっ!」
白くて柔らかそうな頬がぷぅと膨らんでいる。エリスは癒される思いでそれを見つめていると、レリアンナと真正面から目が合ってしまい、咄嗟に目を伏せた。
「私はエリスさんに話しかけたのだから、ディル兄様は黙っていてちょうだい。で、エリスさんはディル兄様のどこが好きぃ?」
「え?え…っと、それは…え?」
----な、なんでご主人様まで興味津々な目を向けるの?
話が違う。『何か聞かれても俺が答えるようにするから』と言ったのは聞き間違いだったのだろうか。しかし『もし君にしか答えられないような事を聞かれたら、君が何を答えても俺がそれに合わせる』とも言っていた事を思い出し、心の中でガックリと項垂れた。
----こうなったら仕方ないわね…
すでに二人の視線がエリスに集中している。ディルターの方が熱を帯びているのは気のせいだろうか。エリスは用意されたティーカップから立ちのぼる湯気に視点を定めて冷や汗を流しつつ、静かに口を開いた。




