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 嵐が去った後の静かな庭園に残された二人は互いに向き合い、ただ目を合わせて立っていた。時折吹く強い風がエリスの亜麻色の後れ毛を揺らし、スカートを緩くなびかせる。ディルターはエリスが髪を押さえて目を伏せるのを見つめながら静かに口を開いた。


 「エリスさん、ラントルに何かされなかったか?」

 「何もされて…あ。」

 「何だ!?」

 「いえ、何もされてませんが、なぜかしばらく隠れておられました。」

 「隠れてた?」

 「はい。わざと隠れて私の様子を見てたそうです。理由は分かりませんが。」


 ディルターはエリスから視線を外して溜息をついた。さっきまで、ラントルのような厳しい大男が側にいながら、なぜエリスが短時間の間に多くの男に声をかけられていたのかと疑問を感じていた。しかしエリスの話を聞いてようやく納得した。納得したが、それ以上に呆れが勝る。

 それよりも、とディルターは別の理由からの溜息をつき、エリスを見下ろした。


 「とにかく、いくら知り合いでも簡単に男について行くんじゃない。もし理由があるなら俺に一言伝えてからにしてくれ。何かあったらどうするんだ。」

 「はい、申し訳ありません、以後気を付けます。あの、」

 「うん?」

 「ご主人様の恋人役についてなのですが…」


 ディルターの肩がギクリと揺れる。近くにエリスがいるとは思わずうっかり疑似恋愛だと口走ってしまった事を思い出し、直前までの雇用主然とした態度は春風と共に吹き消えた。


 「あ、あれは変な意味じゃなくて…」

 「もう雰囲気は掴めましたので、練習を終わらせて頂いてもよろしいでしょうか?」

 「え?」

 「あとはお相手のご令嬢の前でそれらしく振る舞えば良いですよね。」


 エリスはまるで歌の練習を終わらせるような軽い口調で言い、ニコッと微笑みを向けた。もしこれ以上続けたら、恋人役の練習が実は妄想の塊だった事がバレてしまうかもしれない。万が一そんな事になったら羞恥心で息の根が止まる自信がある。それに恋人気分そのものはたっぷりと堪能できたので、エリスとしては十分に満足できた。


 ディルターに向けた笑顔の陰でそんな事をグルグルと考えながら冷や汗を流していると、細めた目に予想外の表情が映って笑顔をやめた。ディルターの表情が重く沈んでいる。そしてその口元からは表情と同じ重い声が聞こえてきた。


 「…いや、ダメだ。」

 「はい?」

 「もう少し続けてくれ。君はもう大丈夫かもしれないが、俺はまだ全然感覚を掴めていないんだ。」

 「そうなのですか?とてもお上手でしたよ。本当の恋人のようでドキドキしましたし。」

 「…君とのやり取りを疑似恋愛だと言った事は謝る。楽しむ…というのも嘘ではないが、何にせよ言っていい言葉じゃなかった。本当にすまない。」


 『うん?』と目の前の男を見上げる。エリスは自分に向けて軽く頭を下げるディルターの姿にギョッと目を見開き、慌てて手を振った。どう考えても謝罪しなければならないのは自分の方だ。それ以前に貴族が平民に、それも自らの使用人に頭を下げるなんてあってはならない。


 「どうして謝るんですか?すごくピッタリな言葉だと思いましたし、私も楽しんでましたよ?」

 「え?じゃあ、どうして…。さっきは怒ってたんじゃなかったのか?マーシャンに荷物を渡してすぐに帰ってしまっただろう。」

 「えぇ!?怒ってませんよ!あれは私の妄…コホン!とにかく怒ったわけではなく、急に恥ずかしくなって逃げてしまったんです。ですから謝らないといけないのは私の方なんです。申し訳ありませんでした。」

 「恥ずかしくなった?なぜ急に?楽しんでたんだろう?」

 「そ、それはもう忘れて下さい!えっと…とりあえずもうしばらく続けるという事ですね?」

 「?あぁ、よろしく頼む。そうだ、せっかく美しい庭園に来たんだから少しだけ恋人とのデートというものを楽しんでもいいかな。付き合ってくれるか?」

 「フフ、もちろんです。そうですね、少し歩きましょうか。」


 ディルターがニッと笑って腕を差し出す。笑い方がどことなくラントルと似ている。エリスはラントルの雰囲気に恐れや不愉快さを感じない理由が分かった気がして、腕に手を絡めながらクスッと笑った。


*


 五月中旬。

 王都にあるベルナント子爵邸の門の前に、一台の馬車が停まった。


 「大丈夫だ。君は今まで通りにしていればいい。」

 「はい…」


 最後の宿屋からここまでの間、馬車の中で緊張した面持ちを崩さなかったエリスに声をかける。しかしそうは言ってもやはり緊張してしまうのか、エリスは消え入りそうな声で返事をするのが精一杯だった。


 ----家族には本当の事を伝えておいて正解だったな。


 仕事の目途が立った頃、ディルターは出立予定日の半月前に両親宛てに手紙を送っていた。内容は到着予定日と、婚約者であるレリアンナには使用人のエリスを恋人として紹介するといったものだ。


 「俺の家族には事情を伝えておく。だから君は俺の実家には客人として来てくれればいい。」

 「客人だなんて。ご主人様に同行する使用人としてお連れ下さい。」

 「君がその方が良いというのならそうしよう。」


 エリスは自分がただの家政婦である事を伝えておけば、せめてディルターの家族にだけは嘘をつかなくて済むと思っていた。そのおかげか、トレンタを出立した頃はこれまでの練習の成果を見せる事、上手くやり切る事だけを考えていた。しかし日を追うごとに人を騙すというプレッシャーの方が強くなり、今ではすっかり尻込みして朝から俯きっぱなしになっていた。


 ----まぁ、無理もないか…


 「到着致しました。」

 「ご苦労。」


 御者の声に返事をしてチラとエリスを見る。到着した途端腹を括ったのか、エリスは直前までの青い顔を引っ込め、代わりに真剣な表情で口を真一文字に結んでいた。その表情にかつて男を相手に胸を張っていた時の勇姿が重なる。

 今日は綺麗に髪を結い上げて薄紫色のドレスに身を包み、薄く化粧を施しているせいか、いつもとは違う雰囲気にディルターは思わず目を細めた。


 ----可愛いな。


 玄関まで出迎えに来ていた侍女に案内されて広間へ向かう。侍女のノックに返事があり扉を開けると、こちらへ向かって歩いてくる二人に目が止まった。兄のハンザックと、妹のスドナだ。久しぶりの再会に自然と笑みが溢れる。


 「久しぶりだな、ディル!」

 「あぁ、久しぶりだ。スドナも来てたのか。」

 「当然でしょ。こんな面白そうな話を聞いて大人しく家にいるわけないじゃない。で、こちらの方がお兄様の恋人役になる方ね?」


 スドナはさっそくエリスに目を向けて目を輝かせた。瞳の色はディルターと同じ濃碧だが、顔はあまり似ていない。ディルターはエリスの腰に手を添えて一歩前に進ませ、二人に紹介した。


 「そうだ。エリス・インベルさんだ。エリスさん、兄のハンザックと妹のスドナだ。」

 「初めまして。エリス・インベルと申します。どうぞよろしくお願い致します。」

 「へぇ、綺麗な人じゃないか。恋人役にするのはもったいないな。」


 今度はハンザックが興味深げにエリスを見下ろし、フ、と笑顔を浮かべた。兄は似ている。ディルターの厳しい相貌をグッと柔らかくした感じの雰囲気で、背丈はディルターよりもやや高い。


 「実はディルお兄様が家政婦を雇った事自体意外だったのだけれど…なるほどねぇ。ね?」

 「な?」


 二人はチラッと目を合わせ、ニヤニヤと口端を上げた。その表情をエリスに見せないよう、ディルターは大きく咳払いをしてエリスの視線を自分に向けた。


 「ゴッホン!!スドナ、この事はレリアンナには…」

 「もちろん言ってないわよ。というより、レイリーがあんな事を言い出したなんて意外だったわ。恋人を見せろだなんて。こう言ったら何だけど、お兄様に全っ然興味無いのに。」

 「興味があろうと無かろうと、こうしなきゃ婚約解消を受け入れないと言ってるんだから仕方ない。」

 「あー、それは多分…」

 「こらこら、ここで話し込んでどうするんだ。父上と母上が待っておられる。」


 ハンザックが先に立って移動し、四人は両親が待つソファへ向かった。息子達の巨躯は父親譲りだと分かるような大柄な初老の男が、上座にどっしりと座っている。そのすぐ隣では白髪混じりのダークブラウンの髪を品良くまとめた貴婦人がニッコリと微笑んでいた。


 「父上、母上、ただいま戻りました。」

 「あぁ、よく無事で帰って来たな。」

 「おかえりなさい、ディル。元気そうで何よりだわ。」

 「母上も元気そうで良かったです。」


 ディルターは軽く挨拶を済ませると、すぐにエリスを隣に立たせた。


 「彼女を紹介します。エリス・インベルさんです。エリスさん、俺の父グレオリ・ベルナント子爵と母のルナシアだ。」

 「初めまして。エリス・インベルと申します。」


 エリスはドレスの裾を軽く持ち上げて膝を折り、スッと頭を下げた。幼い頃から父親に叩き込まれた厳しい礼儀作法がこんな形で役に立つ日がくるとは思わなかったが、そのおかげで貴族の前でも臆する事なく堂々とできている。エリスは目を伏せたまま姿勢を整え、静かに待った。


 「ふむ、顔を上げてくれ。」


 エリスはグレオリの言葉に小さく頭を下げ、顔を上げた。


 「君は息子の身の回りの世話をしているそうだな。君の事は息子から手紙で少し聞いているんだ。なんでも、君のお父上はメルレアン男爵家の執事をしているとか。」

 「はい、その通りです。」

 「君はどういう経緯で息子に雇われたんだ?」

 「私は夫との離婚を機に家を出て、トレンタにある小料理屋で働いて…」

 「離婚?という事は、君は以前結婚していたのか?」

 「はい。」


 グレオリの低い声がエリスの言葉をピシャリと遮る。グレオリとルナシアは無言で視線を交わし、そのまま二人揃ってチラとディルターを見上げた。


 「話の腰を折ってしまったな。それで?」

 「仕事帰りに客の男性に絡まれていたところを、偶然通りかかられたご主人様に助けて頂きました。その出来事がきっかけでその後何度かお会いする事がありまして、昨年末に家政婦として私を雇いたいと仰って下さったのです。」

 「そうか。ディルターからわざわざ声をかけるということは、家が近かったのか?」

 「父上、それは…」

 「いえ、私が住んでいた場所からは遠かったので、住み込みで働いています。」

 「何?つまり君は息子の家に住んでいるのか?一緒に?」


 シンと静まり返る。今や全員の視線が隣に立つディルターに注がれている事など気付く事もなく、エリスは躊躇いなく頷いた。


 「はい。空いている部屋があるのでそこを使って良いと仰って下さって。そうするのが一般的だと聞いております。」

 「ほぉー…」


 後ろから兄妹のヒソヒソと囁き合う声が聞こえてくる。何を言っているのかはディルターとエリスには聞こえてこないが、笑っている雰囲気だけは伝わってきた。それを、父親の咳払いが諌める。再び静かになったところでグレオリは溜息混じりにポツリと呟いた。


 「ハンザックならともかく、真面目なディルターがまさかそんな嘘を…」

 「え?」

 「父上、私を巻き込まないで下さい。それに今ので私の方がよほど誠実な男だと証明されたでしょう。」

 「…まぁ良い。とにかく事情は分かった。これからすぐにレリアンナに会いに行くのか?」

 「はい。ローゼント家にはトレンタを出立する前と道中に何度も手紙を送り、今日訪問するようにしてあります。移動に日数がかかりますのでゆっくりはしていられませんから。レリアンナとの件が片付いたらそのまま帰路に着きますので、もうここには立ち寄りません。」

 「あら、そうなの?せめて一日だけでも泊まっていけば良いのに。」


 これまで黙っていたルナシアが、残念そうに言って眉尻を下げる。ディルターも残念そうに溜息をつき、眉尻を下げた。


 「申し訳ありません母上。私がここで羽を伸ばせば、その分部下のマーシャンが眠れなくなりますので。」

 「そう…それなら仕方ないわね。それならせめて一緒にお茶だけでも飲んでちょうだい。」

 「喜んで。」

 「もちろんエリスさんも一緒よ。」

 「ありがとうございます、奥様。」


 早く帰りたいのは他の理由よね、という囁き声は、ディルターの大きな咳払いで掻き消された。

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