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まだ誰も使っていない早朝の訓練場から地面を踏み鳴らす音が聞こえてくる。マーシャンは出勤して早々に訓練場へ足を踏み入れ、一人剣を振るディルターに声をかけた。
「団長、おはようございます。こちらにおいででしたか。」
「マーシャンか。おはよう。」
「昨夜も団長室に泊まられたんですか?せっかくエリスさんと恋人同士になれたのに。」
「来て一言目がそれか。」
恋人役を演じる為に、エリスには普段から恋人同士として振る舞うようにと言った。ディルターとしてはその指示に下心が無いわけではなかったが、意外だったのは自分よりもエリスの方が積極的に恋人を演じている事だった。
朝晩の日課になった包み込むようなハグ。恋人にしか見せない柔らかい笑顔。名前を呼びながら短い髪を遊ぶように触れる指。こんな甘い状況の中、深い意味で指一本触れてはいけない。結局以前よりもつらい状況になり、平然としているのが耐えられなくなってしまった。
----家になんかいられるかよ!
このやり場の無いストレスをどうにかして発散させなければいつか暴発してしまう。そういう時は、『これと同じ事をルーカスにもしていた』と思うようにしていた。すると必ずはらわたが煮え繰り返ってくるので、その苛立ちの全てを剣にぶつけるべく、ディルターの足を自然と訓練場へ向けてくれるのだ。
今日の目の前にいる見えない敵は『契約書』という名の堅固な壁だ。これがまた異常に強い。
フゥ、と剣を置き汗を拭くディルターの背に向かって、マーシャンは感心したように声をかけた。
「それにしてもずいぶん親密になられましたね。正直、恋愛面において団長がここまで粘り強いお方だとは思いませんでした。」
「お前は見た目と違って手がはやいもんな。仕事は慎重なのに。」
「他の男に取られたくないですからね。」
「同感だ。ん、そろそろ出勤時刻だな。」
「今日は朝一の合同訓練があります。一度団長室に戻られますか?」
「あぁ、そうする。」
剣を持って訓練場を後にし、出勤してきた部下達と挨拶を交わしながら廊下を歩く。受付の横を通り、二階へ続く階段に差し掛かったところでマーシャンがポツリと呟いた。
「それで、今回の件が片付いたらどうなさるんですか?また元の関係に戻られるのですか?」
「できればこのまま恋人関係に持っていきたいが、今はまだそういった空気を出していない。少しでも気を緩めてしまったらせっかく築いてきた信頼関係が壊れてしまうからな。」
今の状況に浮かれて境目を見誤り、踏んではいけない領域に足を入れてしまっては全てが終わってしまう。それよりもまず、心の奥に傷を抱えるエリスが安心して心を寄せられる存在になる方が先だ。
ディルターは階段の踊り場まで上がり、少し足を早めて次の段に足をかけた。
「それに元も何も、俺と彼女は一貫して雇用主と使用人だ。今は目の前の面倒事を片付ける事しか考えてない。」
「それもそうですね。その後の事はそれから考えても遅くないでしょうし。」
「あまり悠長にもしていられないがな。俺も近いうちに身を固めるつもりでいるし…。まぁ、それまではこの疑似恋愛を楽しむのも良いと思ってる。」
「団長、頬が緩みすぎで…あ、エリスさん!?」
「え!?」
階段を上り切ってすぐの廊下に立つエリスの姿が視界に映り、ディルターは思わず足を踏み外しそうになった。エリスの姿勢がまさに階段を降りようとしていて、さらに驚きとも気まずさとも取れる表情でジッとディルターの目を見つめているからだ。
その射抜くような眼差しに硬直していると、先にエリスの方から声をかけた。
「おはようございます、ご主人様。オグバース様。」
「あ…お、おはよう…」
「おはようございます、エリスさん。えっと…どうしてここに?」
「朝食と昼食とお着替えを届けに来ました。先程隊員の方から今日は朝から合同訓練の日だと聞きましたので、一度家に戻ろうと思っていたところなんです。」
「あ、あー!そうですか!実は訓練はこれからなんですよ。それじゃあこれは私が受け取りますね。」
「はい、ここでお会いできて良かったです。よろしくお願い致します。」
エリスはニコリと微笑み、荷物をマーシャンに手渡した。いつもと変わらない様子でマーシャンに荷物の中身を簡単に説明している。その様子を隣でただ黙って見つめながら、心臓が冷えていくような感覚に頭の中が真っ白になった。
----どこからどこまで聞いてた…?
呆然としている間に全てのやりとりが終わったのか、エリスが静かに階段を降りていく。ディルターはキョロキョロと必死に目配せをするマーシャンを見てハッと我に返り、慌ててエリスに声をかけた。
「あの、エリスさん!」
「はい?」
エリスがサッと振り返る。わざと少し目線を下げているのか、合わせようとしない視線に心臓がドクリと脈打ち、嫌な予感に無意識に声が掠れた。
「今の聞いて…」
「今の…あ、近いうちに身を固めるつもりでいるというお話ですか?」
「いッ!?」
「疑似恋愛と呼べるほど上手くできるかどうか分かりませんが、精一杯頑張りますのでよろしくお願い致します。」
「ち、違う!それはだから…そういう意味じゃなくて!」
「それじゃあ私はこれで。ご無理なさらないで下さいね。」
ニッコリと極上の笑顔を浮かべてペコリと頭を下げられては、これ以上何も言う事はできない。立ち去る美しい背中との間に高らかにそびえ立つ壁を一瞬で建てられたような絶望をつきつけられ、ディルターは今度こそ声を震わせた。
「な…な…嘘だろ…」
「いやぁー…エリスさんは怒ると笑顔になるタイプでしたか。婚約解消の為にエリスさんを利用して、ついでに恋人状態を楽しむけど結婚は他の女性と…って、言葉だけ聞いたら最低なクズ発言ですもんね。」
「俺は彼女しか考えてない!!」
「でも確実に誤解を生みましたよ。せっかくここまで進展したのに…。振り出しどころかマイナスじゃないですか?」
「うわ…うわあぁぁ…!」
何も聞きたくない。何も考えたくない。何も見たくない。
ディルターは両手で顔を覆い、壁にもたれて身体を支えた。こうでもしないと、とても立ってなどいられない。その様子を横目にマーシャンは深く溜息をつき、ふと手に持った荷物に視線を向けた。
----団長がエリスさんに一目惚れしてから、かれこれ八…いや九か月ぐらいか?うわ、鳥肌立った…俺なら失神してるな。
遠くから出勤してきた団員の足音が聞こえてくる。マーシャンは身も心も見た目も真っ白になった男を急いで団長室へと押し込んだ。
*
階段を下り、受付にいる隊員に挨拶をして外へ出た。出勤時刻だからか、隊員達が宿舎から本館へ向かって歩いてくるのが見える。エリスは邪魔にならないように道の端を歩きながら、大きく息を吸ってゆっくりと吐いた。
----『疑似恋愛』か。なるほど、しっくりくるわね。さすがはご主人様だわ。
ただの妄想活動の一環だと思っていた行為に立派な名前が付くと、途端に大義名分が立つ気がする。エリスはディルターから本物の恋人として接するようにと言われて以来、『もしも騎士団長ディルター・ベルナントと恋仲になったら』というテーマを元に日々悶々と頭を働かせ、思いついたものを片端から実践してみた。身分を弁えつつ、どこまでがディルターの許容範囲かを探りながらそれとなく逞しい腕に触れたりしてみたが、まさかディルターも楽しんでいるとは思ってもみなかった。
----恥ずかしくなって逃げるように帰っちゃったけど、感じ悪かったかしら。
妄想活動はあくまで一人で楽しむからこそ大胆な発想ができるものだ。それなのに相手まで楽しんでいる事を知ってしまうと、自分の次なる行動を待たれているみたいで変に意識してしまう。意識すると恥が生まれる。恥の生まれた妄想は妄想にあらず、である。
それよりも、とエリスはディルターの言葉を思い返して溜息を零した。
----近いうちに、かぁ。そういえば前に『心から愛する女性と結婚したい』って言ってたから、いつかはどこかの素敵な令嬢と恋をして結婚するんだろうな…。
ツキンと左胸に小さな棘が刺さる。前に、ディルターに好意を寄せられているかもしれないという恥ずかしい勘違いをしてからは、ディルターを一人の男として見ないように心がけた。あくまで自分は家政婦であり、ディルターとは契約で結ばれた雇用関係だ。それでも、自分とは関係の無い事だと分かっているのになぜか胸が痛くなった。
----もしそんな人ができたら…きっとすごく大事にするんだろうな…
その時は偽物に向けるものとは違う情熱的な眼差しで恋人を見つめ、優しく力強く抱き締めることだろう。その腕の中にはディルターが選んだ美しい人がいる。髪の色は、瞳の色はと想像を始めたところでもう一度溜息をついた。
----なんでだろう…これはあんまり想像したくないな。
偽物の妻の次は、偽物の恋人。偽物ばかりであることを嘆いているわけでも、本物に憧れているわけでもない。ただ一人で生きていくと決心した身には、本気の恋愛など相手にとっても自分にとっても誠実ではない気がするのだ。そもそも確実に終わりのある恋愛なんかに本気になれるだろうか。
----でも楽しかったのよね。恋愛って良いものなんだなって初めて思ったもの。
恋人になったディルターはエリスにとても優しかった。親しい間柄の相手に見せる優しさではなく、行動の一つ一つが甘くて思いやりがあった。
----特に行ってきますとただいまの時の軽いハグは、最初は本当に恥ずかしかったわ。
最初は緊張しているエリスに合わせるように、身体を離して手の平で互いの背中を軽く叩き合った。それを何度も繰り返し、徐々に身体の距離を近付けていった。今ではそれが当たり前になり、互いの胸が当たっても気にしなくなり、ディルターが忙しくて帰れない時はハグができなくて寂しさを感じるまでになった。
----とにかく温かい気持ちになるのよね。それにご主人様ってすごく逞しい身体をしてるから、つい…
ある日の朝、ふと、もっと強く抱き締められたいと思った時があった。高鳴る胸を押し付けたい衝動に駆られた時もあった。そんな時は、エリスは目の前にある騎士団長のバッジを見るようにしている。己の立場を忘れないようにする為だ。しかし徐々にそれも効かなくなってきている事に、そろそろ目を向けなければならない。
----もうネタも尽きてきたし…うん、恋人同士の雰囲気は大分掴めたから、これ以上役を演じる必要は無いわね。
ふと、考えてみる。
----一生恋愛をしないのと、一生偽物の恋愛を繰り返すのとではどっちが楽なのかしら。
答えを探すように空を見上げてみる。そこには雲一つ無い綺麗な青空が広かっている。しばらく見つめて、どちらも大差ないなと最後の溜息をついた時だった。ディルターとは質の違う低い声がエリスの耳に触れた。
「よぉ、エリスちゃん。」
声に振り向くと、朝から独特の威圧感を装備した第二隊長ラントルがこちらに向かってのしのしと歩いて来ていた。
「あら、おはようございます、マーカー様。」
「おはよう…うん?どうした、朝から浮かない顔して。」
「え?何もないですよ。」
「ははぁ、どうせディル絡みだろ。」
「本当に何もありませんよ。先程ご主人様へのお届け物を渡してきたところなんです。」
「渡してきた?いつもアイツが着替えて朝飯を食い終わるまで待ってるじゃないか。今日は何か急いでんのか?」
「いえ、そういうわけでは…そ、そうなんです!私、今日はとても急いで」
「ねーよな。よし、じゃあ俺が今から良いところに連れて行ってやるよ。昼過ぎ頃に家に着くようにすりゃあ良いんだろ?」
「えぇ!?」
「うっし、決まりだ。ちょっとここで待ってな。」
ラントルはニッと笑い、受付に行って係の隊員と話してから戻ってきた。急用などでしばらく外出する時は、受付に伝えておく決まりになっている。
「待たせたな。じゃ、行こうぜ。」
「あ、はい。」
ラントルは来た時と同じようにのしのしと歩きだし、二人は門に背を向けて厩舎へと向かった。




