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机に向かうディルターの羽ペンがピタッと止まる。仕事を再開させてからまだ一枚目の報告書だというのに、これでもう三度目だ。
----さっき何を言おうとしたんだ?
どんなに疲れていてもエリスに関する事だからすぐに気付いた。エリスの様子がどうにもおかしい。声が小さくてほとんど聞き取れなかったが、目の前で顔を真っ赤している様子はかなり目の保養になった。それで目が覚めたと言っても過言では無い。だからこそ何を言おうとしていたのかが気になる。
----今出て行ったばかりだからまだ近くにいるはずだ。やっぱりちゃんと聞いておきたい。
そうと決まれば、とすぐに立ち上がり、扉の取っ手に手をかける。すると少し離れた場所で寄り添う二つの影を見つけてギクリと身を強張らせた。
----な!?何やってんだ!?
廊下の向こう側には、つま先立ちでマーシャンに耳打ちをするエリスがいる。何度も耳元で囁き、その度に見つめ合う二人の姿に言葉を失った。なぜならディルターは一度もエリスに耳打ちをされた事がない。
扉を閉めて呆然と立ち尽くしていると、廊下を歩いてくる足音が聞こえたので急いで元の位置に戻った。扉をノックする音がいつになく気に食わない音程で響く。
「入れ。」
「失礼しま…うわっ!なんですかそのお顔は!?」
「はやく閉めろ。そしてすぐにここに来い。」
マーシャンは言われた通り、すぐにディルターの机の前に立った。そうしなければ身が危ない。
「彼女と何を話していた?」
「えッ!?あ、あー、えっと、今朝もいいお天気ですね、と…」
「耳打ちされてただろう。彼女は何を言っていた?」
「見てたんですか!?うわ、最悪…」
「ほぅ、見られたらマズイ事だったか。言え。些細な事でも誤魔化したりすれば…分かってるな?」
すでに毒を吐いている大蛇にギロリと睨みつけられてしまえば、蛙は目を瞑って縮こまるしかない。
マーシャンは諦めの溜息をついた。
「分かりました。でもこれは私は無関係ですからね!むしろ褒めてほしいぐらいです!」
「それは俺が決める。はやく話せ。」
「コホン、では…」
かくかくしかじか
「俺の好きなタイプ?そんなのエリスさんそのものじゃないか。」
かくかくしかじか
「な…女を家に呼ぶだと!?なぜそうなる…まさかそれでタイプを聞いたのか!?」
かくかくしかじか
「何ぃッ!?娼館に通っ…ラントルあの野郎ぉッ!!」
「あ、エリスさんはすぐに嘘だと見抜いてましたよ。本当に団長の事を信頼してるんですね。」
「当然だ。俺は適度な距離を保ったまま全力で彼女を大事にしているからな。」
フンと鼻を鳴らし、胸を張って椅子にもたれる。ディルターはエリスに婚約を解消する意思がある事を打ち明けてからというもの、二人の関係は以前よりもグッと親密になったと自覚していた。それもこれも、毎日毎日、今できる精一杯の誠意と好意を示し続けているからだと自負すらしている。本人にはなかなか伝わらないが。
しかし信じてくれた嬉しさと、女を用意されそうになった悲しさに思わず溜息が零れた。
「はぁそうですか。そうそう、それで私はエリスさんに、これに関しては何もせず疲れて帰ってくる団長を癒してあげて下さいとお伝えしたんです。どうですか?私は悪くなかったでしょう?あそこですれ違って良かったぐらいです。」
「そうだな、ご苦労だった。すぐにラントルを呼んでこい。」
「ラントルさんは今巡察中です。そのまま東のバーレ地区へ行きますので、戻ってくるのは明日の夕方です。」
「あの野郎!絶対わざとだ!!」
遠くからラントルの高笑いが聞こえてくる。
ディルターは割れんばかりの力で机を叩き、書類の山を雪崩させた。
*
「団長、本日もお疲れ様でした!お気を付けてお帰り下さい!」
「あぁ。」
門番の明るい声に硬い声音で返事をし、ディルターは門を通った。空に明るさが残る時間にフェルデラン館を出るのは久しぶりだ。こんな時間に帰るのはもともとはエリスとの約束だったからだが、今は一刻も早く話し合わなければという思いの方が強かった。
----まったく、女を呼ぼうとするなんて…。今後のことも考えて一言ガツンと言っておかなくては。
大抵の事は可愛いで済ませられるが、これだけは見過ごすわけにはいかない。
ディルターは自宅の扉の前でフゥッと息をつき、扉を開けた。そして開けた瞬間、偶然扉の側にいたエリスの満面の笑みに出迎えられ、考えていたものが全て消えた。すごく嬉しそうに笑っている。
「おかえりなさいませ!」
「ゴッホン!ただいま…何かいい事でもあったのか?」
「今日は久しぶりにご主人様が早く帰ってこられたので嬉しくて。」
エリスの笑顔が輝きを増し、ディルターの目を襲う。ディルターは眩しい日の光を避けるようにサッと目をそらせた。
「ぐっ…そ、そうか。」
「湯浴みの用意ができております。ゆっくりお身体を休めて下さい。」
「ん、ありがとう。」
マントを抱え、パタパタと歩き去る華奢な後ろ姿の周りには咲き乱れた小花が見える。ギュンッと心臓を掴まれ喉元を締め上げられたような息苦しさは、即座にディルターに敗北を突きつけた。
----クソゥッ!あれは反則だろう!何も言えなくなるじゃないか!!
しかし、やはり話し合いはしておかなければならない。すでにエリスにはそれ相応のお仕置きを用意してあるからだ。ディルターは湯浴みと食事を済ませて一段落ついてから、食事の後片付けをしているエリスに声をかけた。
「エリスさん、少しいいか?話がある。」
「はい。」
ディルターは先にソファに座り、エリスが対面のソファに座るのを待ってから静かに口を開いた。
「マーシャンから話は聞いた。ラントルがまた馬鹿な事を言ったそうだな。」
「馬鹿な事?」
「そうだ。まぁ…それについては俺から奴に注意しておくとして、俺に女を用意しようとしてたというのは本当か?」
「はい。」
「なぜそんな真似を?」
「マーカー様と話していて、確かに男性の心身を健やかに保つには必要な事だと思ったからです。でも…こういう事は私が口を出す事ではありませんよね。今では後先考えずにオグバース様に相談してしまった事…出過ぎた事をしてしまったと反省しています。申し訳ありませんでした。」
エリスは目を伏せ、深々と頭を下げた。しかしディルターはさらに声を低くして追い打ちをかけた。
「うん、そうだな。君はルーカスを見ているから分かると思うが、世の中には決めた相手としかそういう事をしない男も大勢いるんだ。なのに君はそうじゃない男の方に俺を入れた。」
「あっ…」
「俺はそれが気に入らないし、それを聞いて…正直傷付いた。」
今度はディルターが目を伏せ、膝の上で両手を組んで溜息をついた。視界の外からエリスが床に膝をついている音が聞こえてくる。ディルターは両手で顔を隠し、エリスから表情が見えないようにした。
「あ、あの、私、なんて事を…あの、本当に申し訳ありません!」
「…本当に悪いと思っているのか?」
「はい。一切の言い訳は致しません。恩あるご主人様を侮辱してしまいました。どんな罰も受けますので、何なりとお申し付けください。」
「そうか。」
言質を取った。それに合わせて両手も外して立ち上がり、エリスの手を取ってソファに座らせる。そして用意しておいた手紙をエリスに手渡し元のソファに戻った。
ディルターの表情がややニンマリ顔になっている事に首を傾げつつ、エリスは手の中にある手紙を見た。
「これは?」
「俺が以前、実家に手紙を送ったのを覚えているか?」
「はい。レリアンナ様との婚約を解消する、というものですよね。」
「そうだ。あの後向こうでどういうやり取りがあったかは知らないが、少し前にレリアンナが俺宛に手紙を送ってきたんだ。それがその手紙だ。読んでみてくれ。」
「え?私が読んでもよろしいのですか?」
ディルターは眉を上げ、小さく頷いた。
「?分りました。それでは失礼します。…まぁ!」
エリスは口元に手を当てて驚きながらも、ディルターにキラキラした眼差しを向けた。それが無邪気にディルターの胸の中心をグサッと刺してくる。
「ご主人様、気になる女性がいらっしゃるのですか!?」
「レリアンナはそう思っている、という事だ。おそらく密偵を雇って調べたんだろうが、君も知っての通り俺にはそういった女の気配は無い。」
「そうですね。」
「つまり、唯一俺の側にいる女を見てそう思った、という事だ。」
「それって…もしかして…」
エリスのゴクリと飲み込む音が聞こえてくる。ディルターはここでようやく顔の筋肉を緩め、ニッコリと微笑んだ。
「そう、君だ。」
「えぇ!?わ、私ですか!?」
「まだ先があるぞ。手紙には何て書いてある?」
「え?え?えっと…私を振るほどのお方なら、さぞ素晴らしい女性なのでしょう。一度お会いしてみたいので…ぜひその女性を連れて…ま、まさか、私を連れて行くなんて事は…」
エリスの顔が真っ青に変わっていく。ディルターはさらに表情をキラキラと輝かせ、ソファの背にゆったりと身を預けた。
「そのまさかだ。君には俺の恋人として同行してもらう。ここ最近仕事を詰め込んでいたのはこれの為なんだ。」
「む、無理です!私はただの使用人です!恋人役なんて畏れ多いことできません!」
「君に拒否権があるのか?さっきどんな罰でも受け入れると言っただろう。」
「う…」
「それとも傷付けた挙げ句に嘘までついたというのか?」
「嘘じゃありません!でも恋人役なんて…だって恋人なんていた事がないのでどうしたら良いのか…」
ピクッ
「恋人…いた事ないのか?」
「はい。ずっと男性を避けてきましたので、男性と関わったのはルーカスとの偽装結婚が唯一なんです。そんな私に恋人らしいことができるかどうか…。」
「よし!それじゃあ今から特訓しよう!あまり時間もないしな!」
「特訓?」
「君は基本的なマナーや所作は身に付けている。あとは誰が見ても恋人同士だと疑われないようにするだけだ。ただ短期間でそれらしく見えるようにならないといけないから…そうだな、俺のことはディルターと呼んでくれ。俺もエリスと呼ぶから。」
「ディルター様で…」
「ディルターだ。恋人同士で様はおかしいだろう。」
「わ、分かりました…」
被せ気味にディルターに声を重ねられ、エリスは軽く仰け反りながら首を縦に振った。そして、ある事を思い出す。
「そうだわ!ルーカスとの結婚生活の一年目、『仲睦まじい二人』の時に周囲へのアピールの為にしていた事をすればできるかもしれません!」
「ほぉ…ちょっとやってみてくれるか?」
「はい!」
正直なところを言えば、ルーカスと同じ事をされるのは気に入らない。しかしエリスがルーカスにどう接していたのかは気になる。そんなディルターの心の葛藤など気付く事もなく、エリスはサッと立ち上がってディルターの足元に膝をついた。そして太い首に腕を巻きつけて頬を擦り寄せ、熱い眼差しと上目遣いで『愛しい男』を見つめた。
「ディルター、愛してるわ。」
「ッ!!」
エリスはパッと身体を離し、自分の膝の上に両手を置いてディルターを見上げた。
「こんな感じですが、どうでしょうか…ご主人様?」
「…。」
「申し訳ありません、最初なので抑えたつもりなのですが…あれ?どちらに…もうお休みになられるんですか?ご主人様?」
沈黙を背負ったディルターの背が寝室へと消えていく。
エリスは一人ポツンと座ったまま、首を傾げてその後ろ姿を見送った。




