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「ご主人様…」
「え!?」
ミネリアの声に赤子がビクッと身体を震わせる。ミネリアは慌てて腕を揺らし、小さな背をトントンと叩いた。
「エリス、この方が騎士様なの?」
「え、えぇ、そうよ。」
「すまないエリスさん。待っていろと言われていたが騒がしいので心配で来てしまった。もう用事は済んだのか?」
「あ…はい、あの…」
ディルターはエリスの返事がしどろもどろになっている事にフ、と微笑み、表情を引き締めてミネリアに向き直った。
「エリスさんから君達の事情は聞いている。身体を大事にな。」
「あ、ありがとうございます。」
「それから俺に婚約者がいるのは本当だ。しかし今はそれを解消しようと動いているところだ。」
ミネリアは首を傾げた。なぜそんな個人的な事を初対面の、それも何の関係も無い自分に話すのかが分からない。ミネリアはチラとエリスを見て、とりあえず頷き返事をした。
「え?あ、えっと…そうなんですか。」
「俺は、結婚するなら心から愛する女性としたいと思っているからな。」
「!」
ディルターはミネリアの方を向いたまま横目でエリスをチラと見た。エリスからは顔を真っ赤にするミネリアと、眉間に皺を寄せて目をそらしているルーカスしか見えない。ディルターの言葉に正反対の反応をする二人を見て、ただ首を傾げていた。
「さ、エリスさん、時間が惜しいからそろそろ行こうか。…そうだ、ルーカス。」
「…なんでしょうか。」
「俺はエリスさんを雇うにあたって、きちんと契約書を交わしている。その中にはお前が心配しているような事が起こらないように配慮したものもある。」
「…。」
「分かったら今後は態度を改めろ。お前のやっている事は侮辱罪に問われても文句は言えない。忠告するのはこれで終わりだ。」
「はい…申し訳ありませんでした。」
ディルターは胸いっぱいに吸い込んだ息を勢いよく吐きだし、ルーカスを無視してミネリアに向き直った。
「それじゃ、俺達はこれで。」
「はい。あの…本当に申し訳ありませんでした。」
ミネリアが眉尻を下げて頭を下げるのを小さく頷いて返し、エリスに視線を向けた。エリスがミネリアに歩み寄る。
「ミネリア、身体を大事にしてね。」
「ありがとう。エリスもね。」
エリスはもう一度赤子ごとミネリアを抱き締め、しばらく見つめ合ってから肩を優しく叩いて踵を返した。立ち去る二人の背中が小さくなっていく。二人が角を曲がって見えなくなってからミネリアはフゥと息をつき、まだそっぽを向いている夫に向けて呆れたように声をかけた。
「素敵な人ねぇ。もぅ!ルーカスったら、話してた方と全然違うじゃない。すごくエリスの事を…ルーカス?」
「…。」
「どうしたの?暗い顔して。」
「あぁ…いや、何でもないよ。」
「ねぇルーカス、私を見て。」
「うん?」
「あなたがエリスに特別な感情を持っているのは知ってるわ。三年も一緒に住んでいれば幼馴染とは違う情を抱くのも理解できる。」
「君までそんな事を言うのか?」
ルーカスがうんざりした顔で溜息をつく。バツの悪い時に見せるルーカスの癖だ。『君まで』という言葉にミネリアはフ、と笑うに留めて、柔らかい笑顔と真剣な目を向けた。
「あなたについて誰もが同じ事を言うのなら、誰の目から見てもあなたの行動はそう見えるってことよ。」
「でも僕は…」
「分かってるわよ。『でも』、愛してるのは私でしょ?でも私がこうして穏やかに言えるのは、相手がエリスだからだって事を忘れないでね。」
ミネリアがニッコリと笑う。何も言わずに夫の気持ちが落ち着くのを静かに待っている表情だ。
ルーカスはミネリアの肩を抱き締め、滑らかな額に頬を寄せた。
「あぁ…分かってる。ありがとう、ミネリア。」
*
ルーカスの家から離れてしばらく無言のまま歩く。エリスは周囲の人々の往来に注意しながら、潜めた声でディルターに話しかけた。
「あの…ご主人様、先程は申し訳ありませんでした。」
「うん?なぜ君が謝るんだ?」
「私のせいでご主人様が悪く言われてしまって…」
「君のせい?君が彼らに何かを言ったのか?」
エリスは首を横に振り、深い溜息をついた。エリスには未だにルーカスのした事が信じられない。ディルターの家に来た時からずっとモヤモヤしていたが、さすがに理解ができなかった。
「実は…分からないんです。どうしてルーカスがミネリアにあんな事を言ったのか…。でもきっと私が、ルーカスが誤解するような事を言ってしまったのだと思うんです。だから…」
「俺は、俺の為に怒ってくれたさっきの君が全てだと思ってる。だから気にするな。」
「そんなわけにはいきません!たとえ誤解でも、ご主人様が誰かに悪く言われるのは嫌なんです。」
「エリスさん…」
自分でもなぜあそこまでカッとなったのか分からない。誤解なのだから誤解だと言えば良いだけだ。ルーカスもミネリアも、きちんと話せば執拗に疑ったりしないことも分かっている。それなのにミネリアの言葉はエリスの胸をざわつかせ、一瞬で冷静さを奪った。ディルターの事を、誰からも悪く言われたくない。
「エリスさん、それはどう…」
「まさかルーカスがあんな事を言うなんて思いませんでした。いくら過保護で心配性だからって、言って良い事と悪い事があります!あれじゃまるでご主人様が見境無く女性に手を出すような節操無しみたいじゃないですか!」
「え。」
そこまで言ってないのでは、と目をそらし、エリスに伸ばしかけた手をサッと引っ込める。エリスは自分の言葉に焚き付けられたように語気を強くして拳を握り締めた。
「もう、悔しい!ご主人様は気にするなと仰って下さいましたけど、やっぱり許せません!今からでも戻ってとっちめてやらなきゃ気が済まないわ!」
「待て待て、そんな事しなくていい。もう済んだ事だし彼も反省しただろう。」
「でも…」
「時間が惜しいと言っただろう?俺は君に案内されながら歩くのをすごく楽しみにしてたんだ。」
ディルターの笑顔がいつもより眩しく映る。悪口を言われて怒るどころかエリスを宥めようとする心遣いに、エリスは急に恥ずかしくなった。
「ご主人様は本当にお優しい方ですね。」
「俺が?」
----怖いとしか言われた事がないんだが…
「はい。いつもその優しさに救われています。」
「い、いや、その、別に大した事はしてないから。んんっ!」
「フフッ」
ふと空を見上げれば太陽が高く上がり、雲一つない青空が広がっている。こんな日は決まって行っていた場所がある。エリスは空に向けてニッと笑い、まだ照れている男の横顔に声をかけた。
「今日はぜひご主人様をお連れしたい場所があるんです。小さい時によく遊んだ秘密基地があるんですよ。川も大きな木もお花畑もあって、毎日のように遊んでました。」
「へぇ、良いね。そういうの大好きだ。」
ディルターは悪戯話に乗った少年のように頷き、エリスの少し後ろを歩いた。
*
フェルデラン館の団長室で、ディルターは休憩がてらクッキーを食べながら重い溜息をついていた。その原因はもちろんエリスに関する事だ。それもかなり深刻になっている。
----なぜだ!なぜ伝わらない!?結構分かりやすい態度を見せてるのに!
日常生活は言わずもがな。思わせぶりな事を言っては目を見つめているし、ミントンへ行った時はまるで恋人同士のような良い雰囲気に心の中で拳をグッと握り締めたものだ。それなのに、その後のエリスの様子は至っていつも通りだった。
ルーカスを黙らせ、二度と余計な真似をしないように釘も刺したというのに。
----大体、石鹸を贈ってる時点で何か思わないのか!?俺好みの香りを身に付けさせてるんだぞ!?それとも服を贈らないと気付かないのか!?
ハッキリと想いを伝えられればいいが、まだ婚約が解消していないから何も言い出せない。しかし他の男に目を向けられてしまう事だけは何としても避けたい。だから気がある事だけでも伝えようとしているのに、使用人思いの優しい男だと美化されてしまった。
----どうすれば良いんだ…
コンコン
扉をノックする音に返事をすると、マーシャンが颯爽と入ってきた。
「失礼します。あ、ご休憩中でしたか。今日も美味しそうなクッキーですね。」
「今日は紅茶クッキーだ。」
「良いですねぇ。一つ下さい。」
「金をやるから買ってこい。」
「そう仰ると思いました。団長にお手紙が届いてます。」
「…うん?」
手紙を差し出すマーシャンの顔が、なぜかいつもより気に食わない。ディルターは軽く指先を払って手紙を受け取り、差出人を確認した。
----なっ…レリアンナ!?
頭上から好奇心に満ちた眼差しが向けられているのが空気に乗って伝わってくる。ディルターは眼差しの主をジロッと睨みつけ、手紙の封を開けた。直接の手紙など、今の今まで一度も送った事も貰った事も無い。さっそく教養を受けた令嬢の筆跡を目で追い、そして思わず声を上げた。
「はぁ!?」
「どうなさいました?」
「なんで…」
----なんで知ってるんだ!?
手紙を持つ手がわなわなと震えだす。ディルターは手紙をマーシャンに手渡し、溜息混じりに『読め』と手を振った。指示された通りに文字を追うマーシャンの目がある部分でピタリと止まる。
『ディル兄様には気になる女性がいるそうですね。私を振るほどのお方なら、さぞ素晴らしい女性なのでしょう。一度お会いしてみたいので、ぜひその女性を連れてきて下さい。そうしたら婚約を解消してあげなくもないですよ?』
シンと空気が静まり返る。マーシャンはそっと手紙を畳んで机に置き、コホンと咳払いをした。
「いや、こんなの無理でしょう。王都に帰るだけで十日はかかりますし、ましてやエリスさんを連れてだともっとかかります。国王陛下から呼び出されたわけでもない限り、そんな長い間不在にされては困ります。」
「だよなぁ。…っておい、エリスさんだと決めつけるな。」
「今さら何を仰ってるんですか。今の団長はどこからどう見ても恋に落ちた男そのものですよ。」
「じゃあなぜ本人は気付かないんだ!」
本当になぜだか分からない。もしかしたら自分以上に恋愛事には疎いのだろうか。ディルターは何度目かの深い溜息を落として瞼を手で覆った。
「気付いてないのではなく、気付いてないふりをしているんじゃないですか?」
「何?」
「エリスさんは一人で生きていくと言ってるんですよね。それってつまり特定の男性は作らないって事では無いですか?実際にエリスさんはとてもしっかりした方ですし。」
「…。」
「それに自分の立場を十分弁えているでしょうから、団長の優しさに自惚れたりしなさそう…あ、そうか!もしかして団長が自分に想いを寄せているなんて、微塵も思ってないんじゃないですか?その方がしっくりきますよね!」
「どっちにしても全然ダメじゃないか!」
「そうでもないですよ。それはつまり、団長を信頼しているという事ですから。あの手の女性が心を許しているならすでに大きな山は越えています。あとは…」
「あとは…?」
「絶対に焦らず、エリスさんの方から胸に飛び込んでくるまでひたすら努力と我慢を繰り返すのみですね。」
----この野郎…それをどうすりゃ良いか悩んでんだよ!!
結局イライラとモヤモヤだけが残ってしまった。
ディルターはクッキーを口の中に放り入れ、目を閉じて味わった。




