22
扉の鍵がカタンと音を立てて外れ、主人の帰りを告げる。エリスは濡れた手をエプロンで拭きながら玄関へ向かった。
「おかえりなさいませ。」
「ただいま。」
エリスは手を差し出し、ディルターからマントを受け取った。その時、ふと視界に影ができて顔を上げるとディルターの喉仏が目の前にあった。
「良い匂いがする。石鹸を変えたのか?」
「はい。前のものは使い切りましたので、この前ご主人様が買ってきて下さったものを使いました。」
「あぁ、そうだった。この匂いだったな。少し甘くて華やかで…うん、やっぱり君にピッタリだ。」
年明けの休暇にディルターと買い物に出かけてから、ディルターはたまにお土産を買ってくるようになった。エリスが普段から小鳥の髪飾りを髪に挿している事に気を良くしたのか、エリスの負担にならないような『ちょっとしたもの』を買ってくる。この石鹸もその一つだ。寒い時期は昼間の暖かい時間に湯浴みを済ませるようにと言われているので、エリスは今日の湯浴みからこの石鹸を使い始めていた。
「ありがとうございます。大事に使いますね。」
エリスがニコリと微笑む。ディルターは満足そうに頷き、身体を起こしてキッチンの方へ目を向けた。
「お、あっちからも良い匂いがするな。」
「今日は鳩肉を焼きました。ご主人様のお好きな塩焼きですよ。それに合わせたお酒も用意してあります。」
「それを聞いてさらに腹が減った。すぐに着替えてくる。」
「はい。」
----ふぅ。
パタンと閉じる扉の音を聞いてから止まっていた息を再開させて、溜息をつく。真っ赤になる頬をパタパタとあおいで抑え、もう一度深呼吸をした。
----さすがにドキッとしたわね。
一緒に暮らすようになってから三か月も経つと、エリスはディルターの思わせぶりな言動に動揺する事が大分無くなった。というより、ほぼ毎日のように甘い言葉を言ってくるのでやっと慣れてきたと言った方が正しいかもしれない。
----あれは私じゃなかったら勘違いしてるわよ。
ルーカスとの結婚生活の時でもそうだったが、一緒に暮らしていると互いの距離感が徐々に薄れてしまい、そんな気は無くとも普段の会話の中に際どい言葉や態度が出るようになる。エリスはそれが分かっているから勘違いすることは無いのだが、それでもディルターの距離の近さには困惑した。
----まぁ、私も人の事言えないんだけどね。
ずっと誰にも言えなかった偽装結婚の話をした時に、良く頑張ったと褒めてくれたからだろうか。秘密を打ち明けたという親近感もあって、エリスもディルターに対してただの雇い主には見せない素の自分を見せるようになった。前よりも話すのがずっと楽なのがその証拠だ。
----もっと抑えないと。彼は使用人を大事にしてくれてるだけなんだから。
二人で夕食を囲んで食事を始めてすぐに、エリスは食事に手を付ける前にディルターに声をかけた。
「あの、ご主人様。」
「何だ?」
「近いうちに赤子へのプレゼントを届けにミントンへ行こうと思うのですが。」
「日帰りか?」
「はい。裏口で渡すだけですから、すぐに終わりますので。」
念の為に帽子を被り、顔を隠して変装はするが、元夫の家に行く事に変わりは無い。エリスがまだルーカスの妻だった頃に働いていた従業員や使用人はそのまま残っているはずだ。万が一知られたら、また余計な悪い噂が増える事になってしまう。でも二人の赤子は見たい。
いろいろと悩んだ末に、やはり母子の顔を見てすぐに帰る事にした。赤子が生まれてひと月以上経てば母親も歩けるようにはなっているので、ミネリアに裏口まで出てきてもらえばいい。
「そうか…じゃあ四日後にしようか。」
「はい。…はい?しよう?」
「俺も一緒に行く。」
「えぇ!?」
突然の申し出にエリスが目をパチパチさせていると、ディルターは最初からその予定だったかのようにスラスラと言葉を続けた。
「前回は夜だったからミントンの町がどんなところか見られなかった。せっかくの機会だから君が生まれ育った町を見たい。」
「でもお仕事は大丈夫なんですか?」
「三日あれば調整できる。もし不測の事態が起これば日を変えればいい。急ぐものでもないんだろう?」
「それはまぁ、そうですが…」
「俺が一緒に行ったら何かマズイのか?」
ディルターがムッとした顔でエリスを見つめる。エリスからすれば正直に言ってマズイ。なぜならこんな目立つ男を連れて歩いたら変装する意味が無いからだ。しかし故郷を見たいと言われる事がこれ程嬉しいものだとは思いもよらず、エリスはクスッと笑った。
「まさか。ありがとうございます。あ、でも一つだけお願いがあるんです。」
「何だ?」
「騎士様の制服は目立ちますので、できれば外出用の武具を身につけていただく事はできますか?」
「あぁ、そのつもりでいる。そうだ、せっかくだから乗合馬車で行くか。歩いて見て回る方が良いしな。」
「お尻が痛くなりますよ?」
「鍛えてあるから君よりは平気だ。」
「まぁ。」
エリスはクスクスと笑い、初めて帰省が楽しみに思えた。
*
四日後。エリスはディルターを連れてミントンの町並みをゆっくりと歩いた。春の訪れと共に咲いた花々の香りが町中に漂い、目と鼻を喜ばせる。二人は暖かくなりつつある日差しに目を細め、空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
「のどかだが活気のある町だな。」
「えぇ。この町の住人は子供や若者だけでなく、お年寄りも元気なんですよ。」
「良い事だな。」
「えぇ。」
(うん?)
エリスはふと視線を感じ、帽子の陰から目だけを動かして周囲を見た。すぐ近くにいる若い女達がこちらを見ながらヒソヒソと話している。知り合いではないと分かっていても途端に緊張が走り、俯いたまま女達の側を通り過ぎたが、彼女達の視線が自分ではなく隣に立つ男に向けられている事に気付いて片眉を上げた。
「…。」
ディルターには騎士だと分からないように地味な格好をしてもらったが、やはり持ち前の精悍な顔立ちと威厳のある男らしい雰囲気が否応無く人の、特に女の目を惹きつけるようだ。エリスは無言で歩く速度を上げて、目的の家まで一直線に向かった。途中で家の裏口に続く細い道に入り、レイド家の敷地近くにある生垣の側で足を止めた。
「急に早足になってどうしたんだ?」
「えっと…知り合いがいたんです。それより、サッと渡してきますのでここで待っていて下さい。」
「分かった。」
エリスは帽子を深く被ってその場を離れた。裏口が見える木陰に立ち、出入りする者を遠目に見てしばらく待つ。ようやく見覚えのない若い娘を見かけたので足早に近付き、声をかけた。
「あの、こんにちは。」
「え?あ、こんにちは。」
「この辺りにミネリア・レイドさんのお宅があると思うのですが、迷ってしまって。」
「それならここですよ。奥様のお知り合いですか?」
「えぇ、そうなんです。見つかって良かったわ。私は彼女の友人のルーシー・インベルトと申します。ミネリアは家にいますか?」
「えぇ、いらっしゃいますよ。どうぞ中へ・・・」
「いえ、今日は赤子が生まれたお祝いを持ってきただけなんです。すぐに帰らないといけないのでここで待たせてもらってもいいかしら。」
若い女はニコリと微笑み、家の中へ入っていった。不審に思われずに済んだ事にホッと胸を撫で下ろす。エリスは日影で休んでいるふりをしながら目立たない場所に立ち、ミネリアが来るのを待った。
「エリス!」
潜めた声に振り向き、思わず頬が緩んでしまった。ミネリアの腕の中にはスヤスヤと眠る赤子が小さく丸まっている。エリスはミネリアに歩み寄り、赤子ごと抱き締めた。
「ミネリア!久しぶりね、元気にしてた?」
「えぇ、元気よ。エリスも元気そうね。」
「もちろんよ。赤ちゃんが無事に生まれたみたいで安心したわ。本っ当に可愛い!!」
「フフ、ありがとう。」
ミネリアの表情がすっかりお母さんになっている。エリスは目を細め、『そうだ』とバッグの中を探った。
「これお祝いのプレゼントなの。ほら、前に約束してたでしょ?」
「あ!あれね?わぁ、可愛い手袋!靴下もあるじゃない!」
「大きめに作ったから次の冬にも使えると思うの。気に入ってくれた?」
「もちろんよ!ありがとう、大事にするわね。」
「えぇ、この子にたくさんの幸せが訪れますように。」
フフ、と笑い合い、エリスは赤子の頬をそっとつついた。起きていれば少しだけ抱っこさせてもらおうと思っていたが、どうやら次回へ持ち越しになりそうだ。
「母子ともに健康そうで安心したわ。」
「私は大丈夫よ。それよりルーカスから聞いたんだけど、小料理屋の仕事を辞めて王宮から派遣されてきた騎士様の家政婦になったそうね。」
「えぇ、そうよ。」
「その…婚約者がいるとはいえ、独身男性と同居なんて大丈夫なの?」
すぐ横の生垣の反対側にはその騎士様がいる。距離的にも、この会話はディルターに筒抜けになっているはずだ。エリスの額にダラダラと冷たい汗が流れた。しかしそうとは知らないミネリアは声を潜めつつも強い口調で詰め寄った。
「まさか変な事されたりしてないわよね!?」
「何もされてないわよ!恩人を悪く言わないで!」
「恩人?でもルーカスが…あ…!」
ミネリアの『しまった顔』がエリスに向けられる。両腕で赤子を抱いているので隠す事ができなかった表情に、今度はエリスが詰め寄った。
「ルーカスが何?彼が何か言ったの?」
「あ…だからその…騎士様がエリスに気があるから、仕事を無理矢理辞めさせて自宅に引っ張り込んだに違いないって…。」
「なんですって!?他には何を言ってたの!?」
「他には…すぐに手を上げる乱暴者だと…。エリスが何をされるか分からない、ってすごく心配してた…。」
まさか、という思いがエリスの中で浮かんでは消えていく。エリスが知っているルーカスはいつでも物事を冷静に考えて判断し、決して想像や噂で人を悪く言うような人ではなかった。だからこそ信頼していたし、ミネリアとの事も協力して応援した。それなのに。
エリスは拳をわなわなと震えさせ、眉間に皺を寄せた。
「な、なんて事を…。ご主人様は立場を悪用するような卑怯な方じゃないわ!ルーカスはどこ!?私が直接とっちめてやるッ!!」
「待ってエリス!お、落ち着い…」
「ミネリア、何を騒いでるんだ?お客さんか?」
キィと開いた扉の陰からそっと顔を出したのは、居場所を聞いたばかりのルーカスだ。ルーカスは来客をエリスだと認めた途端足早に歩み寄り、ミネリアの隣に立った。
「エリス!?何かあったのか!?」
「ルーカス…あなた、よくも根も葉も無い事をミネリアに吹き込んだわね!」
「何の事だよ。何を怒ってるんだ?」
「とぼけないで!ご主人様の事を悪く言うなんて!」
ルーカスはチラとミネリアに視線を向けて察したように頷くと、小さく息をついてエリスに向き直った。
「心配してるんだよ。とにかく、仕事は変えた方がいい。エリスが傷つくだけだ。」
「何をわけの分からない事言ってるのよ!」
「エリスさん。」
生垣の向こう側から重く低い声が三人の間に割り込んでくる。
ディルターは土を踏む音を鳴らしながらゆっくりと歩み寄り、エリスのすぐ側に立った。




