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ワイバーの震える声が小さく聞こえてくる。
「なっ…」
「何をしている。」
「いや、その…」
重低音の声の主はエリスの後ろからゆっくりと足を移動させ、ワイバーの手を振り払い、エリスから離れるように軽く男の胸を押し退けた。
「俺の耳にはこの女性の叫び声が聞こえていたが…聞き間違いでしたか?」
男はワイバーを睨み付けながら後ろにいるエリスに問いかけてきた。その言葉に、『こうなったらコテンパンにしてもらおう』という復讐心がエリスの中で燃え上がる。
エリスは懇願するワイバーの眼差しを無視してハッキリと言い切った。
「いいえ、聞き間違いではありません。実は先程この男からの誘いを断ったのですが、その腹いせに無理矢理人気の無い場所に連れ込まれそうになったのです。」
「ほぅ…」
「黙れババァッ!!余計な事を言うんじゃねぇよ!!」
「黙るのはお前だ。おい、この男を連れて行け。この状況から考えつく限りの罪を並べ、二度とこんな真似ができないように厳しい罰を与えろ。」
「はっ!」
男の命令を受けた部下達が素早く動き、ワイバーを取り押さえている。屈強な男に両腕をガッチリと固定されて連行される男の背中を見ながら、エリスはふと、男と部下達が身に付けている武具に目を止めた。
----あら?この白い胸当てとマントって確か…。
武具の特徴を見て、その正体はすぐに分かった。王宮から派遣された騎士団だ。このトレンタを守る全ての自警団組織を管理・統轄する為に、数年おきに交代でその任務に当たっていると聞いた事がある。聞いた事はあるが、見たのは初めてだった。
----まさか直接助けて貰えるなんて。
近くにいる灯り持ちが自警団に通報してくれたら御の字だと思っていただけに、思いがけない彼らの登場には驚いてしまった。あっという間の出来事に呆然とするエリスの頭上から、低い声が落ちてくる。
「お怪我はありませんか?」
「はい、ありがとうございます。おかげ様で助かりました。あの、何かお礼を…」
「いえ、偶然この辺りを通っただけですし、これも仕事ですから。それより夜道は危険ですので家まで部下に送らせます。マーシャン、このご婦人を家まで送ってこい。」
「はい。」
「あ、いえ!大丈夫です、もうすぐそこですから!」
エリスは歩み寄るマーシャンをやんわりと手で制し、急いでバッグに手を突っ込んだ。確か、今朝焼いたクッキーがそのまま残っていたはずだ。目当ての袋を見つけて取り出し、助けてくれた男に差し出した。袋からはほんのりと甘い匂いが香っている。
男は袋とエリスを交互に見て、黙って片眉を上げた。
「これ、今朝焼いたばかりのクッキーです。手は付けていませんので、よろしければ召し上がって下さい。」
「え、いや、俺は…その…」
「え?…あ!」
出してすぐに、しまったと後悔した。王宮騎士団に所属する者ならば貴族の出に違いない。しかも状況からして目の前の男は団長に違いない。そんな身分の者が庶民が作った粗末なクッキーなど食べるわけがない。
夜で良かった。顔が真っ赤になっているのが自分でも分かる。エリスは袋をサッとバッグにしまい、ぎこちない笑顔で頭を下げた。
「そ、そうですね、申し訳ありません。あの、本当にありがとうございました。皆様お気を付けてお帰り下さいね。」
「待って下さい。」
「はい?」
「それ、頂いてもよろしいですか?」
「え…でも、お口に合わないかもしれませんし…」
「ちょうど腹が減っていたので、ありがたく頂戴します。」
硬く、それでいて穏やかな声が耳に触れる。決して建前で言っているわけではないと分かる男の真剣な表情に、エリスは安心して微笑みを向けた。相手が身分の低い者でも丁寧な対応をするという、上に立つ者の器には素直に感心してしまうものだ。
エリスは袋を取り出し、差し出された大きな手の上にそっと乗せた。
「では、どうぞ。」
「ありがとうございます。」
「フフ。これは私からのお礼ですから、お礼など仰らないで下さい。では、失礼します。」
エリスは頭を下げて、その場を後にした。
*
エリスの住む家は集合住宅の二階にある。石造りの二階建ての建物で、扉を開ければベッドとテーブル、椅子、クローゼットだけの質素な部屋だ。ここに二カ月前から住んでいる。安い賃料で借りている分部屋は狭いが、一人で暮らす分には十分だった。
扉の鍵を閉めて、扉のすぐ側に置いている灯りに火をつける。その小さな灯りを頼りにベッドまで行き、腰を下ろして一息ついた。
----まさか厨房まで追いかけてくるなんて。
マット・グラーシュで働き始めてからずっと同じ断り文句で男からの誘いを断ってきたが、バレた時の事まで考えた事は無かった。そこまで自分に興味を持つ男などいないという、妙な確信が油断を生んでしまったのだ。
----騎士様達が通らなかったら今頃どうなっていたか…
自分の身体を抱き締め、深呼吸をする。今後はバレた時の対策を考えなければ。相手を怒らせず、穏便に断るのは口で言う程容易い事ではない。酒が入っている相手ならなおさら慎重に対応しなければならない。
----はぁ、面倒臭い…。いつになったら口説く対象から外して貰えるのよ!
目を血走らせ、息を荒くするワイバーの顔が脳裏に浮かぶ。見た目から二十代前半といったところだろうか。『若い自分がおばさんを相手にしてやるんだから感謝しろ』というふざけた優越感には、思い出すだけで腹が立ってきた。
----それに比べて騎士様達の落ち着きようったら。やっぱり普段から己を律する人は違うのね。
ふと、薄闇に現れた男の相貌を思い出した。
短く切り揃えたダークブラウンの髪に、太い眉の下の濃碧の瞳。黒だったかもしれない。夜だったからか、角ばった顔には薄らと髭が伸びていた。
現れた時とワイバーに詰め寄る時は声だけで萎縮してしまう程恐ろしかったが、エリスに向けられた声は穏やかで優しいものだった。いつでもどこでも紳士としての配慮ができるという事は、普段からそのように振る舞っているからだろう。
----ああいう人は自分から声なんかかけなくても、女の方から寄ってくるわね。恋人にしたら大変なタイプだわ。『私は恋人だと思ってたのに!』『俺はそんなつもりはない』『ひどいわ!』…
そうしたらああなって、こうなって…
自分とは無縁の位置に置いている恋愛事でも、他人の恋愛模様をあれこれと想像して考えるのは、いくつになっても楽しい。妄想の主人公が騎士というだけで物語の創作意欲が湧くというものだ。そうやって頭の中である事ない事を考えながら、いつしか眠りにつくというのが毎日の日課だった。
----もしまた会うことがあったら…って、ないない。
髪を解いて服を脱ぎ、ベッドに身を滑らせる。窓の隙間から流れる涼しい風に意識を攫われ、静かに目を閉じた。
*
トレンタの中心街から四十分程歩いた一等地に、派遣された騎士団が滞在する『フェルデラン館』がある。その二階の一番奥にある団長室では、この部屋の主である団長が椅子に座ったまま険しい顔で部下からの報告を受けていた。
「自警団に所属しているだと?」
「はい。ワイバー・サーゼン、二十歳。二年前にワッセン自警団に入団しています。これまでに問題を起こした経歴はありません。特にこれといった特徴も無く、いわゆるどこにでもいる普通の若者です。」
「今回の事は突発的なものだったという事か。」
「そのようですね。相当酒が入ってましたから制御できなかったのでしょう。だからといって許される事ではありませんが。」
「市民を守る立場にある者としてあるまじき行為だ。その者の上長も監督不行き届きで厳しく罰しろ。二度とこんな事が起こらないようにな。」
「はい。」
部下が一礼して団長室から出ていく。副団長のマーシャンはその後ろ姿を見届けてからチラと視線だけを動かした。視線の先は団長の机の上に置いてある小さな袋だ。つい先程助けた女から貰ったものだが、袋の中に入っている物について、とりあえず尋ねてみることにした。
「団長、それ、どうされるんですか?」
「うん?」
「団長って確か甘いものお嫌いでしたよね。どうして受け取られたんですか?」
「礼だと言うから貰ったんだ。無下に断るのも失礼だろう。」
「綺麗な人でしたもんね。可愛いとか美人とかではなく、こう…控えめな美しさを持ってると言いますか。」
「何を言ってるんだお前は。そんな理由で受け取ったんじゃない。」
ディルターはジロッとマーシャンを睨み付け、椅子にもたれて頬杖をついた。暗くてあまりハッキリは見えなかったが、言われてみれば綺麗だった気がする。それよりもディルターには他の事の方が印象的だった。
未遂とはいえ、男に襲われたのだ。それなのに怯えるどころか胸を張り、相手の男を真正面から睨み据えて状況を説明していた。たとえ周囲に自分を守ってくれる者がいたとしても、襲われたばかりの若い女が咄嗟にできる事ではない。
その時の女の立ち居振る舞いを思い返したディルターの頬が微かに緩む。しかしその事に気付かないマーシャンの一言が緩んだ頬を一瞬で引き攣らせた。
「まぁ、団長には麗しの婚約者様がいらっしゃいますもんね。失礼致しました。」
ディルターがもう一度睨み付ける。これ以上の軽口は命取りになるぞ、という合図だ。マーシャンは引き際を察してサッと話題を戻した。
「そうだ。よろしければそのクッキー、私が頂きますよ。私は甘い物が大好きですから。」
「いや、さっきも言ったが腹が減ってるから食べる。お前は仕事に戻れ。」
「はい。それでは失礼致します。」
パタンと静かに扉が閉められ、ディルターは袋に手を伸ばした。中には指で輪っかを作った時の大きさのクッキーが十枚程入っている。実家で出されるような、ゴテゴテに塗られたクリームもこれでもかと練り込まれたドライフルーツも無い、生地だけのシンプルなものだ。でもほんのりと甘い香りはする。それを一枚摘んで口に放り込んだ。
----へぇ、そんなに甘くないな。これは…蜂蜜か?うん、美味い。
サクサクと軽い食感で口当たりが良い。口の中の水分が持っていかれそうなボソボソ感もない。甘さもちょうど良い。
あっという間に全部を食べ終え、空になった袋を綺麗に畳む。ふと、袋に刺繍された名前を見つけて手を止めた。
「エリス・インベルか。これ、返しに行かないとな。」
ディルターは袋を机の隅に置き、口の中の残り香を楽しむようにゆったりと椅子にもたれた。




