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 「ご主人様、朝ですよ。起きて下さい。」

 「ん…」


 耳元で囁く柔らかい声に、薄く目を開ける。毛布に包まれた身体がやや汗ばんでいる事に軽い不快感を感じていると、こちらを覗き込むエリスと目が合った。明るい部屋と額に触れる冷たい空気。今日もまた幸せな一日が始まったのだと実感する。


 「おはようございます。」

 「あぁ…おはよう。」

 「朝食ができてます。顔を洗ってから来て下さいね。」

 「分かった。」


 ディルターはベッドから降りて軽く背伸びをしてから上着を羽織り、用意されたばかりの湯で顔を洗った。


 ディルターとエリスは雇用主と家政婦の関係になり、それに合わせて互いへの言葉遣いが変わった。ディルターはエリスを呼ぶ時は『エリスさん』のままだが口調は部下に対するものと同じようになり、エリスは敬語のままだがディルターの事を『ご主人様』と呼ぶようになった。これだけでも大分距離が縮まったと思ったが、何よりも嬉しいのはエリスがそっけなかった態度から一変して以前のような素直な笑顔を向けるようになった事だった。


 清潔な布で顔を拭き、扉の隙間から漂うスープの良い匂いに鼻先を遊ばせる。その匂いに誘われるようにキッチンへ向かうと、エリスが表面を軽く焼いたパンを並べていた。他にはスープやサラダ、カットした果物が用意されている。


 ----眩しい!生きてて良かった!!


 二人で生活をするようになってからまだ数日しか経っていないが、きちんと整理整頓された部屋と美味しそうな食事、そして微笑むエリスの立ち姿は、すでにディルターの生活には欠かせないものになっていた。

 目の保養なのか、目の毒なのか。眉間を押さえて『くっ』と感激していると、ふと、皿に盛られたサラダの中に赤いものが見えてスッと視線をそらせた。


 ----あれは…()()だな…


 ディルターは席に座り、エリスが座るのを待ってから食べ始めた。本来雇用主と使用人が共に食事をする事はないが、ディルターの意向で一緒に食べる事になっている。それは『私はあとで頂きます』と言って遠慮するエリスに言い渡した、最初の決め事だった。


 「あら。」

 「…。」

 「ご主人様は好きなものを最後にとっておくタイプなんですね。」

 「いや、その…」

 「そんなにお好きならもう少し切りましょうか?」

 「いいッ!いらんッ!これでも十分多いぐらいだ!!」


 立ち上がるエリスを勢いよく引き止めたは良いものの、続きが思い浮かばない。ディルターが持って行き場の無いバツの悪さに口を真一文字に結んでいると、エリスはキョトンとした顔で皿にポツンと残されたものを見た。


 「もしかして、トマトがお嫌いなんですか?」

 「う…嫌いというか…」

 「嫌いなものがあるのは恥ずかしい事ではありませんよ。多すぎるのは良くありませんが…」

 「嫌いというより苦手なんだ。特に皮と緑色のドロッとしたものが気持ち悪くて…」

 「なるほど。」


 エリスはディルターの皿をキッチンへ持っていき、皮と種を取り除いて実だけになったものをディルターの前に静かに戻した。ディルターの喉の奥から、ほとんど噛まずに飲み込んだ音が聞こえてくる。


 「どうですか?」

 「これならまだ大丈夫だ。でも、できればもう食べたくない。」

 「フ…フフ…分かりました。他にもお嫌いなものはありますか?あと、お好きなものも教えて下さい。」

 「嫌いなものは香りの強い野菜やハーブ類と甘いもの。好きなものは…特に無いな。あえて言うなら嫌いなもの以外だ。」

 「分かりやすくて助かります。ですがハーブ類は料理に欠かせないものですので、使用量は控えますが香りが強かったら仰って下さいね。」

 「ん。」


 ディルターは喉を通ったトマトの残り香を洗い流すようにミルクを一気に飲み干し、口を拭いて立ち上がった。


 「そろそろ出かける。」

 「はい。お荷物をお持ちしますね。」


 エリスはキッチンに置いてある布で包んだカゴを手に取り、ディルターに手渡した。ディルターの昼食だ。仕事が忙しくてしょっちゅう食べるのを忘れると言うディルターに、エリスの方から持っていく事を提案した。中身は片手でもすぐに食べられるように、サンドウィッチが入っている。


 「ありがとう。そうだ、今度は君の好き嫌いについて教えてくれ。」

 「私は好き嫌いはありませんよ。何でも食べます。」

 「素晴らしいな。さっきの事を忘れてほしいよ。」

 「あら、でもそのおかげでトマトはもう食卓に出てきませんよ。」

 「それもそうだ。じゃ、行ってくる。」

 「はい。行ってらっしゃいませ。」


 ディルターはニッと笑ってマントを翻し、フェルデラン館の方へ歩いていった。その背中が見えなくなるまで扉の前で見送り、家の中に入る。今日は朝から天気が良くて空気も澄んでいるので、食器の後片付けをした後すぐに洗濯をすれば夕方には乾くだろう。その後パン焼き屋に捏ねた生地を持っていって、焼き上がるのを待っている間に買い物をすれば昼過ぎには帰ってこれる。


 ----どうなる事かと思ったけど…なんとかやっていけそうね。


 ディルターへの罪悪感がある状態で同居など、上手くやっていけるのかと心配していた。しかしディルターの方はまったく気にする様子が無かった。むしろさっきみたいに子供のような部分をチラチラと見せてくる事の方が、エリスにとっては心臓に悪い。


 ----ダメダメ、余計な事は考えない!


 エリスは全ての部屋の扉と窓を開け放ち、胸いっぱいに冷たい空気を吸い込んだ。


*


 午前の会議が終わり、正午に差しかかった頃。会議室を後にしたディルターの後ろから、第三隊隊長のトーガが声をかけてきた。


 「団長、今日は一緒に昼食食べに行きませんか?良い店を見つけたんですよ。」

 「悪いな、今日はもう持ってきてるんだ。」

 「え!?団長のお手製ですか!?」

 「いや、違う。家政婦に作ってもらったやつだ。」

 「えぇ!?家政婦を雇われたんですか!?あんなに他人に入られたくないと仰ってたのに!」

 「ハハハ、ちょっと事情が変わってな。まぁそういう事だから皆で行ってきてくれ。」


 驚愕のあまりポカンと立ち尽くす部下に『満面の笑み』というトドメを刺し、ディルターは颯爽と廊下を歩き去った。団長室に入るなり荷物を開けて、いそいそと包みを取り出す。空腹の音がこの瞬間を祝うオーケストラのように聞こえるこの時間が、勤務中の唯一の楽しみになっていた。

 その幸せな時間に小さな花を添えるように、横からマーシャンが声をかけてきた。


 「今日も美味しそうですね。」

 「美味しそうじゃない。美味いんだ。」

 「失礼しました。」

 「しかも毎日食べても飽きないように具を変えてくれてる。」

 「それはそれは。団長の為にそんな細やかな気遣いをしてくれるなんて優しい方ですね。」


 フフン、とディルターの背後に大量の小花が咲き乱れる。マーシャンは『今のうちだ』と、大量の書類を団長机の端に置いた。案の定、サンドウィッチに夢中で追加書類の存在に気付いていない。

 マーシャンは素早く身を返して扉へ向かった。


 「では、私も昼食を食べに行ってきます。」

 「あぁ、分かっ…うん!?」

 「あ、そちらの書類は明日の午前中までですので、よろしくお願い致します。では。」

 「おい!…はぁ、ったく。」


 ディルターはチラと書類に視線を移し、決裁にかかる時間をザッと計算した。明日は朝から自警団組織の本部へ行き、各団体の責任者と会うことになっている。午前中に終わらせるには今日中にほとんど終わらせなければならない。


 ----ギリギリまでやって、あとは持って帰るか。


 以前ならばこういう時は団長室に泊まり込んで仕事をしていたが、今は違う。エリスと温かい夕食が待っている家に帰らないという選択肢など、もはや浮かぶ事すらないのだ。

 そしてその予定通り、ディルターは定刻を少し過ぎた頃にフェルデラン館を出て、窓の隙間から灯りが漏れる家に帰った。


*


 部屋の中央に設置された大きな机の上に、地図が広げられている。交易都市トレンタの東地区バーレの地図だ。この地区を担当しているのは騎士団の第二隊。隊員達は真剣な面持ちで地図を囲み、副隊長ベネソンから指示を受けていた。


 「ーーー以上だ。今日は隊長が不在の為、俺が同行する。集合には遅れるなよ。」

 「はっ!」


 隊員達はベネソンが部屋を出て行ってからすぐに各自の持ち場に戻った。今日のように午後から長時間出かける日は、午前中に少しでも仕事を終わらせなければその分残業時間が延びるからだ。それだけは何としても避けたい。そんな、誰もが同じ思いで黙々と仕事に取りかかっている中、部屋の片隅に立つ二人の男が持っている資料の陰でコソコソと話しをし始めた。


 「なぁ、お前、団長のあの噂知ってるか?」

 「あぁ、家政婦を雇ったっていう、あれか?」

 「そうそう。それのおかげで最近ずっと機嫌が良いらしいぜ。」

 「え!家政婦を雇ったって噂、本当だったのかよ!?」

 「本当だって!毎日手作りの昼食を持参して食べてるらしいぞ。しかもほとんど残業せずに早く帰るようになったらしい。」

 「そうらしいな。仕事が残ってたらわざわざ持って帰って家でするらしい。」

 「この前鼻歌歌ってるとこを見た、って奴がいた。」

 「えぇえぇぇ〜!!」

 「俺は昨日、何も無い場所で急にニヤけだした瞬間を見た。」

 「うっそ…あの団長が!?」


 最初は二人だったはずが、いつの間にか全員がドーナツ状に集まっている。噂話の中心人物が他の誰かであればここまで夢中になる事は無いが、それが他でもない団長ディルター・ベルナントであれば話は別だった。


 「一番の驚きは、団長自らが頼んだらしいって事だよなぁ。」

 「それな。団長がそこまでするなんて一体どんな人なん…うん?」


 ふと、顔を上げる。そのまま耳を澄ませば、誰かが廊下を走ってくる足音が室内まで響いてきた。その急いでいる様子から緊急事態である事が伝わってくる。隊員達が互いに視線を交わして状況を探っていると、その足音はこの部屋の扉が勢いよく開けられたと同時に止まった。足音の主は、今日受付所を担当している同じ第二隊の同僚だ。男は目を見開き、肩で大きく息をして、乾き切った喉から声を振り絞った。


 「はぁ、はぁ、た、大変だ!!」

 「なんだよお前かよ。持ち場を離れて何やってんだ。」

 「来た!来たんだよぉぉ!」

 「は?誰が?つーか、うるせーよ。」

 「団長の…噂の家政婦だ!!」

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