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肌を刺す冷たい空気に震えながら服を着替え、窓を半分だけ開けて換気する。食事の準備をしようと朝食用にカゴから取り出したパンは、元々固かったものが寒さと乾燥でさらに固くなっていた。
ちぎった野菜と塩を入れた鍋を片手に家を出て井戸へ行き、水を汲んで共同の竈の火にかけた。誰かが先に火力を調節しておいてくれたおかげで沸騰するまであっという間だ。エリスは出来上がったスープにパンを入れて、もう一度沸騰するまで待った。
----ん、もういいわね。
鍋を持って家に戻る頃には身体はすっかり冷え切り、暖を求めてさっそくスープを口に入れた。節約の為に朝食には調味料はほとんど使わないが、身体を温め空腹を満たすには十分だった。
後片付けをした後は洗濯でもしようかと思っていたが、どうにもやる気が起こらない。今だけではなく、ここ最近はずっとそんな感じが続いている。その理由が分かっているだけに、エリスは気付けば溜息ばかりついていた。
----こんな事、いつまで続ければいいのかしら…
ディルターへの態度に対する罪悪感。
婚約者がいる男とこれ以上親しくなってはいけないと自分に言い聞かせ、変わらず親しげに話しかけてくるディルターには仕事用スマイルで対応するよう心がけた。それ自体は普段の仕事の延長みたいなものなので苦にはならなかったが、なぜかその度に悲しそうな顔を向けてくるディルターを見ては、何度も胸が痛くなった。
----ううん、これでいいのよ。こういう時は私の方がしっかりしなきゃ。一人で生きていくのが私の望んでいた事でしょ!
罪悪感に負けて一瞬でも迷ってしまえば全てが水の泡になる。やはりこのまま『ちょっと親しくなった店員と客』の距離を保ち続けるべきだ。エリスは何度も出した同じ結論に頷き、吹っ切るように立ち上がった。
----まだ時間あるし、買い物でも行こうかな。
首にストールを巻き、財布と買い物カゴをテーブルに置いた時だった。
トントン
----うん?
扉をノックする音に返事はせず、そっと近付いて小さな覗き穴から訪問者を確かめる。女の一人暮らしの鉄則だ。相手の背が高くて小さな穴に顔は映っていなかったが、身につけている武具で誰かはすぐに分かった。ストールを外し、サッと身だしなみを整えて扉を開ける。
「ベルナント様?」
「突然来てしまってすみません。エリスさんに話があるのですが、今お時間はありますか?」
「はい、大丈夫ですよ。どうぞお入り下さい。」
「いえ、ここで結構です。」
ディルターは中に入ろうとはせず、玄関先で話したいと言った。エリスはその意図を察してストールを巻き直して外に出た。
「実は、折り入ってあなたに頼みたいことがあるのです。」
「何でしょうか。」
「うちの家政婦になってもらえませんか?」
「家政婦?」
ディルターがコクリと頷く。雇っていなかったのかと不思議に思った直後に当時の惨状を思い出し、雇ってなかったからああなったのかと納得した。
「実はあまりにほったらかしにし過ぎて、毎日マーシャンに小言を言われているんです。でも俺は一日のほとんどを留守にしているので、家政婦を雇うとなると何かと慎重にならなくちゃいけなくて…」
これにはエリスも頷いた。ディルターの家は汚れ物で散らかっているだけではなく、床や家具の後ろに金目のものがたくさん落ちていたのだ。持ち主が落としている事に気付いていないものなど、誰でも容易く盗める。
「信頼できる者を雇いたいと考えた時、エリスさんの事しか思い浮かばなかった。それにあなたにはもう俺の家の状態を見られているし、実際に掃除や洗濯をしてくれたので俺としても頼みやすいんです。」
「でも…ベルナント様はいずれ王宮に戻られるんですよね。その後の事を考えると…」
「もちろんその時は新しい仕事先を紹介します。今のような日雇いの仕事ではなく、きちんと雇用契約を結んで万が一の時も生活を保障してもらえるような仕事を。」
「そこまでして下さるんですか?」
思わぬ申し出にエリスは目を丸くした。
エリスが働いているマット・グラーシュは客が多い分給金は良い。しかしオーナーの意向で若い働き手を次々と雇っては古株を解雇して店内の年齢層を一定に保っていた。そう遠くない未来に自分の番が回ってくるだろうと思っていたエリスにとっては、まさに願ってもない話だった。
「こちらの都合で今の仕事を辞めてもらうのですから当然です。ここも引き払ってもらう事になりますし。」
「え?引き払うって…ここから通うんじゃないんですか?」
「俺の家にもう一部屋あるのを覚えていますか?あの部屋をエリスさんの部屋として使って下さい。ここから毎日通うのは距離的に難しいですからね。」
「え!?一緒に住むんですか!?」
「はい。家でも王宮でも、使用人は住み込みが基本です。朝食の準備で朝起きるのも早いでしょうし、夜が明け切らないうちから一人で外を歩くのは危険ですから。」
「確かにそうですが…でも…」
「大丈夫ですよ。この仕事を受けてもらえるならきちんと契約書を交わします。エリスさんが気にしているような事が起こらないようにしますから、そこは安心して下さい。」
ディルターは穏やかな表情で微笑み、『どうですか』と仕草で聞いてきた。それを見て、エリスは口を閉じて考える。これがもし他の男からの申し出であれば詳細を聞く事なく断っていたが、すでに安心して聞いている時点で答えはほぼ出ているようなものだ。エリスは自分の気持ちに素直に従う事にした。
「分かりました。そこまで仰って下さるのなら、そのお話をお受け致します。」
「本当ですか!?」
「はい。」
「良かった。では今日中に契約書を作成しますね。さっそく明日から来てもらいたいので、店には今日付けで辞めると伝えて下さい。」
「分かりました。でも今日中に荷物をまとめるのは無理です。」
「ではいつからなら来られそうですか?」
「そうですね…明日一日で荷物はまとめられますので、明後日からなら。」
「分かりました。では明後日の朝に迎えに来ますね。」
「はい、よろしくお願いします。…クシュッ、すみません。」
くしゃみをしたと同時に冷たい風が二人の間を吹き抜け、エリスは顔の半分が隠れるぐらいまでストールを引き上げた。朝食の用意をしに外へ出た時よりも風が強くなっている。
「大丈夫ですか?謝るのは俺の方です。寒い中立ちっぱなしにさせてすみません。さ、中に入って下さい。」
「はい。ベルナント様、お帰りの道中お気を付け下さいね。」
パタンと閉じた扉を見て、顔の筋肉を解放する。ディルターは片手で顔を覆い、ニンマリと緩む口の端を存分に引き上げた。
----よしッ!よぉぉーーーしッ!!
心の中で両手の拳を天高く突き上げ、急いでフェルデラン館へ戻った。
*
エリスは扉を閉めて冷たくなった両手を擦り、ゆっくりとベッドに腰を下ろした。
----思わず受けちゃったけど、良かったのかしら…。
ディルターを慕っているというわけではないが、彼に対して好意は持っているし、嬉しいと思う気持ちは真実だ。それに散々世話になりながら失礼な態度をとったのに、それでもエリスを信頼していると言ったディルターの温かい優しさには胸が震えた。
----本当に、なんて良い人なのかしら。自分が帰った後のことまで気にかけてくれるなんて。
ディルターの言っていた通り、一人で生きていくには日雇いの仕事よりも契約書で守られた仕事の方が良いに決まっている。こういう上手い話で身分の低い者を騙そうとする貴族は大勢いるが、ディルターは絶対しないと断言できる。そういう意味ではエリスもまたディルターを信頼していた。
それなのになぜか胸の奥がチクと痛む。きっと『安定した仕事』という魅力に負けて距離を保つ事に失敗した自分の情けなさに呆れたからだろう。決して側にいるのがつらいからではない。
----さて、忙しくなるわね。
気合を入れて深呼吸をする。エリスは買い物に行くのをやめて、今から明日中にするべき事の計画を立て始めた。
*
二日後の朝、エリスは約束通り迎えに来たディルターに連れられてフェルデラン館へ立ち寄り、団長室でマーシャン立ち合いのもと、さっそく契約を交わした。
内容は至ってシンプルで、仕事内容と守秘義務、そして給金と保障について書かれているだけだ。ダラダラと長い文章で紙面を埋め尽くされたような難しいものを想像していたが、最低限の事が短文でまとめられていた。そして最後には何か問題が起これば全責任はディルター・ベルナントが負うとまで書いてあった。その際のエリスが負うべき責任については一切書かれていない。
そこまででも身に余る内容だったが、エリスを最も驚かせたのは提示された給金だった。
----え!?こんなに!?
給金が、マット・グラーシュで働いていた時の二倍近くある。住み込み・食事付きという条件の上での金額だ。たまに身の回りのものを買うぐらいなら、記載されている金額の半分でも多いぐらいだった。
「何か気になる点はありませんか?」
「あの、給金についてなんですが…」
「少ないですか?」
「多過ぎます!」
「ではこれで良いという事ですね。マーシャン、これで進めてくれ。」
「はい。」
「でもこんなに…」
「その分仕事はあります。それに俺が不在の時は家を守ってもらわないといけませんから。」
ディルターは当然の事のように言うと羽ペンを手に取り、二枚の契約書にサインをした。エリスも手渡された羽ペンでサインをするが、緊張して文字が歪んでしまう。それもこれも、視界の端に映る不相応な給金のせいだ。
やはりもう一度契約書を作り直してもらおうか。エリスがサインした契約書をジッと見ていると、横から伸びてきた手がそれらをサッと取り上げ部下に手渡していた。
「これで契約の件は良いですね。では俺の家へ行きましょうか。」
「お待ち下さい。」
立ち上がるディルターを、横からマーシャンの声が引き止める。マーシャンは片眉を上げて振り向く男を無視して、懐から布を取り出しエリスに差し出した。
「これを。」
「これは?」
「マスクです。絶対に必要になります。」
エリスはやや強引に手渡された布に首を傾げた。前回も大変だったが、マスクがいる程ではなかったからだ。それに掃除をしてからまだ一か月程しか経っていない。
「ありがとうございます。」
「もういいか?エリスさん、行きましょう。」
「はい。」
ディルターはエリスから見えないようにジロッとマーシャンを睨みつけ、エリスを連れて団長室を後にした。