13
寝室を出てキッチンへ行き、鍋を火にかける。鍋の中は細かく刻んだ肉や野菜とオートミールを舌で潰せるぐらいまで柔らかく煮込んだものだ。今夜の分と明日の朝食の分を作っておいた。
温まるまでの間に別の鍋で湯を沸かし、布を取りに行った。薄暗い部屋の中でふと窓の外を見ると、いつの間にか空が灰青色になっている。エリスは外から運ばれる綺麗な空気が夜風に変わる前に窓を閉め、部屋の灯りをつけた。
----そろそろ迎えに来る頃ね。
マーシャンが来るまでに食事と着替えを済ませておきたい。エリスは熱くなった鍋を火から下ろし、温かい湯と布を持って寝室に戻った。
「お食事の前に着替えましょう。起きられますか?」
「ん…ありがとう。」
あらかじめ用意していた着替えをベッドに置き、湯に浸して絞った布をディルターに渡した。なんとか身体は起こせても服を脱ぐのはつらそうなので、目をそらしつつ手伝う。指先が触れた肌はまだ熱く、エリスは眉尻を下げた。
「私のせいで申し訳ありません。」
「あなたのせいでは無いですよ…っと…」
「あ、お背中は私が拭きましょうか。」
「お願いします。」
布を受け取り、もう一度布を温めて振り向くと、目の前に現れた筋肉質な背中に思わず息を呑んだ。
----すごい、どうなってるのこれ…
結婚していた時にルーカスの上半身を何度も見た事があったので、何も考えずに申し出た。しかしルーカスとは身体の『造り』そのものが全然違うようだ。隆々とした筋肉が全身を覆い、皮膚ですら硬そうで、柔らかそうな部分は皆無に見えた。
----どうしよう…心臓の音、聞こえそう…
そっと布を当てた部分が一瞬ピクッと震える。ただそれだけの事で煽られる羞恥心を必死で抑え、指先が震えているのを悟られないように布をしっかりと掴んで拭き続けた。
----それにしても広い背中ね。騎士の身体って、皆こうなのかし…
「エリスさん。」
「はははい!?」
「?ありがとうございます。後は自分でできますから。」
「あっ、じゃあ、もう一度布を温めますね!せ、洗濯物は、このカゴに入れておいて下さい!」
布を渡し、カゴをベッドの横に置いて、エリスは逃げるようにベッドから離れた。部屋を出る前に立ち止まり、振り向かずに声だけをディルターに向ける。
「お食事を持ってきます!それまでにお着替えを済ませておいて下さい!」
そそくさと出て行く背中が閉じた扉の音と共に見えなくなり、小さな足音が消えていく。ディルターは身体を拭きながら、ポカンとした顔で扉を見つめた。
----なんであそこまで赤くなるんだ?男の身体なんて見慣れて…あ。
ピタッと手を止めて、ルーカスの言葉を思い出す。
----アイツは、結婚はしていても男女間の事は一切無いと言っていた。つまり、もしかしてエリスさんはまだ…って、まさかな。あんな綺麗な人が恋人もいなかったなんてありえないだろ。
自分の言葉にズゥンと落ち込み、心を無にして急いで着替える。脱いだ下着は悩んだ末に、肌着に包んでからカゴに入れた。
*
部下のマーシャンが様子見がてらエリスを迎えに来たのは、ベッドで食事を終えて薬を飲んでいる頃だった。
「団長、ずいぶんお顔の色が良くなりましたね。安心しました睨まないで下さい。」
マーシャンはジロッと睨みつける上司の目に感謝の色も見てとり、得意げにエリスに向き直った。
「エリスさん、ありがとうございました。」
「いえ、これぐらいは当然ですから。」
「もっと早く来るつもりだったのですが会議が長引いてしまって。遅くなってすみません。」
「お気になさらないで下さい。私もベルナント様が落ち着かれるまではと思ってましたので。」
エリスから見えないところで嬉しそうに頬を綻ばせる上司をチラと見る。マーシャンが口を開こうとする一呼吸前に、エリスが口を開いた。
「では、私はこれで失礼します。ゆっくり休んで下さいね。」
「あ…迷惑をかけてすみませんでした。ありがとうございま…おい。」
向かい合う二人の間に差し込まれた手がディルターの額にピタリと止まる。同じ冷たい手でもこれ程気色悪く感じるものかと怒りを覚えた時、マーシャンのわざとらしい小芝居口調が部屋に響いた。
「あれ!?あれあれあれ!?団長、熱がまた出てきたようですよ!?」
「は?何言ってる。俺はもう」
「いーえっ!熱いです。これは大変だ。夜中に悪化でもしたら大変だ。」
マーシャンは腕を組み、顎に手をついて考え込んだ。そして妙案が浮かんだと言わんばかりに顔を上げ、懇願するようにエリスに詰め寄った。
「部屋はもう一室ありますし…そうだ。エリスさん、お願いです!今夜一晩だけ団長をお任せしてもいいですか?」
「バッ…何を言ってるんだお前…!!ゴホッ、ゴホッ!」
「ほらぁ、まだ治っておられないじゃないですか。」
「俺はもう大丈夫だ!エリスさん、この馬鹿の言う事など気にせず帰って下さい。俺はもう大丈夫ですから。ゴホッ、ゴホッ」
「この状態で出勤したら余計に悪化しますよ。」
「お前は黙ってろ!!」
「あの…」
エリスの声で男達の喚き声がピタリと止まり、二人は続きを待つように静かに口を閉じた。
「一晩だけでしたら、ご迷惑でなければ…」
「えっ…いや、でも、いくらなんでもそれは…」
「本当ですか!?ありがとうございます!我々部下一同も、そうして頂けるとどれだけ助かるか!体調と機嫌の悪い団長の訓練はそれはもう厳しくて厳しくて。」
「うるさい!また謹慎させられたいのか!?」
「いえ、私もこのまま帰っていいものかどうか気になっていましたので。でも私がいることでベルナント様にご迷惑をかけてしまうのではと思い、言い出せなかったんです。」
たとえ看病の為とはいえ、独身男の家に女が泊まるのは外聞的に良くない。ましてや騎士団長という立場ならば、なおさら身の回りの事に注意する必要があった。マーシャンが『ふむ』と声を落とす。
「それはエリスさんとの仲を誤解されたら困るようなお相手がいるかもしれない、という意味ですか?」
「はい。」
「確かに団長には婚約者様がいらっしゃいますが、まったく問題はありませんよ。」
----え?
「余計な事を言うな!」
「イタ!!今本気で殴りましたね!?」
----コンヤクシャ…って、え!?婚約者がいるの!?
「当たり前だ!お前やっぱり…エリスさん?」
頭の真上から雷が落ちてきたような衝撃に、男達の会話がまったく耳に入ってこない。しかし自分を覗き込む男の顔が視界に映った瞬間、心臓が冷える感覚にゾクリと背筋が凍った。婚約者がいるのに、あんなに思わせぶりな態度を取る男だったのか。
----違う…私がベルナント様の優しさを勘違いしただけ。もしかしたらって勝手に期待して…
胸が痛い。息ができない。恥ずかしい。腹立たしい。
身体中に刺すような痛みが走る。
エリスはギュッと唇を噛み、鼻から思い切り息を吸って男に笑顔を向けた。
「でしたら、やっぱり帰りますね。」
「いや、あの…」
「お薬は全部飲んで下さいね。お食事はまだお鍋にありますから、それを召し上がって下さい。オグバース様、送って頂けますか?」
「分かりました。まぁ…確かに事情はどうあれ、男女が同じ屋根の下にいるなんてエリスさんにとっても良くないですしね。」
ピクッ
「こんな事で変な噂が広まって、エリスさんの今後の交際に悪い影響が出たりしたら、我々としても心苦しいですし。」
ピクピクッ
「うん、やはりお送りします。後は我々が交代で看病をしに…」
「来んでいい!エリスさん!」
「は、はい!?」
「今夜だけ、看病してもらっても良いですか?」
「え、でも…」
「お願いしま… ゴホッ、ゴホッ、ゲホォッ!」
「大丈夫ですか?早くベッドに横になって下さい。」
エリスはディルターの肩を支えてベッドに寝かし、毛布をかけた。マーシャンの言っていた通り、また熱が上がってきている気がする。
「やれやれ…。エリスさん、そういう事ですので団長の事よろしくお願いします。明日の朝にまた来ますね!」
やはり心配している割に声が明るい。マーシャンはさっさと部屋を後にして、走って玄関から出て行った。
「え?ちょ、ちょっと、そういう事ってどういう事です!?」
急いで扉を開けるがすでに気配は無い。合鍵を渡されたまま出ていかれては、帰るに帰れなくなってしまった。エリスは諦めの溜息をつき、扉を閉めて椅子に戻ると、ディルターがゼェゼェと呼吸を荒くしていた。
「本当に熱が上がってきてるみたいですね。…やっぱり放っておけないわ。」
帰るべきだという気持ちはあるが、自分のせいでこうなったという責任もある。それ以前に苦しんでいる病人を一人置いていく事などできない。
グルグルと言い訳じみた言葉を考えながら水に布を浸す。その布をディルターの額に置いていると、横から伸びてきた手がエリスの手の上に重なった。
「エリスさ…いて…く…たん…すね…」
「はい。今夜はお側にいます。」
「はぁ、良かっ…う、寒…」
「寒いですか?もっと温めた方が良いかしら。」
エリスはふと、隣の部屋にもう一枚毛布があった事を思い出した。
「待ってて下さい。隣から毛布を…きゃあ!」
突然腕を引っ張られ、エリスはベッドに倒れ込んだ。目の前にはディルターの喉仏が揺れている。その揺れる先から掠れた声が聞こえてきた。
「どこ…行く…?」
「あ、あ、あのっ、とと隣の部屋から毛布を取ってきます!」
「そ…なの…いらな…」
「え?えぇ!?わっぷ」
開いた毛布の隙間から伸びてきた手がエリスを掴み、一瞬で中へと引き込んでいく。エリスは抵抗する事もできないまますっぽりと腕の中に閉じ込められ、ガッチリと抱き締められた。
「ちょっ…」
「気持ち良い…ど、か…このま…ま…」
熱で疲れたのか、スゥと寝静まる息遣いが聞こえてくる。抜けだそうにも、抱き締められている上に腕が重くて出られない。さらにそのせいで身動き一つ取れず、固まるしかなかった。
----もう、ほんっとに信じられない!婚約者がいるくせに!もしかして誰にでもこんな事するの!?
怒りと羞恥と後悔で心臓が激しく脈打ち、意思に反するように瞼の奥が熱くなってきた。悲しいわけでも、苦しいわけでも無い。ただ自分で自分が恥ずかしくなった。
貴族令息なのだから婚約者がいてもおかしくはない。それよりも未だ独身でいることの方が不思議に思うぐらい素敵な人だと思う。
----婚約者、か。
大嫌いな言葉だったが、今はその言葉のおかげで目が覚めた。自分とは住んでる世界が違う人と深く関わっても良い事などない。
----これきりにしなくちゃ。オグバース様がわざわざ言ったのは…そういう意味よね。
胸元からディルターの汗の匂いがする。今だけはこの温もりを独占できる。
エリスは二人の胸の間に腕を差し込み、静かに目を閉じた。