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----冷たい…。柔らかいし…気持ちいい…。なんだコレ…
こめかみに当たっているものを掴んで頬に押し当てる。ひんやりとした心地良さに安堵の息が漏れた。
----なんでもいいか…はぁ、落ち着く。良い匂いだな…うん?良い匂い?
そんなものがこの家にあるわけが無い。
ディルターはゆっくりと目を開け、ぼんやりした視界の中にいる人の顔をじっと見つめた。鬱陶しいマーシャンの顔が麗しいエリスの顔に見える。とうとう幻まで見えるようになってしまったと思った途端、ひどい頭痛を感じて一度目を閉じた。
「苦しいですか?」
「あぁ…頭が痛…え?」
パチと目を開け、少し顔を上に傾ける。視線の先にいるエリスと目が合うが、追いつかない思考のせいで何も言葉が出てこなかった。
「頭が痛いのですか?」
「は…え?エリス…さん…?ゲホッ、ゲホッ…ッ!?」
咳き込んだ衝動で背を丸め、掴んでいるものをギュッと握り締める。頭上で『うっ』という声が聞こえて目を開けると、目の前にある自分の手が小さな手を掴んでることに気が付いた。
----これ…そうか、匂いの正体はこれか?
熱のせいか『離す』という選択肢が脳内に浮かばない。ディルターは小さな手を鼻先に寄せて、確かめるように匂いを嗅いでみた。やはり良い匂いがする。目を閉じ、胸いっぱいに吸い込んでいたら、今度はエリスの困った声にハッとしてようやく手を離した。
「す、すみませ…ゲホッ、ゴホッ!」
「大丈夫ですか?ちょっと待ってて下さい。」
咳き込む自分の音の向こうからエリスの足音が聞こえてくる。だんだん小さくなっていく足音に得体の知れない不安が押し寄せるが、気が付けばすぐ側にエリスの気配を感じて目を開けた。さっきまで握っていた手にトレイを持っている。
「お水とお薬です。身体を支えますから少しでも飲んで下さい。」
「ん…」
抵抗する力もなく言われた事に従い、ディルターはグラつく頭を抱えてゆっくりと上体を起こした。肘で身体を支えるのがやっとの状態だが、エリスに後ろから支えられているおかげで倒れずに済んでいる。開けた口の中に入れられた薬と水を飲み、力尽きたように再びベッドに倒れ込んだ。
「あ…の…エリ…」
「しー…」
エリスの冷たい人差し指が唇に触れる。たったそれだけで身体中の自由を奪われた事に、痺れるような目眩を覚えた。
「今は何も考えずに眠って下さい。」
「はい…あ…手…を…」
「はい?」
「手、を…かし…て…」
「手、ですか?」
エリスがそっと手を差し出す。ディルターは震える手でエリスの手を掴み、口元に寄せて指先にキスをした。頬に当てるとやはり心地良い。
「え!?ああああの、ベルナント様…」
「ねむ…まで…ど…か…このま…」
息苦しそうな呼吸がスゥッと穏やかな寝息に変わり、大きな手がスルッと落ちていく。エリスは毛布をディルターの肩まで掛けて、トレイを持って部屋を出た。そして扉を閉めた瞬間、胸の奥に留まっていた息を一気に吐き出した。
----ビックリしたぁぁぁ!!な、何よあれ!
エリスの手を握るディルターの甘えた表情が目に焼き付き、目を閉じた今でもバッチリと再生されている。普段は毅然とした態度でいるだけに、そのギャップはエリスの心をギュッと締め付けた。
----あんなの反則でしょ…違う違う、ダメダメ。
心臓がバクバクと鳴り響くのは、指先にキスをされた衝撃でずっと息を止めていたからだ。それ以外の理由があってはならない。エリスは深呼吸を何度も繰り返し、掃除の続きをしてさっさと忘れることにした。
*
ふと、身体に微かな軽さを感じて目が覚める。まだ頭は痛いが、それでも朝よりは気分が楽になっていた。窓の外の陽の角度から、夕方に差しかかる頃だと分かった。
----ずいぶん寝たな…
ついさっきまで身体中が痛み、苦しくてもがいていたのが嘘のようだ。それもこれも、暗闇を照らすエリスの笑顔を見たせいだろうか。夢の中のエリスは相変わらず美しくて慈悲深く、良い匂いがしていた。ちゃっかり手を握ってみたが、冷たくて気持ち良かった。何もかもが愛しくて、まるで自分の為に天から舞い降りた女神のように思えた。
----もう一度寝たらまた会えるだろうか…うん?
視線だけを動かして部屋を見渡してみる。片付いている部屋とテーブルの上に置かれた水とカップと薬が目に入り、ディルターは感心したように息をついた。
身体が動かせるかを確かめがてらベッドから降り、ゆっくり歩いて部屋の扉を開ける。そこには初めてこの家に来たばかりの頃とほぼ同じ状態の部屋があり、ディルターは思わず目を見開いた。床に物が落ちていない。
----これ、マーシャンがやったのか?
壁に手をついて隣の部屋も確認してみるが、やはり片付いている。キッチンも浴室も綺麗に掃除されていて、開け放たれた窓からは冷たくも清らかな風が室内の淀んだ空気を浄化していた。
----マーシャンの奴、器用な男だとは思っていたがここまでできるのか?
カタン
----ん!?
裏口の外から物音がして咄嗟に振り返る。息を潜め、外に人の気配がある事を確認してからゆっくりと近付いた。念の為に剣を持って足音を消し、勢いよく扉を開けた。
カッシャーン…
「あら?もう起き上がれるようになったんですか?」
開けた先ではエリスが洗濯物を広げて物干しの前に立っている。ディルターは何事も無いように干し続けるエリスの背中をマジマジと見つめて声を振り絞った。
「な、な、エリ、エリスさ…な、なん…でぇぇ!?ゴ、ゴホッ、ゴホッ!」
干された洗濯物を見て思わず声が裏返り、その反動で激しくむせ返った。物干しには衣類や布が大量に干されているが、その中に紛れるように下着が何枚も干されている。何枚もという事は、いつ脱いだものかも分からない古いものもある、という事だ。
あまりの光景に声を出せず、プルプルと指をさすしかない。エリスは向けられた指先を目で追い、タランと伸びる下着に目を止めて顔を赤くした。
「すみません!あの、汗をかかれていたのでお着替えを用意しようと思ったら、替えの肌着も下着も無くて…」
「…。」
「気にされるかと思ったのですが、無くてもお困りになるでしょうし…。あ!でも、男性の下着を洗うのは慣れてますから、その辺りの事は…」
「いえ、もう…それ以上は…」
エリスの必死の弁明をディルターの手がやんわりと制する。慣れていようが慣れてなかろうが、汚れたものを見られたショックは変わらない。ディルターはフラリと身体を傾けて壁に寄りかかり、落とした剣を拾った。
「ベルナント様!大丈夫ですか!?」
駆け寄ったエリスに支えられて寝室へと戻る。ベッドに横たわり、毛布の中で再び熱くなりはじめた身体を丸めて両手で顔を覆った。
----最悪だ…。
「あの、お食事を用意してあります。食べられそうですか?」
顔を隠したまま毛布から出てコクリと頷く。空腹には逆らえない。
「良かった。すぐに用意しますね。」
エリスが立ち上がる音に、意識が朦朧としていた時に感じた不安が不意に押し寄せ、ディルターは咄嗟に腕を伸ばして服を掴んだ。
「あの…ありがとうございます。」
熱を出して弱っているせいだろうか。何も言わずに小さく頷くエリスの笑顔に目を奪われ、部屋から出て行く背中を後ろから抱き締めたくなった。
----まずいな…
熱を出していて良かった。半ば強制的に動けない状況でなければ自分を抑えられる自信が無い。
「好きだ…」
溜息混じりに溢れた言葉は毛布の中へ消えていった。