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 馬を走らせ、ミントンにあるインベル家に着いたのは、町が夜の静けさに包まれた頃だった。玄関先でエリスと別れ、一人応接室に通されたディルターはソファに座ってチラチラと室内を見回していた。


 ----ここがエリスさんの生まれ育った家か。質素だがきちんと整理されているし、家具も上品で住み心地が良さそうだ。


 コンコン


 扉をノックする音に反射的に背筋が伸びる。ディルターは軽く咳払いをしてから返事をして扉の方を見た。入ってきたのはエリスの母ヴェラだ。年配であるせいかトレイに茶を乗せて運ぶ姿がどこか危うげで、無意識に息を止めて見守ってしまう。


 ----エリスさんは母親似か。


 亜麻色の髪も、タレ目で優しそうな目元や唇の形も同じ。違うのは鼻や顔の輪郭だろうか。エリスは鼻が高く面長だが、ヴェラは鼻は普通でやや丸顔だ。


 「どうぞ。」

 「ありがとうございます。」

 「先にメルレアン男爵様の屋敷の方へ寄って下さったそうですね。」


 二人はメルレアン男爵邸に着いて門番に名を名乗り、用件を伝えると、『執事殿はちょうど入れ違いで自宅に帰っていきましたよ』と言われてすぐにエリスの実家へと馬を走らせた。


 「えぇ、あちらで療養中だと聞いておりましたので。ところでご主人のお加減はいかがですか?」

 「夫はただの過労だそうで。ただ、倒れた時に足を捻挫してしまいましたので、しばらくの間は自宅で療養するようにと医師に言われました。」

 「無理は良くありませんからね。でも、大ごとではなく安心しました。」


 ディルターが小さく息をついてカップを口に運ぶ。香りの良い茶を口に含んでホッとしていると、ヴェラが少し躊躇いがちに声をかけてきた。


 「不躾な事を伺いますが、騎士様は娘とどういったご関係でしょうか?」


 ディルターはカップの中の茶に視線を落としたままテーブルに置き、ゆっくりと身体を起こしてヴェラと目を合わせた。ヴェラが上目遣いに肩を縮ませているのは無理もない。夜中に馬を走らせてまで娘を連れて帰ってきた男との関係が気になるのは、母親として当然だった。


 「私とエリスさんは最近知人になった間柄です。」

 「知人、ですか?」

 「はい。」


 ディルターは二人が出逢ってからの簡単ないきさつを説明した。


 「今日は偶然エリスさんと()()()の男性が話しているところに出くわしまして。事情を聞き、ここまで送ることになったのです。」

 「そうだったのですか。それはわざわざありがとうございました。私ったらてっきりうちの娘なんかと、と…」

 「はい?」


 ディルターの眉間に皺が寄る。ヴェラは男からの一瞬の鋭い眼差しからサッと目をそらし、誤魔化すように微笑んだ。


 「いえ、なんでもございません。ところで今夜は…」


 コンコン


 再び扉をノックする音が鳴る。ヴェラは救いの女神が現れたかのようにサッと立ち上がり、少しよろけてそそくさと扉を開けに行った。


 「騎士様はこちらか?」

 「えぇ。」


 開いた扉の先には杖を片手に背筋を伸ばした年配の男が立っている。男の声にディルターは立ち上がり、軽く会釈をして礼を欠かない程度にじっと眺めた。怪我をしているとは思えない姿勢の良さに思わず感心する。


 男はエリスに支えられながらゆっくりと歩いて部屋に入り、胸に手をあてて頭を下げた。


 「貴方様が娘を送って下さった騎士様でございますね。私はエリスの父テュッセン・インベルと申します。大変なご迷惑をおかけしましたこと、心からお詫び申し上げます。」

 「いえ。これは私が勝手にやったことですから、顔を上げて下さい。」


 ----流石だな。貴族家の執事だけのことはある。


 ふと、隣に立つエリスに目を向ける。エリスのどこか暗い表情に心の中で首を傾げていると、テュッセンが割り込むように声をかけてきた。


 「今日はもう遅いので、我が家にお泊まり下さい。」

 「いえ、まだ仕事がありますのでこれで失礼します。」

 「そうでございますか。ではまた改めてお礼をさせて頂きたいと思います。」

 「本当にお気持ちだけで結構ですから、お気になさらず。」


 ディルターは丁寧に断り、もう一度エリスを見て目を合わせてから控えめに微笑んだ。


 「では、これで。」

 「玄関までお見送り致します。」

 「ありがとうございます。」


 エリスはテュッセンから離れ、ヴェラに後を任せて玄関へ向かった。開けた扉の隙間から吹き込む冷たい風に身体をフルッと震わせる。外へ出てすぐに扉を閉め、ディルターと向き合った。


 「本当にありがとうございました。ベルナント様にはいつも迷惑ばかりかけてしまって。」

 「いえ。それより…大丈夫ですか?」

 「え?」

 「浮かない表情なので。」


 月明かりの無い静けさの中で、ディルターの濃碧の瞳が闇色に揺れている。エリスは吸い込まれるような深い艶に目を奪われながら、耳の奥で鳴る小さくて重い鼓動に息を詰まらせた。


 ----なんで分かるの…


 寒い振りをして腕を抱き、視線を宙に向ける。今口を開けば震えた声が漏れてしまうのは分かりきっている。黙り込むしか出来ない態度に自分でも情けなさを感じるが、今はそれが精一杯だった。


 「すみません、余計なお世話でしたね。気を悪くさせてしまったのなら謝ります。」

 「いえ、そんな!違うんです、その…」


 肩を落とすディルターに説明したくても、身の上の話をするわけにはいかない。エリスは震える唇をキュッと結び、口角を上げた。


 「父が思っていたより無事だったので、緊張の糸が切れたみたいです。」

 「そうですか。今日はこのまま泊まるんですか?」

 「はい。もう少し様子を見ていきます。」

 「分かりました。それじゃあ…」


 ディルターは笑顔のまま俯くエリスに挨拶をして、馬を繋いでいる場所へ足を向けた。その時ふと、ルーカスの言葉が脳裏をよぎる。


 『私と彼女は書類上夫婦ではありましたが、本当の意味での夫婦ではなかったんです。』


 ----あれはどういう意味なんだ…


 どんな経緯があって偽装結婚という道を選んだのかは分からないが、周りの目を欺かなけばならない程の何か深い事情があったのは間違いない。そして母親が零した『うちの娘なんか』という言葉と、父親を支えるエリスの表情。


 ----ここは素敵な家だが、エリスさんにとっては居心地の悪い場所なのだろうか…。


 早計だとは分かっていても、そう思ったら無性にエリスを連れて帰りたくなった。ディルターは振り返り、扉の前に立つエリスに声をかけた。


 「エリスさん、このまま俺と一緒に帰りますか?家まで送りますよ。」

 「え!?」

 「えっ、いや、その」


 エリスの驚いた声が瞬時に男の理性を呼び戻す。しかし困惑しながらも、瞳の奥は縋るように潤んでいるのを見て、ディルターはギクリと肩を強張らせた。


 ----ダメだ、素直に家に送る自信がない。確実に俺の家に連れて帰ってしまう。


 目を泳がせるエリスから視線をそらせて深呼吸をする。何気なく空を見上げると雲行きが怪しい事に気が付き、そのおかげで頭が冷えた。雲の流れの速い。走っている途中で雨が降るかもしれない。


 「冗談ですよ。流石に女性を連れて夜道を走るのは危険ですからね。」

 「あ…あはは、もう!驚くじゃないですか!」

 「見送りありがとうございます。では、今度こそ帰りますね。」

 「はい、ありがとうござい…」


 大きな手がふわりと頭を撫でる。


 「髪が冷たくなってます。もういいですから、家の中に入って下さい。」


 ディルターはエリスを家の中に入れて、足早に馬を拾いに行った。


*


 夜中のうちに激しい雨が降り、翌朝エリスが乗合馬車の停車所へ行く頃には雨はすっかり上がっていた。


 ----ベルナント様、ご無事だったかしら。


 昨夜、エリスはディルターに促されて家に入り、すぐに寝る準備をした。言葉通り張り詰めていた緊張の糸が切れたのか、身体を起こしているのがつらかった。倒れ込むようにベッドに入って目を瞑っていると、突然窓の外から雨の音が聞こえてきて慌てて立ち上がった。距離的にそれ程離れていなかっただろうから、全身雨に打たれていたに違いない。


 ----普通に走るだけでもすごく寒かったのに、雨に打たれたりしたら…


 冷静になって考えてみれば、王宮から派遣された騎士団の団長に夜中に実家まで連れて帰ってもらうなど畏れ多いにも程がある。しかも帰りは雨の中馬を走らせてしまったのだ。大変な迷惑をかけてしまったと罪悪感に苛まれたが、その一方で、頭を撫でるディルターの優しさにときめいてしまう自分の愚かさにガックリと項垂れた。


 ようやく来た馬車に乗り込み、空いている場所に腰を落ち着かせる。ゆっくりと動く馬車の揺れを感じながら、馬に跨り後ろからディルターの身体にしがみついていた時の事を思い返した。武具や服越しでも分かる程の逞しい肉体は、どこを触っても硬かった。


 ----戻ったら改めてお礼を言わないと。クッキー…じゃ、さすがにダメよね・・・


 他に何かできる事はないだろうか。考えてみるが何も浮かばない。エリスは諦めの溜息をつき、言葉でお礼を伝えるだけに留める事にした。

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