1
湿った草木の匂いをスンと吸い込み、ゆっくりと吐く。
朝の澄んだ空気の中、エリスは大きなトランクと肩掛けのバッグを持って家を出た。
「気を付けてな。 」
そう言って見送るのは、三日前に離婚が成立した元夫のルーカスだ。エリスは振り返り、こめかみの後れ毛を揺らしてニコリと微笑んだ。
「ありがとう。ルーカスもね。元気で。」
それだけを言って、軽く頭を下げて踵を返す。もうすでにたくさん話し合ってきたので多くを語る必要も無い。エリスは家から徒歩で二十分程の場所にある、乗合馬車の停車所に向かって歩きだした。
「エリス、待って!」
「え?」
数歩歩いたところで立ち止まり、もう一度振り返る。すでにすぐ側まで来ていたルーカスの視線が手元のトランクに向いていることに気付いて、エリスは小さく息をついた。
「せめて停車所まで荷物を運ぶよ。」
「何言ってんの。どこに離婚した元妻の荷物を運んでやる元夫がいるの。」
「ここにいる。」
「結構よ。あなたはこれからが大変なんだから。誰かに見られて余計な噂を増やす必要は無いわ。」
「…。」
「気持ちだけもらっておく。ありがとう。」
エリスは相手を傷付けないように、穏やかに、そしてキッパリと断り、背を向けて歩きだした。
今日は朝から雲一つない青空が広がっている。新しい人生を始めるには絶好の日和だ。余程のことがない限り、もうこの場所に戻ってくることはないだろう。
エリスは荷物を担いで馬車に乗り込み、しばしの休息にフゥと息をついた。
----幸せになってね、ルーカス。
*
ホルティンベル王国の南西部にある交易都市トレンタ。
その中心街には、働く市民の胃袋を支える街一番の小料理屋『マット・グラーシュ』がある。山と海に囲まれたこの地で採れる食材をふんだんに使った料理はやみつきになる程美味く、それでいて安い。店のオーナーが独自の流通ルートを持っているからだ。
誰もが一度店の扉をくぐれば二度三度と通うようになり、気が付くと常連客になってしまっていた。
客が多く集まれば、その分その店で働く者は忙しくなる。店で働いている者の半分以上は女だ。料理を運び、テーブルを片付けながら、酒に酔った客のからかい言葉の波の隙間を泳ぐ。もちろん酔っ払いばかりではないが、この店で働く女達にとって誘惑やナンパ、セクハラなど日常茶飯事だった。
「お姉さん、名前は?」
見あげるようにして声をかけてきた若い男にチラと視線を向ける。エリスは汚れた皿を片付けながら相手に分からないように小さく溜息をつき、口角だけを軽く上げた。
「エリスです。」
「エリスか。可愛い名前だね。俺はワイバー。この辺に住んでるの?」
「えぇ、まぁ。」
「そうなんだ。」
そう言いながら、ワイバーはエリスが片付けている姿を上から下まで観察している。そして自分なりの合格基準を満たしたかのようにニッと笑い、少し声を柔らかくして口を開いた。
「ねぇ、この後時間ある?食事でもどうかな。」
「すみません、家で子供が待ってますので。」
間髪を入れずにピシャリと断る。こう言えば大抵の男は諦める。二十五歳なら年齢的に子供がいてもおかしくないので、エリスはこれを断る時の決まり文句にしていた。
「え!?あー…そっか。それならしょうがないね。」
「申し訳ありません。」
餞別代わりの微笑みを返して皿を両手に持ち、その場を立ち去る。今はまだ日が暮れ始めたばかりの夕方だが、今日だけですでに三人目だ。エリスは厨房に向かう途中で仕事仲間のアンリに声をかけた。
「アンリ、悪いけど手伝ってくれる?」
「あっ、はい!すぐに行きます!」
架空の子供を作り上げて断れるだけマシかもしれない。アンリのような若い娘は客に絡まれる度に断るのに苦労している。今も若い男達から執拗に誘われていた。どんなにハッキリ断っても、『必死になって可愛いなぁ』と流されるのだ。
厨房に入り、持っていた皿を水桶に入れていると、アンリがペコリと頭を下げてきた。
「エリスさん、いつもありがとうございます。」
「いいのよ。アンリはこれを洗って片付けておいて。私はホールに戻るわね。」
「はい、分かりました。あ、あの!」
「うん?」
ホールに戻ろうとした背中にアンリの声が追いかけてくる。エリスは足を止めて、後ろを振り返った。
「何?」
「エリスさんって、お子さんがいらっしゃったんですか?」
「いないわよ。あれは誘いを断る時の嘘だから。」
「そうなんですか!」
「アンリも『恋人が待ってるので』って言えばすんなり断れるかもよ?」
「やだ!そんな人いませんよぉ!」
アンリの顔がみるみる赤くなっていく。そうやってムキになるところが男のイタズラ心を刺激するのだという事を分かってないなと思いつつ、エリスは厨房を出た。
*
空に太陽の名残りが消えて月の色が濃くなると、街のあちこちに『灯り持ち』が立ち始める。彼らは一般市民で構成された治安組織の者達だ。大きな灯りを持って等間隔に立ち、毎日交代で街の暗闇を照らしている。
その灯り持ちの姿が現れる頃に『マット・グラーシュ』で働いている女達は仕事を終える。街が照らされ、人の往来がある間に家に帰る為だ。夜が更けるまで店に残るのは男か店のすぐ近くに住む一部の女だけだった。
「それじゃあ、お先に。」
「あ、お疲れ様です!」
エリスは近くにいたアンリに声をかけ、店を出た。夏の夜空が昼間の熱を解き放ち、涼しい風を運んでくる。心地良い空気を感じながら曲がり角に向かって歩いていると、暗闇に立つ人影がゆらりと動いてエリスにゆっくりと近付いてきた。
「こんばんは。」
「え?あなたはさっきの・・・」
「ワイバーだよ。覚えていてくれたんだ。嬉しいな。」
ワイバーは立ち止まり、ニコッと笑ってエリスを見下ろした。誘いを断った後、酒を飲み干して店を出て行ったところを横目に見ていたが、あれから随分時間は経っている。違う店で呑んでいたのか、酒の臭いが強くなっていた。
「もう仕事は終わり?」
「はい、帰るところです。それじゃあ。」
エリスは脇に抱えたバッグをギュッと抱き締め、ワイバーの横を通った。その腕に、男の大きな手が乱暴に掴みかかる。ワイバーは顔を顰めるエリスを無理矢理向き直らせ、ハリボテの笑顔を崩さず声を落とした。
「待ってよ。」
「困ります。家で子供が・・・」
「本当は子供なんていないんだろ?厨房でそう言ってたじゃないか。」
エリスの肩がギクリと揺れる。それを見て理性が切れたのか、ワイバーは取り繕うのをやめて据わった目をエリスに向けた。腕を掴む手にも力がこもる。エリスはチラと周りに視線を向けて、点在する灯りとの距離を測った。
「あんな嘘までついてよぉ。そんなに俺を避けたかったのか?えぇ?」
「手を離して下さい。大声を出しますよ。」
「…何だと?」
「周囲には灯り持ちの方がたくさんいらっしゃいます。今私が大声を出せばすぐに彼らが駆けつけてくるでしょう。でも今すぐ離して下さるのなら、このまま無かった事にします。」
「うるせぇっ!!」
「きゃあっ!!」
ワイバーの手がエリスの細い手首に移る。そのまま曲がり角まで強引に引っ張り、さらに人気のない路地に入ろうとしたところでエリスの声が響いた。
「やめて、離してッ!!誰か!誰か助けて下さい!!」
「うるっせぇな!ババァのくせにもったいぶってんじゃねぇよ!!」
「誰がババァよ!大体、あなたみたいな子供の相手なんて死んでもごめんよ!!」
「何だとぉ!?もう容赦しね…」
「動くな。」
エリスの背後から伸びた何かがワイバーの喉元で止まっている。目を見開いて声を詰まらせる男から視線をずらして、それが磨き抜かれた剣先であることに気付いた頃には、すでに数人の男達に取り囲まれていた。