上司と部下
煙草は嫌いだ。
内側から胸を刺す痛み消し去りたくて、俺は煙を勢いよく吐き出した。マルボロの匂いに、大学時代の屈辱的な記憶が呼び起される。
ベッドの脇で煙草を咥える彼女の、余裕な表情が忘れられない。俺はそれを忘却するために、あるいは忘れないためにもう一度深く息を吸った。
その時、喫煙室の扉が開かれ、女性が入ってきた。
「お疲れ様です」
「うん、お疲れ」
入って来たのは、昨日異動してきた課長だ。俺の上司にあたる。歳は五つ上だったか。
俺の隣に腰掛け、細い指が摘まんだのは、俺と同じドライメンソール。艶のある唇が味わうようにゆっくりと吸い上げ、空中に白を描いた。俺にとっては悔しさの象徴であるそれも、人によってはこうも美しい。
「君はいつもここで吸っているのかな」
「いえ、煙草は嫌いなので」
「でも吸っているじゃないか」
「ええまあ。色々あるんですよ」
「そうか」
短い会話の後、静寂の中に黒い呼吸だけが続いた。
「さて、私はもう出るけど、君は」
「もう一本吸っていきます」
胸元から、箱を取り出し見せた。
「そか。じゃあお先」
課長は慣れた手つきで火を消し捨てた。
そして出口に向けて歩き出したところで、ふと思い出したかのように振り向いて、言った。
「そのスーツさ、似合ってんじゃん」
「あんたが選んだやつだけど」
つい、言うつもりの無い言葉が口を衝く。
「ばーか」
課長がドアノブに左手を掛けた。すると小さな金属音が、丁度ライターを着火した時のように響く。
「似合う男になったって言ってるの」
俺は手に持っていた二本目の煙草を、火も点けず灰皿スタンドに叩き入れた。