第1章 1節 始まりは突然に
皆さんは「松尾芭蕉」という人物を知っていますか?
そう…俳句を詠みながら全国を旅した「俳聖」と呼ばれた人物ですね。
その芭蕉の最高傑作といわれるのがあの「おくのほそ道」。
しかし、この有名な俳諧紀行日誌誕生の裏に隠された真実を知る者はおりません…。
これは密命を受け、未知奥を旅した松尾芭蕉の記録…、
「怪奇熱血バトルアクション歴史大河ドラマ」の開幕でございます。
なお、この物語はフィクションです。登場する人物・団体・名称等は架空であり、実在のものとは関係ありませんのであしからず。
時は元禄2年。
関ヶ原の戦いを制した東照大権現徳川家康様より5代後、「犬公方綱吉様」が治めます江戸の世でございます。
最近では「天空櫓」なるものもお見えし、人気絵師が浮世絵にも描くほどの新名所となりまして、江戸の町はますます活気を帯びておりました。
そんな時代のお話でございます。
さて、物語の主人公芭蕉は、深川のほとりに小さな庵を構えておりました。
庭先に門人が植えた大きな芭蕉の木があったことから、皆から「芭蕉庵」と呼ばれ愛されておりました。ちなみに芭蕉というペンネームもここから拝借したという話でございます。(諸説あり)
桃の香りを運ぶ暖かい風が時折、いたずらに強くなるのに手こずりながら、芭蕉庵の前をせっせと掃いている娘の姿がありました。頭に着けた大きなリボンが、口ずさむ数え唄に合わせてテンポよく揺れています。
この娘の名は「河合ソラ」。
芭蕉の弟子中でも優秀な人物を「蕉門十哲」というそうですが、その一人に入るほど、たいそうな娘なのであります。
また皆から「芭蕉先生の舵をとれるのは、ソラしかいない!」と言われる人物でもありました。でもね……その理由はソラの優秀さより、芭蕉の性格そのものにあるんですけどね…。
「あ、せんせーい!」
ソラが手を振る方向には、通りをこちらへ歩いてくる芭蕉の姿がありました。
すらりとした長身、ポニーテール状に束ねた美しい長髪…。口元を扇子で隠しておりますが、見える目元は涼しげで凛々しく女性的な美しささえあります…。男女を問わず行き交う者が思わず振り返り、足を止めため息を漏らすほどの容姿を持っておりました。毎日見慣れているはずのソラでさえ、改めてうっとりする始末でございます。
「お帰りなさいませ。帰りは歩きだったんですかぁ?」
ソラが不思議そうに芭蕉に尋ねたのには理由がありました。芭蕉は今朝、お殿様しか乗らないような立派な駕籠の迎えで出掛けていったからです。
「いえ……しばらく江戸の町も見れなくなるなぁ~と思いましてね…。」
涼しげな口元から発せられる甘く優しい声に目眩がしそう…ですが、芭蕉が言った言葉にソラは違和感を覚えました。
「ちょっと旅に出ます。」
「は?」
「そういうことでソラさん。庵を売りに出してください。」
「え?!」
「もちろんソラさんにも付いてきてもらわないと困りますよ。私一人じゃ何もできませんからねぇ~。はははは…。」
芭蕉は眼を線にして、美しく笑っていました。
「えぇーーーーーーー!!」
そうなのです。これが松尾芭蕉という人間なのです!
ザ・ノン・エア・リーダー!(空気読まず)の自由人!!
「ちょ…ちょっとの旅で…庵を…売りに出されるのですか?」
しどろもどろと未だ脳内が整理されていないソラからの質問に、芭蕉は空を仰いで答えました。
「白河の関を越えようかと…。」
「し…白河って、みちのくじゃないですかーーー!」
確かに「ちょっと」の範疇を越えています。
「道祖神が呼ぶんだよねぇ~。ははははー。」
「答えになっていませーーーーーーーーん!!!!」
桃の香りを運ぶ暖かい風が、時折いたずらに強くなり、芭蕉の髪とソラの大きなリボンを揺らしていきました……。
いや、ソラのリボンは、はたして風で揺れていたのでしょうか?
今となっては誰も知る由もありません…。