リスクマネジメント
「お前が好きだ。付き合ってくれ」
変哲もない日常。人生何回目かの告白を受けましたマル。
見たところ、異性の目を気にしているファッション。清潔感を重視した身嗜み。流行よりも生地そのものの質の良さを優先している辺りは若さにそぐわないが、機械的な判定はすべて合格点を付ける。
良い男だ。若干荒い言葉遣いも自らの印象に合わせているのだろう。良いお家で育った若犬。甘く誘う砂糖の中に一つまみの刺激を散らす手腕は意図的に思えた。
そんな人間が私に?鼻で笑ってしまう。
私、春日光は。まるで物語みたいにファンクラブを抱え、女を侍らせる男に魅力を覚える程阿呆ではない。断じて有り得ないとさえ言ってしまえるぐらいだ。
男が名前も名乗らずに告白したのは、名乗る必要がないから。そして、私がそれを断るのはこの男が必要ないから。
男の名は新田康司、新田家の次男。古臭い言い方をすれば大地主の次男だ。実際のところ、辣腕を振るう当主の下、新田の家は不動産業でぶくぶくと肥え太っている。お蔭さまで政略結婚バンザイ!とばかりに縁組が飛び交うお家だ。まあ、わからんでもない。あるかないか不明な愛よりも利益である。
リスクとリターンの差し引きがどう考えても合わない。不幸にして、春日もある程度は釣り合いが取れる家だが、交際しました結婚しましたおめでとうで済む訳がない。
春日の家は伝統芸能の大家だ。しかし、芸術家の常として金の問題が付き纏う。パトロンありきの生活は非常に不安定で立場も言わずもがなだ。そんなところに大口の金主を引っ張ってもみろ、乗っ取りに遭うのがオチだと光は冷徹な視座で切り捨てる。
「金目当ての輩に殺される未来が見えるわ」
敢えて物理的にとは言わない。むしろ、そちらの方が生易しいだろう。康司が手を出した女がひっそりと消えていなくなっているのは、目端の効く者の間で有名な話だ。『間引き』されている、と。
順当に考えれば、ライバルを蹴落としたようにも思える。だが、光は内部の勢力争いの一環ではないかと推測した。人を引き寄せる次男、実に危険な存在ではないか。内乱の種を芽吹かせたいと願う野心家にとって格好の的だ。それはたとえ、我が娘を宛がったとしても。
忘れてはいけないのは、周囲がどれだけ手を出しても主導権は新田にあることだ。地力が違う。つまり、今光が握っている情報自体が信用に値しないという悪夢にも似た現実。
気を許してはならない。そうすれば破滅だけは避けられるはず。
有閑マダムの会話から情報を引き上げる術は知っていても、泥臭い攻防はまったくの素人。それなりに便利で絶対に無害な存在であることが春日の存在意義なのだ。
「誰からだって護ってみせる。俺を信じてくれ!愛しているんだ」
康司の要求は変わらず突き付けるのみ。なんだと言うのだ、これは。交渉術がまるでなっていない。
誰が愛を望んだ。貴様は破滅の使者だろうに。康司は理解していない。巨人は歩くだけで取り返しの付かない破壊を招くことを。
だいたい、女に現を抜かして良い立場か。背負った責任を噛み締めろ。これ程不快に思った私人も公人も初めてだった。
「愛で飯が食えるかたわけ。作り話の中ですら、愛には庇護が求められている。貴様はその庇護をする立場ではないか。恥を知れ、恥を」
言い切った瞬間、ゾワリと血の気が引いた。康司が笑っている。あれは、駄目だ。獲物を見つけた瞳だ。獲物は、私。
弧を描く唇から息が漏らされる。さも感嘆したように。そうだ、主導権は新田にあるのだ。
初めから私にはない。形はどうあれ頷く以外の選択肢はない。
理屈で弾こうとしても力が足りない。感情でも動けない。よりにもよって、新田に言質を与えてしまっている。
「捕まえた」
腰が抜けた体を愛おしそうに康司が撫でた。逃げられない。絶望は果てしなく甘く、それ以上に苦かった。