虫
トワンは決して走ろうとはしません。らくだ色のコートのポケットに両手を突っ込んで、滑稽なほどのがに股でひょこひょこと、まるで音楽を楽しんでいるかのようにゆっくりと頭を左右に振りながら歩くのです。ぼくがこのスピードをどんなにもどかしくじれったく思っているか!
ぼろのらくだ色のコートはしみだらけで、ところどころ虫に喰われていて、きっと一度も洗濯に出したことがないに違いありません。ぼろと言えば、トワンの靴だってひどいものなのです。底はすっかりすり減っちまっていて、革はけばだって色がまばらになっています。ぼくがもしトワンと同じ格好をしなければいけなかったら、歩道のど真ん中を我が物顔で歩くことなんてできやしません。恥ずかしくて路地の裏の裏の方へと行きたくなるに決まっているのです。そう言う意味では、この男はなかなか胆力があり、我というものを美しく保っているのではないでしょうか。こうやって並んで歩いていると、ぴしっと糊の利いた淡い青のシャツを当代風に着こなすぼくの方が、なんだか恥ずかしい存在のように思えてくるのです。ぼくがライオンになりたいのであれば、人の目を気にしてきょろきょろするのはもう止そうと思います。そこはトワンを見習わなければいけないところだと思うのです。
ぼくはパンナのことを、一瞬、一瞬で忘れたり思い出したりを繰り返しています。落ち着きを取り戻すためにもパンナ以外のことを考えようと思うのです。例えば、トワンのらくだ色のコートのこととかです。ほんのひと時はらくだ色のコートのことで頭がいっぱいになるのですが、次の瞬間にはパンナが割り込んでくるのです。水色のお尻と、すてきな笑顔で乱暴に割り込んでくるのです。ぼくはいま、パンナのことを考えたくはないのです。パンナのことを考えれば考えるほど、醜態を晒してしまうような気がするのです。
どうして、ぼくの中心にパンナが巣を作ったのか、住み着いてしまったのか、その謎をぼくは解き明かさねばなりません。そもそも、ぼくはこのようにほんの短期間で一人の女性に熱を上げるような、尻の軽い人間だったのでしょうか。それはありえないのです。ぼくが今まで生きてきた中で、何を避けてきたのかと言うと、つまりは女性なのです。女性は怖いのです。女性は狂気を生み出し、全てを巻き込んでゆきます。淫らな指遣いで糸を操り、ぼくをくるくると絡めとり、血がにじむほど爪を食い込ませて容易には逃げ出せないようにしっかりと固定し、ぼくの芯に舌を突き刺して、ぐりぐりとなめまわすのです。ぼくがからっぽになるまで、微細なとげとげが無数にある舌で、すみずみまでこそげとろうとするのです。甘美な装いをもって……決して焦らず……爪の先まで尖っていて……真っ赤な唇で……猥雑に……上品に……思わせぶりで……瞳をラピスラズリのように光らせて……暗闇の中で……鼻を鳴らしながら……愛してる……愛してる……そして最後には……ぼくの顔に唾を吐きかけ、嗤って去ってゆくのです! お行儀悪く食い散らかして次の獲物を探すのです!
これだけの理解をもってしても、ぼくはまだ心のどこかで女性を信じていたと言うのでしょうか。何らかの不可解なエネルギーが関与しているようにぼくには思えて仕方がないのですが、つまるところことの発端は、ぼくとパンナの乗っている電車が一緒だったというたったそれだけのことだったのではありませんか? ぼくはその事実に何らかの意味を持たせてしまったのではないですか? 意味の意味を間違えてしまうと、全てを間違える結果になりやしませんか?
ぼくとパンナの出会いは今までの全ての出会いと何が違うのでしょうか。出会う前と出会った後で、何が変わったのでしょうか。今までずっとぼくもパンナもそれぞれを生きてきたはずなのです。極めて近い距離の中で、ぼくとパンナはぐるぐるぐるぐるとそれぞれが勝手に動いたり止まったりしていたはずなのです。お互いがお互いを認識した状況と今までそれぞれがそれぞれだった状況と、どこがどう違うのでしょうか。存在と存在が反応しただけのことで、ただそれだけのことで、ぼくは何をそんな、大袈裟に悦んだり哀しんだり、心臓を複雑な律動のただ中に置いたり、存在の不在に痛みを錯覚したり、大袈裟なのです、なにもかもが。ぼくはもっと、土に顔を近づけて小さな虫を虫眼鏡で見たり、草花を分類したり、そう言ったことにぼくの体や感動を使うべきなのではないでしょうか。ひとりの女性よりも、無数の小さな虫たちの方が驚きに満ち溢れているのではないでしょうか。あんなに小さいものが、あんなにすごいスピードで、色んな色で、飛んだり、隠れたり、食べたり、食べられたり! ぐるぐるぐるぐると無数の虫たちが生まれたり死んだりを繰り返すのです、だけどそれぞれはそれぞれの個で、ぐるぐるぐるぐると、動き回って、死んでゆくのです。そんな世界をぼんやりと眺め続けているほうが、ひとりの女性を眺めたり触ったりするよりもよっぽど、意味のあることのように思えてきますし、意味があって欲しいと強く願っているのです!
パンナのお尻を眺め続けていたら、ぼくはいつの日か、そのお尻に限界を見出すのではないですか。パンナだってぼくに何を見ているのか知りやしませんが……なにも見ていないのかも知れませんが……そんなものはいつの日か、思ったよりも近いうちに、風に巻かれて遠くの方に消え去ってゆくものなのではないですか。
それでも、パンナが握ってくれたこの手を、ぼくはまた見つめるのですか。ぼくの手です! なんにも変わっちゃいません! 昨日までと一緒、ぼくの手です! パンナの顔、あんなに近くに……手を伸ばすよりも、唇を重ねた方が早いくらいの距離に……どうして、ぼくはあの時……パンナに触れなかったのでしょうか。あれほど触れたくてたまらなかったのに、ぼくの頭の中はそればっかりだったと言うのに、ぼくは何故自分を誤摩化して吠えてしまったのでしょうか。ぼくはあの時、ぼくがライオンになったような気でいましたが、ありえるわけがないのです。ぼくはあの時、嘘をついていたのです。ぼくは本当は、パンナをそのままポケットに詰め込んで、部屋に持って帰りたかったのです!




