メトロノーム
『メトロノーム』
おもりをてっぺんにやり、ネジを緩めて弾くとき、リズムとともにそれは生まれる。
彼が始めて見たものは、長い長い木の廊下。
彼は四足歩きでのんびり進む。
初めの速度は遅く、おもりが落ちるのもまた、蝸牛のごとし。
彼がその端に辿り着くころ、そっちじゃないよと声がする。
こっちにおいでとこだまする。
振り向けば、廊下の向こうに誰かいる。四足歩きで急いで向かう。
長い長い廊下の終わりに立つ人影は、実の母親であった。
母親は、優しい優しい声で言う。
よくできました。
彼はにわかに嬉しくなって、元の位置へと引き返す。
母の元まで向かうたび、何度も何度も褒められるから、それがあんまり嬉しくて、何度も何度も繰り返す。
長い廊下を行ったり来たり、チクタクチクタク繰り返す。
しだいにおもりはずり落ちて、テンポは自然と速くなる。
四足歩きも速くなる。
気付けば足は、二本になって、気付けば場所は、道路になって。
家と学校を行ったり来たり。チクタクチクタク繰り返す。
土日に休む、暇はない。寝ても覚めても勉強ばかり。
〝よくできました〟が聞きたくて、毎日毎日繰り返す。
毎日毎日勉強ばかり。チクタクチクタク繰り返す。
彼はどんどん大きくなって、テンポはしだいに速くなる。
気付けば大人になって、母はお墓になっていて。それでも彼は、繰り返す。
自宅と会社を行ったり来たり。チクタクチクタク忙しない。
よくできましたが恋しくて。よくできましたが嬉しくて。
けれども中々言われない。よくできましたと言われない。
皆が皆、チクタクチクタク繰り返すから、それ以上じゃなきゃ言われない。
おもりはどんどんずり落ちて、テンポはますます速くなる。
彼もますます速くなる。
チクタクチクタク速くなり、それでもチクタク繰り返す。
どこか遠くで声がする。優しい優しい声がする。
おもりはとうとう落ち切って、テンポはとうとう立ち止まる。
繰り返して来た人生で、彼は一度も休まなかった。
彼は一度も止まらなかった。
遠のいていく意識の中で、たった一人の拍手喝采が起き、優しい優しい声がする。
「よくできました」