第3章−2話
あれから十分後、空はますます濁っていた。
麻里はまだ来ていない。わたしはというと、麻里を待っているのか待ってないのか分からなくて、できれば来て欲しくないとも思ってたし、来たら来たで何かが変わりそうで、もどかしかった。
その時だった。
「香織っ」
呼ばれた。
振り向く。
「おまたせぇ。ほんとはもうちょっと練習する予定だったんだけど、なんかこの天気でさぁ。ランニング?そんな感じのやつをしてたら雲がこんなんになってて。元々テニス部は部員も少ないし遊び感覚で入部した人ばっかりだったから異議無しで練習中止、って決まったの」
笑顔すぎる。
こんな素敵な笑顔を持つ麻里を、裏切っていいのだろうか。
いや、わたしはこの笑顔の持ち主に裏切られたのだから、仕返ししていい権利は充分にある。
なのに・・・・・・なのに心が締めつけられる。
悲しい。
復讐でしか事を片付けられない自分が悲しくて憎い。
「良かったぁ。じゃぁ早速デパート行かないと。すぐ本格的に降りそうだもんね」
それでも感情を押し殺して、わたしは震える口で言った。
「え・・・・・・行くの?普通やめない?こういう時って」
麻里はわたしを信じられない様子でながめた。
「そうなの、かな。でも、屋内だから心配ないよ。それに、家に帰る途中で降ってくるよりここから近くのデパートに・・・・・・雨宿りっぽく寄ったほうが、ひまつぶしにもなると思うし。それにもしかしたら通り雨ってこともあるし」
自分でもめちゃくちゃなことを言っていると分かっていた。
なんとなく矛盾しているような気がする、しかも雷が珍しいくらい堂々と鳴っているのにいちいち午後の予定どおりに動こうなんて提案するなんて。違和感がありすぎる。でもわたしはどうしても後にひけなかった。ひきたくても、そんな勇気わたしには皆無だ。
「ねぇ、こんなこと話してるうちに」
肩にポツッと水がおちて、服にじわりと染みこむ感触がした。
「降ってきちゃったよ」
麻里がそう言い終わったころにはもう土砂降り。
ザーザー降る雨のせいでわたしの前で立つ麻里の姿がまるで、霧に隠れてしまったみたいにはっきりと見えなくなるくらいの大雨だ。水の長く細い、そうめんのような糸でできた白いカーテンで隠れた自らの下半身。麻里がこの前言っていた『いるのにいない』というのはまさにこのことだったのかと、初めて首を縦に振った。
時間だけが過ぎていく。
雨の勢いが強くなるにつれて時間のスピードも速くなる。
いつのまにか自分が酸性雨でドロドロになる像のようになってしまうような恐怖感を覚えていたわたしは、内心あせっていた。
「香織・・・・・・かさ持って、ないよね」
わたしの肩から腰のほうまである、水色のショルダーバッグの中に折りたたみ傘なんかが入っているんじゃないかと考えたのか麻里は、少し遠慮がちに聞いた。
わたしはあいにくそんなもの入れた覚えはまったくといっていいほどなかったけど、即座に「ない」と言えばますます雨が止む率が減りそう。自然はわたしたちに味方してくれない。
もう嫌っ、そう叫びたくなったわたしはバッグの中身が濡れるのを気にすることなくファスナーを全開にし、ガサガサと無駄に多い小物をかきわけ麻里のお目当ての品を必死に探した。こうして心の中で居場所を求めて暴れまわる感情を抑えた。
しばらくしているうちにそれらしきものがないと認識してもわたしはあきらめきれず、仕舞いにはバッグを逆さまにして中身を全て道に吐き出していた。小物と道がこすれたりぶつかり合ったりして出る様々な音が、心を虚しく刺激する。
もう泣いてしまおうかとも途中で思った。
でも一つ一つぎこちない動きをする手でチェックしてるうちに冷静になった。
無いと分かっているものがいつのまにか入っているなんてことが起こるわけもない。
もうしょうがない、わたしはこういう人なのだ。
川のように水たまりが連なっている道にひざをつく無様な格好で、
「ごめん。無かった」
と言うことしか情けなくてもできなかった。
わたしは一度、心の中で恨むことに挑戦して結果挫折したことがあるけれど、これは挫折というよりはしょうがないことのような気がした。
性にあわないことはしないに限る。
もうわたしは復讐など、どうでもいいと感じていた。
そしてそのとき、
「行こうデパート」
麻里は怯えているわたしに気づかずそう言った。
「ほ、ほらわたし、こっからだと家よりデパートのほうが近いからさ。だから、別に香織のためとかじゃないから。気にしないでね」
「う、うん・・・・・・」
適当にうなずきながらも内心わたしは麻里に感謝していた。
わたしをいじめてきた、麻里に感謝していた、心から。
といってもわたしの熱い復讐心をふたたび燃やしてくれたからではもちろんそうでなく、ただ、ただ・・・・・・わたしは今まで同じ年代の子の家に遊びに行ったりいっしょにどこかに出かけたりとか、そういう経験が一度もなかったのだ。お父さんもお母さんも一人っ子だったため、いとこ、という存在がいなかったせいでもあるけど、何だかんだ言って一番の原因はわたしの雰囲気、性格にある。人を寄せつけない独特の暗い雰囲気と、人とうまく付きあえない不器用な性格。自分で言うのも変だけど、この二つが合体すれば最強だ。なかなか誰もわたしに関わろうとしてくれない。
事実そうなってきたし、今だってそうだ。もうこれは何度もいうけど認めている。でもやっぱり我慢してきた。普通とちがう人生を拒んでいた。だいたい普通って何なんだろうと、真剣に考えていたほどだ。
でも、やっぱり普通の第一条件は友達がいることだろうなぁとどこかで決めつけていて、いつのまにかわたしの中で麻里と仲良くすることが幸せへの第一歩、という思いが強くなっていた。
いくらひどい麻里でも、いないといないでわたしは困る。
まだ自分のことも分からないけど、これだけは言える。
「ジャジャーン」
下を向いていると突然、麻里が嬉しそうに言った。
びっくりして首を45度の形に傾ける。
麻里の手にあの傘がある。くるっと杖のように曲がった部分のある、折りたたみなんてコンパクトすぎる道具じゃない、柄が独特の形であるあの傘を麻里が持っている。
「ずっと持ってたんだよ。なのに香織、全然気づかないからおもしろくなって隠してたの。ごめんね、ごめん。ちょっとふざけたつもりだったのに、香織の荷物、全部ぬらすことになっちゃって」
一瞬にして、わたしの全身は軽くなった。
こうしている間にも制服は濡れているのに、それすら感じさせないほどカラッとしていた。
「ううん。大丈夫。ていうか、早く差そうよ、持ってるんなら。もうずぶ濡れだから・・・・・・意味ないけど」
顔を見合わせてわたしと麻里は微笑んだ。
そして麻里はオレンジの傘をバッと差し、入れ、とでも促すように肩を首のつけ根のほうに縮こませ、傘の下に広がる小さなスペースの左半分を空けた。
わたしはゆっくりとそこに入った。テニスラケットの入った長い麻里のスポーツバッグで、わたしの左肩はその狭い空間に入ろうともしてくれない。それでもわたしは、半分ポッカリと空いた空白を最大限に活用できるよう優しく埋めるよう努めた。せっかくの麻里の気持ちを、無駄にしたくなかった。
止まない雨はない。
雨は幸福の一歩手前。
そう信じて、わたしは麻里と共に目の前に広がる長い長い道を歩きはじめた、恥ずかしいけどやっとそうなれたのかもしれないしれなかった。
「なんか、わたしたちおかしいね。デパート行くだけでこんなに色々喋りあわないといけないなんて」
麻里の言葉に、純粋で素直な笑みが思わず、頬にこぼれた。